タブガチュ

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  • ビルゲ・トニュクク回想録――超訳突厥碑文

    遊牧民目線の歴史小説の触りです。

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    2022年6月7日更新

    大唐国の御稜威は日本にまで及び、その律令は日本の律令制の模範となった。日本の文学にも多大な影響を与え、その影響は現代にまで及ぶ。当時の大唐は仰ぎ見るべき存在であり、世界屈指の超大国にして先進国であった。 日本にとり、大唐の顕著な遺産は漢字である。漢字とは漢人の文字である。我々日本人の目には、大唐とは恰も漢人の正統な王朝であるかのように見える。しかし、畜に随き水草を逐う北狄の民からは、タブガチュと呼ばれていた。 タブガチュとは、北魏を建国した鮮卑拓跋部に由来する。つまり、漢人の王朝ではないのである。蒙古の大元、満洲の大清の如く異民族による征服王朝なのだ。 北魏滅亡後、東西南の抗争の末、普六如氏の隋が漢晋の故地を統一した。隋が滅んだ後、大野氏により再び統一された。いずれも北狄からはタブガチュと呼ばれた。 大野氏は恰も李信、李広の子孫であるかの如く李姓を名乗った。そして周室の正統な流れを汲む国号を選んだ。その国号が「唐」である。それ故、現代の日本人や中国人にも、大唐は、恰も漢人の正統な王朝であるかのように見えるのである。 大唐の御稜威は大漢を凌ぎ、大清と並ぶ。しかし、端から盤石であった訳では無い。北狄のテュルクが、漢に対する匈奴の如く、強敵として控えていた。テュルクとは漢籍に記されるところの突厥である。その強盛の前に、タブガチュも平伏すこと屡々でった。 テュルクが最も盛んだった折、東は契丹、高句麗に隣し、南は大唐に臨み、西はサーサーン朝ペルシャに接した。その名はコンスタンティノープルにまで轟いた。驕れる者は久しからず。大唐つまりタブガチュに李世民が現れた。李世民はテュルクを制して軛を架した。テュルクの民は李世民をテングリ・カガンとして仰ぎ見た。 テングリ・カガンもとい李世民の御魂が神上がった後も、突厥は未だタブガチュの踵の下に居た。しかし、それに甘んじない気骨のある者たちも残っていた。

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