お金で買われてほどかれて~社長と事務員のじれ甘婚約~

読了目安時間:8分

2-3.気持ちの行く末

 雪生(ゆきな)は迷っていた。このまま店に行くか、自宅に帰るかで。先程までいた『グレイス』本店は駅近くということもあり、どちらにでも行ける。時刻は現在、十八時過ぎ。美土里(みどり)は昼から店にいると、送ってくれたときに言っていた記憶がある。  もやもやした気持ちながらも、体は軽い。肩や腕もちゃんと施術してくれたおかげか、凝りがほぐれている感じがした。紅子(べにこ)に痣のことを揶揄されなくてよかったと思いながら、地下の歩道空間を歩く。帰宅ラッシュ時ともあってか、人混みが凄い。 (お店に行こう。『グレイス』のことも話したいし、写真だって消してもらわなくちゃ)  一体いつの間に、美土里は自分の写真を撮ったのか。本当にわからない。もしかしたら、両親に見せるためなのかもしれないが、隠し撮りされたことに多少の腹立たしさはある。  途中、スタッフのためにとドーナツを買って、電車に乗った。十分程度で店の最寄り駅に到着する。地下から出て歩道を歩いた。並ぶオフィスの店舗には窓から光が灯っており、すれ違う人々の数もまだ多い。  藍色と橙、二つの色に染まった夜空を見ながら先を急ぐ。四月中旬の風は少し、生温い。外の空気がちょっとだけ、気分を安らげてくれる気がした。  歩いてしばらくすると『プロタゴニスタ』の駐車場が見える。そこに入っていく赤い外車も。他は美土里や浅川(あさかわ)の車だけで、浅川の車は青かったはずだ。外車でもないし、客のものだろうかと小首を傾げた。  自分も駐車場へと入り、二階の事務室に続く裏口に上がろうと階段に足をかけた、そのときだ。 「おい、そこの黒髪」  車から誰かが降りてきた音がして、顔を上げた。そこには一人の男が立っている。黒髪、とは自分のことだろうか。周りを見るが他に誰もいなくて、つい足を止めてしまう。  男はテーラードジャケットにスキニーというフランクな格好をしていながら、威圧感がひどい。癖のある赤毛と鋭い、鷹のような焦げ茶の瞳を持つ男は、車に寄りかかってこちらを見ている。 「あの、私のことでしょうか」 「ここにお前と俺以外誰がいる」  何その言い方、と心の内で文句を返しながらも、できるだけの愛想を浮かべた。 「なんでしょう」  「広宮(ひろみや)美土里を呼んでこい」 「……社長を、ですか?」  思わず警戒し、背筋を伸ばして男と対峙する。 「社長にお目にかかりたいのであれば、アポを取って下さい」 「野々宮(ののみや)が来たと言え」  尊大な物言いを崩さない男の言葉に、思わず、あ、と言葉を漏らした。 「『グレイス』の社長……」  ライバル店『グレイス』の社長が、なぜ今、こんなところにいるのだろう。漏れ出た呟きに、男――野々宮貴江(たかえ)は腕を組んで鼻を鳴らした。 「わかっているなら話が早い。野々宮貴江が来たと言えばいいだろう」 「言え、と言われましても」 「お前、秘書じゃあないのか」 「私がですか? 違います」  あからさまに舌打ちされて、雪生の気分は一気に急降下した。どうにもこういうタイプは苦手だ。男性全般に慣れているというわけでもないけれど、特に貴江のような高慢さを隠さない男は、自分にとって天敵と言える。 「……(みやこ)、雪生か?」 「えっ……」  さっさと店に入ってしまおう、そう思ったとき、不意に貴江が自分の名前を口にしたものだから、驚いた。それでバレた。にやりと唇をつり上げ、大股でこちらに近づく野々宮を見て、体が硬く強張るのを感じた。 「なるほどな、お前が美土里の婚約者か」  からかうように笑われ、全身をくまなく見つめられる。不躾な視線だった。少し腹立たしくなり、顔から愛想の笑みが消えたのが自分でもわかる。 「すぐに社長を呼んできます。それまでお待ち下さい」 「ああ」  どうして彼が自分の顔を知っているのか疑問に思ったけれど、答えはすぐに出た。多分、美土里が話したのだろう。紅子に話したと言うなら、その繋がりで貴江が自分のことを知っていてもおかしくない。  少し早足で二階への階段を上がる。横目で確認したとき、既に貴江は車へと戻っていた。鞄から鍵を取りだし、裏口から中に入る。通路を歩いて事務室に向かう最中、近くにある休憩室、すなわちスタッフの待機室から笑い声が響いているのが聞こえた。  部屋の扉が僅かに開いていたから、こっそり中を覗いてみる。そこには美土里と真殿(まどの)、それから数人のスタッフが楽しげに笑い合っている姿があった。 「社長、このケーキ美味しいです~」 「そう? 喜んでくれて嬉しいよ。人気がある店のやつなんだ」 「生クリームがいい味ですねえ。今度場所、教えて下さい」 「駅の近くにある手作りの店なんだけど、結構並ぶよ。だから僕がまた今度買ってくる」 「やだ、優しい~」  どうやら、美土里がケーキの差し入れをしていたようだ。はしゃぐ声を聞き、思わず持っていたドーナツの箱を後ろ手で隠す。チェーン店のドーナツとお洒落なケーキでは、どう考えてもこちらの分が悪い。  こっそりため息をついて、そのまま事務室に向かった。美土里と真殿が休憩室にいる、ということは、事務室には浅川が残されているだろう。なぜか今、美土里を中心とした談笑の輪に入る気にはなれなかった。  事務室を数回ノックしてから中に入ると、やはり浅川がいた。夜とあって、サングラスではなく眼鏡をかけている彼は、こちらを見るとキーボードを叩く手を止める。 「お疲れ様です、浅川さん」 「ああ。都、今日は休みじゃあなかったのか」 「ちょっと店に用事がありまして……と言うか、社長になんですけど。あの、浅川さん、外に『グレイス』の社長が来てらっしゃいます」 「野々宮さんが? わかった、社長を呼んでくる」 「ありがとうございます。駐車場で待っていらっしゃいます」  浅川はうなずくと、ふと、雪生が机に置いたドーナツの箱へ視線をずらした。 「それ、ドーナツか」 「はい。皆さんにと思って買ってきたんですけど、ケーキの差し入れしてるようでしたし」 「……チュロス系、あるか。クリームがないやつ」 「え、ええ。ありますけど……食べますか?」 「戻ったら食べる。置いておいてくれ」 「わかりました」  言って、浅川が外に出ていくのを驚いて見ていた。浅川は口数が少ない方だし、ほとんど接点はない。だから甘いものを食べる様子なんて思いつかなくて、ちょっと、笑う。  しばらく自分の席に座った後、頃合いを見計らって給湯室の方に向かった。スタッフはまだ休憩室にいるのだろう。誰とも顔を合わせなかった。コーヒーを作り、また事務室へ戻る。一つは浅川用に、ブラックだ。一応コーヒーフレッシュと砂糖は用意しておいた。  クリームの入っていないドーナツを二つ、持ってきた皿に載せて、浅川の机に置いた。それとコーヒーも。自分も箱からドーナツを取りだし、好物の一品を食べはじめる。 「残りは明日、原さん方にあげればいいかな」  呟き、部屋の隅っこにある冷蔵庫へ箱ごと入れた。  それにしても、と口をハンカチで拭きながら、今日一日のことを振り返る。とても疲れた。精神的な疲労感が押し寄せてきていて、憂鬱な気分だ。紅子と貴江、二人と会って、いいことなんて一つもなかったように思う。 「……マッサージ、全然覚えられてない」  順番はなんとなく頭に入っているが、手の使い方が全くわかっていなかった。全部、胸にあるもやもやのせいだ、と顔が強張る。こうなったらさっさと帰って、簡単な本でも買おう、そう決め、帰り支度をはじめたときだ。 「都くん、来てるんだって?」  事務室にひょっこり顔を現したのは、誰でもない、美土里だった。 「お疲れ様です。今から帰るところです」 「僕に用があるって浅川から聞いたけど?」 「お忙しいようなので明日にでも。それより野々宮社長とのお話し、終わったんですか」  自分の声が固い。それでも美土里は気にすることなく、扉を閉めてにこやかな笑みを向けてきた。 「大したことない話だったからね。早々に終わらせてきた」 「浅川さんは?」 「なんでそこであいつの名前、出てくるの」 「ドーナツ、余るようなら冷蔵庫に入れてほしいと伝えて下さい」 「え、差し入れ? 僕も食べたい」  ケーキ、食べてたでしょう、と内心で思い、呆れたため息をつく。そんな様子を見て、美土里が軽く眉を顰めた。 「都くん、少し機嫌悪いね。もしかして『グレイス』で何かあった?」 「木場(きば)さんに会ってきました。社長、私の写真持ってるって本当ですか」 「どうしてそんな話になったんだい」  美土里の顔が一瞬焦ったようになったから、本当だな、とピンときた。持ちかけた鞄を置き、美土里を睨みつける。 「今すぐ消して下さい。ここで」 「……消したらまた、撮らせてくれる?」 「なんでそうなるんですか。嫌です。いつ撮ったのか知りませんけど、隠し撮りみたいな真似、しないで下さい」 「じゃあ消さない。あれ一枚しかないし」 「子供みたいな駄々、捏ねないでほしいんですけど」 「なら、交換条件って言うのはどうかな」 「はい?」  間抜けな声を出した自分の前で、美土里が胸ポケットからスマホをとりだした。 「これから夕飯、一緒に付き合ってくれたら消す」 「なんですかそれ……」 「デート。君は僕の婚約者だし、それくらい、いいじゃないか」  突きつけられた画面、ずらりと並んだ写真には、確かに一枚だけ自分が映っている。紅子の言う通り隠し撮りのようで、ナースステーションの横を通り過ぎている姿があった。  婚約者という言葉に、なぜかまた胸が軋む。お飾りで、偽の婚約者。そんなものになんの意味があるというのだろう。しかも次はデートときたものだ。確かにキスは許してしまったが、順番があべこべで頭も心も追いついていかない。  大きく息を吐く自分に、美土里はあの不敵な笑みを浮かべて胸を張る。 「それに、ここで『グレイス』の話をするわけにもいかないだろう? どのみち二人きりにならないと話せないことなんだから。いずれ二人で出かけるのは決まってたことだよ」 「まさか、それも狙って私に行かせたんですか?」 「違う。マッサージは別物。まあ、そう怪しんでくれても僕は一向に構わないけどね。さて、どうする?」  口を噤んで雪生は考えた。写真のこと、父との関係性、聞きたいことはいくらでもある。ならば答えは一つだ。鞄を持ってうなずく。 「わかりました。私も聞きたいことがありますし、お付き合いします」  これはデートなんかじゃない、そう自分に言い聞かせながら。

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