お金で買われてほどかれて~社長と事務員のじれ甘婚約~

読了目安時間:9分

5.恋は女を強くする

5-1.信じること

 車の件があった次の日。土曜日、雪生(ゆきな)は店を休むことにした。微熱を出したということもあるが、自宅に来てくれた氷雨(ひさめ)に説得されたからだ。何があったのか詳しく聞かずに、それでもパニックになった自分の身を案じてくれた弟には感謝しかない。  自室のベッドに半身を起き上がらせ、氷雨が作ってくれた粥を食べる。 「お客さんが入る日なのに……」 「三十八度近く出して言う台詞か? それ。いいから姉さんは食って寝てろって」 「ええ……ありがとう、氷雨。でも、そっちだって部活あるんだから。ちゃんと行って」 「オレがいなくてもいい? もう大丈夫なのかよ」 「大分落ち着いたから。体も楽よ。安心して」 「それならいいけどさ……じゃあオレ、学校行くから。なんかあったらすぐに連絡な」  氷雨の言葉に、安心させるように微笑んだ。今から行けば、昼からの部活練習にも間に合うだろう。氷雨は心配そうにこちらを見ていたが、時計を見て部屋から出ていった。  トレーに載った粥と漬物、それをサイドボードに置き直して、残った雪生は一人、嘆息する。忙しい日に休むなんて、と自分の弱さを嘆いてしまう。今は幸い熱も下がり、気怠さもない。  それでも、車のことを考えると未だ怖かった。一体、身の回りで何が起きているというのだろう。ベッドから起きて、リビングの隅に放置してあった鞄からスマホを取り出す。原と浅川(あさかわ)からのメッセージとは別に、美土里(みどり)から着信が一件、連絡は二件あった。  一つは労いの、もう一つは、返信をしなかったことに対して心配している文章だ。 「……大丈夫じゃないです」  呟いて、テレビをつけた。内容は全く頭に入ってこない。返信するかも定まらない。  気分を落ち着かせるアロマが、確か手持ちのものでも作れるはずだ。そう思い、戸棚からディフューザーとアロマセット、それから本を机の上に用意した。 「ベルガモットとラベンダーっと……」  手を動かしていると気分は楽だ。カーテンは開けずに明かりをつけている。朝方、氷雨に確認してもらったときに車はなかったが、あったらと思うとやはり不安だった。  ディフューザーにアロマを垂らすと、爽やかで丸みのある匂いが部屋の中に充満する。本とアロマセットを片づけて、テレビを眺め、しばらくぼうっとしていたときだ。  スマホから着信の音が鳴った。見ると美土里からで、一瞬尻込みしてしまう。唾を飲み、少し時間をおいて出た。 「……はい」 『雪生くん? 大丈夫?』  挨拶もなしに、焦った声音で美土里が言う。多分、浅川から連絡が行ったのだろう。 「あ……いえ、大した風邪じゃないので……」 『そうじゃない。雪生くんが変な車に狙われてるって、氷雨くんから連絡が来たんだ』 「氷雨からですか?」  なぜ、氷雨は美土里に連絡を入れたのだろう。確かに車が自分をつけてきていた、とだけは話したが。 『相手は高級車だから、多分広宮(ひろみや)さん関係じゃないか、ってね。何もされていないかい?』 「わかりません……写真を撮られたのかもしれませんけど……」 『……休みなら自宅にいるよね。もうそっちに向かってるんだ、実は』 「え、あの。お店に行かなくてもよろしいんですか」 『浅川に任せてある。事情も説明済みだよ。詳しくは君の家で話すから、待ってて』 「わ、わかりました」  事情、と美土里は言った。となると、この不可解な事件に見当がついているということだろう。雪生はただスマホを握り、唇を噛みしめた。美土里に迷惑をかけてしまう、その思いが胸を締めつける。 『すぐに行く。一度、切るよ』 「……はい」  それで通話が切れた。惚けた頭で周囲を見る。脱ぎ散らかした服、氷雨が読んだ雑誌が散乱していて、整頓されているとは言い難い。慌てて我に返り、それらを片づけていく。  恐る恐る、勇気を出してカーテンの隙間から外を見てみた。黒いセダンは、ない。  ほっとしたり、美土里の声を聞いたら心が幾分、楽になった。大分部屋も整理された状態になった直後、インターホンが鳴った。多分美土里だろう。スウェットから着替えていないことを思い出しためらったが、ドアスコープを覗いてみる。  どこか難しい顔をしている美土里がいた。鍵を開ける。 「美土里さん……」 「雪生くん、ただいま。体の方は大丈夫かい」 「はい……あ、中にどうぞ」 「うん。お邪魔するよ」  いつもと同じくベスト姿の美土里が、靴を脱いで部屋に上がってくる。美土里が部屋に上がるのはこれがはじめてだ。嬉しさと不安、複雑な思いのまま鍵をかけ直した。 「あの、コーヒー入れますか?」 「雪生くん、風邪なんだから無理はしなくていい。水で十分」 「じゃあせめて麦茶を……」  言った刹那、美土里が強く自分の体をかき抱いてきたものだから、びくりとする。 「み、美土里さん?」 「怖かっただろう。ごめん雪生くん、全部僕のせいだ」  苦痛を堪えたような声音。微かに香るオーデコロンの匂い。久しぶりに感じる温もり。それらに自然と、涙が出てくる。ベストを握り、美土里の胸に顔をうずめた。 「怖かったです……怖くて、情けなくて、わ、私」  美土里は何も言わず、ただ髪を撫でてくれる。優しい手つきで、これ以上ないというほどに、ゆっくりと。壊れ物を扱うような所作が嬉しく、でもどこか悔しくて、ただ思いのままに言葉を紡ぐ。 「私、はっ。美土里さんの、役に、立てませんか?」 「雪生くん?」 「レシピが紛失したこと、だって。浅川さんが教えてくれたから知ったんですよ? 私、美土里さんの恋人です。少しくらい頼ってくれても、いいじゃないですか」 「……うん」 「全然力足りないけど。でも、私、私はもっと、美土里さんの役に立ちたいんです……」 「役立ってくれてるよ、雪生くんは。君が側にいて、そここそ僕の居場所だって思えてる。君がここにいてくれるから、僕も頑張れるんだ」 「じゃあ、どうしてレシピのこと……教えてくれなかったんですか……」  美土里の片手が、不意に頬を撫でた。涙をそのまま拭われて、微苦笑を浮かべた美土里と目が合う。真剣な眼差しだ。 「……少し込み入った話になるけど、いいかな」  小さく首肯した。全部受け止めたい、その思いをこめて。  座って、とうながされ、抱きしめられながらカーペットに尻をつけた。 「まずはレシピの件からだね。君に言えなかったのは、野々宮(ののみや)専務が関わっている可能性があったからだよ。これは僕が悪いな、本当に。僕だけの問題だと視野が狭くなってた」 「野々宮専務は、確か商業スパイも配置してるかも、って話してましたよね」 「そう。三店回ってきたんだけど、そのうち二店舗で、レシピの紛失があった。事務員が買収されたらしくてね。しかけてきたのは十中八九、野々宮専務だ」 「そんな……」 「スタッフを見る目が僕にはなかったのか、報酬が桁違いだったのかはわからないけど、やられたという感じかな。でも、それだけ『グレイス』よりこちらが勝っている証拠さ」  背中へ回された手に力がこもるのを感じる。おずおずと顔を上げると、美土里が瞳に強い光を湛え、微かに眉を寄せているのが見えた。視線に気付いたのだろう、こちらを向きながら美土里は目をつむる。辛そうな顔だった。 「君の周りを嗅ぎ回っていたのも、多分、野々宮専務関係の連中だ」 「わ、私はアロマのことなんて、ほとんど知らないのに……」 「専務が雪生くんと僕の関係を疑ったんだ。昔の資金繰りを怪しんだらしくてね」 「つまり……偽りの婚約者だった、ということがバレてしまったんですか?」  雪生の指摘に、美土里は無言でうなずく。思わず口に手を当て、どうしよう、とささやいた。美土里は目を開け、疲れたため息をつく。 「僕に一番近いのは、それでも君だと思ったんだろう。動向を探っていたんだろうね」 「確かに、美土里さん秘伝のアロマは持ってますけど……そ、それより、偽りだったという事実が美土里さんのご両親に知れたら大変です。そっちの方が問題では?」 「うん。まあ、親父に一度家に来い、とは言われたね」 「どうしましょう……きっと、凄く怒ってらっしゃいますよね……」 「心配しないで。それはどうにかなるから。貴江(たかえ)紅子(べにこ)にも知られたけど、問題はない」 「あ……」  名刺裏に書かれた揺さぶり。そのことを思い出す。美土里の説明を聞いてようやく腑に落ちた。野々宮専務から息子の貴江、そして紅子に話が伝わったのだろうと。 「これが今現在の説明かな。雪生くん、気分は落ち着いたかい?」 「はい……すみません、取り乱したりして」  我に返れば今更ながら、スウェット姿のまま、美土里の腕に抱かれていることが恥ずかしくなった。静かに身じろぐと、離れることを許さないかのように、美土里がより強い力で抱きしめてくる。 「本当にごめん、雪生くん。君に心配をかけまいとして、逆に信用を失った」 「い、いいんです……こうして全部、お話ししてくれましたし。車のことは怖かったですけど……」 「僕はちょっと、嫉妬したかな」 「嫉妬、ですか?」 「氷雨くんにだよ。せめて最初に、僕に話してほしかった」 「ごめんなさい。美土里さんに迷惑をかけたくなかったんです。だから」 「迷惑かけてほしいな。もっと、わがままもほしい。言っただろう、君は僕の恋人だって」  額に唇を落とされ微笑まれたものだから、恥じ入りながら雪生も笑む。胸と腕から伝わる体温、優しい笑顔を向けられていることが嬉しくて、自然と美土里の頬へ口付けしていた。 「それ反則。ただでさえ我慢してるのに」 「す、すみません。誤解が解けたことが嬉しかったから……」 「嬉しいのはこっちもだよ。雪生くんの方からしてくれたの、はじめてだし」  子犬みたいな明るい笑顔を浮かべる美土里に、両頬を手で挟まれた。キス、の合図だ。雪生は目をつむる。唇同士が触れ合い、柔らかな熱を帯び、自然と力が抜けた。  長く、深いキスに身も心も蕩けていく。胸にあった不安、憂いのしこりがほどけて消えた。単なる口付け、それでも愛している人にされる喜びは何物にも代えがたい。  心地よさに惚ける自分の唇を解放し、美土里が頭を撫でてきた。 「まだ少し、熱があるね。ご飯は食べたかい?」 「あ、お粥……氷雨が作ってくれたのを忘れてました」 「じゃあ、それを食べてよく寝ること。食べたいものがあれば、今から買ってくるけど」 「大丈夫です。プリンとかゼリー、冷蔵庫にあるはずなので」 「わかった。本当はもう少し、こうしてたいんだけど、浅川を休ませないとまずい」 「はい……美土里さんのおかげでよくなりました。私も明日から出勤します」 「うん。そろそろお暇するかな。氷雨くんには僕から改めて連絡を入れておくよ」  美土里の言葉を皮切りに、二人で立ち上がる。 「行ってらっしゃい、美土里さん」  自然と見送りの言葉が口をついて出た。美土里はどこか嬉しそうにうなずき、部屋を後にする。 (私、もっと強くなろう。美土里さんを信じよう)  車に乗る美土里を窓から見守りながら、強く思う。簡単なことではないかもしれない。自信だってまだ、ない。けれど信じることが勇気に繋がるなら、美土里に自分の全てを預けようと決め、一人まなじりを決した。

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