無限に広がるような菜の花畑の中に、ぽつんと存在した安普請の下宿。 五歳ほどのころ、『私』はそこに住んでいた。両親は大学も出ずに自分を産んでの三人暮らし。 両親自身がまだうら若く、すり減るような心労を抱えて子育てをしていたころ。 『私』は夢を見た。三十路を過ぎてもなお『私』はあの夢を超える恐怖を知らない。 怪獣が出るでもなく、父母に酷く怒られるわけでも、迷子で独りぼっちなわけでもない……。 それはとてつもなく恐ろしい夢だったが、同時にあまりにも鮮烈で麗しく、心惹かれる夢だった。 菜の花香る春の月夜に、幼い『私』を迎えにおばけが来る。 それは、鮮やかな紅色に、黒い糸菊模様の着物を着て。 艶のあるおかっぱの黒髪の下に、表情のない狐のお面を付けた。 暖かな色の紙提灯を下げて歩む、出来すぎたほどに華麗な女だった。 恐怖の夢が終わって、四半世紀の時が経ち。 『私』は純粋な幼いころを忘れ去って、擦り切れ腐った女として世を渡る。 もう恐怖はない。 だがあの夢を忘れられない。 春が来るたび、思い出す。ぬるい風の吹きすさぶ、菜の花畑の月の夜。 そして、私は……。 ※この作品は「小説家になろう」さまに同名義で重複投稿しております。