ローズはこれまで以上にルミエールと過ごす時間を大切にしているようだった。だが、一緒に過ごす時間は徐々に減っている。平静を装うのに体力と精神力をごっそり持っていかれるらしく、それ以外の時間はジェドの書斎に隠れて眠っていることが多い。ジェドはそんなローズを黙って受け入れた。本を読んでいても、すぐに力尽きて眠ってしまうか、痛みで気絶してしまう。ジェドはローズが書庫にいる間は何度も確認に行くようにしていた。眠っていれば毛布を掛け、苦しそうにしていれば薬を飲ませた。どんなに大事に守ってもローズの呼吸はいつも浅く早く苦しそうで、その日がそう遠くないことを感じさせる。それでもローズはルミエールの前では弱っているところをあまり見せない。ローズはルミエールの兄として強くあろうとしているようだった。燃え尽きる直前の炎が大きく燃え上がるようにローズは必死に命を燃やしている。 そんなある日、ローズが温室に行きたがった。もう季節も終わりかけでバラはほとんど咲いていない。それでもセレナが連れて行ってやるとローズはうれしそうに笑ってたった一輪咲いていたバラの香りをかぎ、そのままそこに座り込んだ。もう歩くのも立っているのもかなり辛いらしいのはジェドから聞いている。 『セレナ、もしも、私のお墓を作ってくれるなら赤いバラの花を植えてください』 セレナはなんと答えたらいいのかわからなかった。 『いつかルミエールが私のことを知りたがったらこの手帳を渡してほしいんです。読ませたくないことも書いてしまったからあなたや、ジェドから話してほしいとは思うんですけど、それだけじゃ足りないかもしれないから、ここにいっぱい書いておきました。私自身のことや、ルミエールをどう思っていたか。きっと傷付けてしまうから、渡すときは慎重にしてくださいね』 ローズの呼吸が乱れる。 『私はルミエールに出会えて、ローズと呼ばれて幸せだったって、人として生きさせてくれてありがとうって、それだけは絶対に伝えてほしいんです……』 ルミエールは必死に綴って、崩れ落ち、胸を押さえた。 「わかったわ、ローズ。必ず伝えてあげるから、今は休んでちょうだい。お願いよ。無理しないで……」 ローズの眦から宝石が一つ転がり落ちる。セレナが薬を飲ませてやる間もなく、ローズは意識を失くしていた。セレナはこぼれそうになった涙をまばたきで払って、ローズを抱き上げる。悲しくなるほど軽い。ローズは食もかなり細くなっていた。食道や胃も圧迫され始め、食事も困難になってきているようだった。元々、ペースト状にしていたが、今はさらに薄めてポタージュ状にしている。それさえ無理矢理飲み込んでいるらしい。ルミエールの前ではどうにか食べきっても、隠れて吐いているのも知っている。そんな状態では痩せていくのも当然で、セレナはどうしようもなく哀しかった。 ローズをベッドに寝かせて、部屋に戻ろうとしたらルミエールが突然抱き付いてきた。 「どうしたの? ルミエール」 「ぼく、また独りになってしまうの?」 セレナの腰に必死にしがみつくルミエールの小さな背中が震えている。幼いなりに感じ取っているのだろう。 「ローズはあなたのそばにいるって……私たちもあなたのそばにいるわ」 「セレナとジェドはぼくを独りにしない?」 「しないわ」 セレナはしゃがんでルミエールと目を合わせる。ルミエールの大きな目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちている。 「ねぇ、ルミエール、あなたもわかっているでしょうし、嘘を吐きたくないの……ローズはあなたのそばにいたくて必死に生きているわ。だから、できるだけ笑ってそばにいてあげてちょうだい。ローズはあなたのことが誰よりも大好きよ」 「うん……ぼくも兄さまが大好きだよ……でも、今は泣いても、いいかな?」 「いいわよ」 セレナは泣きじゃくるルミエールを抱き上げて部屋を離れる。意識のないローズにもルミエールの泣き声はできるだけ聞かせたくない。 数日後、ローズはルミエールに手を引かれてジェドの書斎を訪れた。ルミエールはなにも言わずにジェドの青い目を真っすぐに見上げて去って行った。ローズはふっと息を吐いて崩れ落ちる。ジェドはその軽い身体を抱き止めた。 「ローズ……もう、無理をするな……」 ローズは儚く微笑んで震える手で手帳を開く。 『心臓が壊れるのはどれくらい痛いんでしょう?』 その問いにジェドは答えを持たなかった。 『元気なふりはもうできそうにありません』 ひどく簡素で短い文を書いたローズの目からぽとりと宝石がこぼれ落ちた。 「よくがんばったな……ローズ……」 ローズはその日から床につき、起き上がることさえできなくなった。本当にギリギリまでがんばっていたのだろう。呼吸は浅く早く、心臓の鼓動はひどく弱い。食事はもう、辛うじてわずかな果汁を口にするだけになってしまった。そんなローズにルミエールは静かに寄り添っている。ルミエールはあの日以来、涙を見せないが、笑顔も減った。話しかけることもなく隠しきれないほど大きくなったルビーにそっと手を添えている。ルビーだけが変わらず鮮やかに輝き、ローズの命を吸い取っているようにさえ見える。ここに来たとき、ローズの手と同じくらいだったルビーは今やジェドの手よりわずかに小さいだけだ。 セレナは耐え切れずに寝室に隠れて泣いた。ローズとルミエールの前では笑顔でいたが、どんどん痩せ細り、どうにか生きているだけのローズの姿を見ているといたたまれなかった。せっかく地獄のようなシルク・フリークから逃れてきたのに、自由に歩くこともままならないまま、ただ苦しんで死んでいくしかない事実がどうしようもなく哀しい。 楽なようにと着せた白いローブがローズをなおさら儚く、消え入りそうに見せた。袖口から覗く腕が枯れ枝のように細い。時折その手でローズはルミエールをやさしく撫でる。愛しそうに、大切そうに。ローズは自分自身の苦しみよりも、自分が消えることで悲しむであろうルミエールをなおも思っていた。 朝、部屋を訪ねると枕元が宝石でいっぱいになっていることがある。日に一、二度こぼれてしまうそれではなく、隠れて泣いたのだろうことは考えずともわかった。セレナはなにも言わずにローズの宝石を片付ける。ローズが望むようにルミエールが大きくなったら渡してやるために大切に保管していた。 そんな日々が一週間も過ぎただろうか。その朝、ジェドとセレナが様子を見に行くとローズだけが起きていた。痛みで気絶するか、強い睡眠薬を飲まない限り眠れないせいかもしれない。ルミエールはローズにぴったりと寄り添って眠っている。ローズは哀しそうに笑って手帳を指さした。セレナが渡してやると、ローズはすでに書かれていたページを開く。少しずつ少しずつ書いていたのだろう。筆跡の強さがばらついている。 『親愛なるジェド、セレナ 何もできないただ苦しむだけの私を今日まで置いてくださったこと感謝しています。その時が来ても気持ちの整理はきっと付けられない。けれど、この苦しみから解放されるのなら、消滅するのも悪くないのかもしれません。 ただ、心配なのはルミエールのこと。私の消滅が近いのは感じ取っているようですが、受け止め切れるのか、幸せに生きていけるのか、そればかりが心配です。血の繋がった弟ではありませんが、純真無垢で健康なルミエールは私の生きる支えであり、その名の通り光でした。私を作ったおじい様を失った私にとって唯一の家族とも思っています。 あなたたちが情も懐も深く、必ずルミエールを慈しみ、愛し、育んでくださるだろうと信じています。どうか、どうかルミエールをよろしくお願いします。 セレナ、あなたのやさしさは安らぎでした。あなたのお菓子の香りと楽しそうな後ろ姿が好きでした。 ジェド、あなたの静寂が好きでした。この手帳を使い切ることができなかったことが残念です。一度でいいからあなたと遠乗りがしてみたかったです』 ローズは最後の力を振り絞ってそのページの末尾に文字を綴る。 『ルミエールにそばにいると、大好きだと、伝えてください』 たったそれだけ綴ったローズの手からペンが転がり落ちた。もうすべての力を使い果たしてしまったのだろう。手帳を閉じることさえできずに浅い呼吸を繰り返す。 「兄さま?」 目を覚ましたルミエールがローズの顔を見る。ローズはゆっくりと唇を動かす。 「だ、い、す、き……?」 ローズは小さく頷いてルミエールの頬に触れる。その指先には力がない。 「兄さま、ぼくも大好きだよ。ねぇ、だからそばにいて! 兄さま!」 ルミエールに強く抱きしめられてローズはおぼろげに笑う。 「兄さま……」 ローズはゆっくりと最後の息を吐きだした。 「やだ、やだよ! 兄さま!」 ルミエールはぐったりと動かなくなったローズを抱き起す。ローズの目から大粒のダイヤモンドがこぼれ落ちた。 「セレナ! ジェド! 兄さまが! 助けて!」 悲痛な叫びにセレナは唇を噛み、視線をそらす。 「ねぇ、助けてよ……」 ジェドはゆっくりとしゃがんでルミエールと目を合わせる。 「ルミエール……ローズは神様のところに逝った。俺たちにももう、どうしてやることもできない……」 ジェドは震えそうになった唇を噛む。心やさしいローズがなぜこれほど早く逝かなければならなかったのかわからない。最期の時に苦しまなかったことだけが幸いだった。 「ローズはずっとそばにいると、ルミエールのことが大好きだと伝えてほしいと……」 「兄さま……」 ルミエールはローズの胸のルビーに頬を寄せる。 「ぼくも大好きだよ……兄さま……」 ルビーにルミエールの涙がぽとりと落ちた。突然、ルビーが強く輝き、ローズの身体が崩れ始めた。ローズの欠片は宝石へと変わっていく。宝石から作られた身体が元通り宝石に戻っていくようだった。 「やだ、やだよ! 兄さま! 全部宝石になっちゃうの?」 もう一度だけ、手を繋ぎたかった。その頬にキスをしたかった。そんなことを思う間もなく、ローズの身体は大小さまざまな宝石に変わっていく。ルミエールは為す術もなくきらめく宝石がこぼれ落ちていくのを見ていた。セレナとジェドもどうしてやることもできずに、その哀しくも美しい光景をただ見ていることしかできなかった。弔うべき遺体さえ残らない。これほど残酷なことがあるだろうか。白く儚かったローズが幻のように消えていく。存在のすべてが消えていくようだ。そして、ルミエールの腕の中には白いローブに包まれた巨大なルビーだけが残った。ローズの命を奪い去ったルビーがルミエールの腕の中で赤く光る。 「兄さま……こんなにちいちゃくなっちゃった……」 キラキラ輝く宝石に囲まれてルミエールは呆然と呟いた。ハート形のルビーはローズの心臓のようにも見える。セレナはこらえきれずに涙を落とした。あまりにも残酷な運命が受け止め切れない。ルミエールの頬を流れる涙も止まりそうにない。ジェドはルミエールを抱きしめる。 「ルミエール、俺たちがそばにいる……」 ジェドの頬を透明な雫が流れ落ちる。ローズはもう、いない。 小さな棺にローズだった宝石をいっぱいに詰めて弔いをした。気持ちの整理はできなくとも区切りが、ローズが生きた証が欲しかった。墓さえあればローズがいたと思える気がした。墓には約束通り赤いバラを植えた。 ルビーはルミエールが大切に飾っている。毎日話しかけているらしい。死を受け入れられずにいるわけではなく、そこにローズがいる気がするとルミエールは言った。最期に綴った言葉通り、そこにローズはいるのかもしれない。 少しずつ、ゆっくりと、元通りに時が流れ始めた。ただ、ローズだけがいない。喋ることもできず、ただそこに静かにいただけのローズがいないことがひどく寂しい。 そんなある日、ルミエールがルビーを抱きかかえて走ってきた。 「セレナ! ジェド! 見て!」 差し出されたルビーを見て、二人は驚く。透き通って輝いていただけのルビーの中心にもやりとした白い生き物のようなものが丸まっている。 「これは……」 「兄さまが戻ってきたんだよ!」 ルミエールの高い声が弾む。そんなことがあるのだろうか。信じられない。だが、ローズは宝石から魔法で作られた存在だった。ローズが再び宝石から生まれてもおかしくはないのだろうか。 「兄さまにまた会える……」 ルミエールはうれしそうに笑ってルビーを抱きしめる。だが、ジェドは複雑な感情を抱いた。このルビーの中で眠る生き物はローズと同じ存在なのだろうか。ジェドは膝をついて、ルミエールと目を合わせる。 「ルミエール、ローズはこのままかもしれないし、生まれてくるかもしれない。それがいつになるかもわからない。ローズとはまったく別の存在かもしれない。ルミエールのことを覚えていないかもしれない。もしそうなっても悲しまないって約束できるか?」 ルミエールはその言葉に迷う。 「兄さまじゃなくなったローズをちゃんと愛せるか?」 ルミエールは金と紫の目でジェドの深い青の目を真っすぐに見つめる。 「愛せるよ! 今度はぼくが兄さまになる」 ジェドはやさしく微笑んで、ルミエールの頭をやさしく撫でる。 「なら、ローズのように賢くなるために一生懸命勉強しなきゃな」 「うん!」 ルミエールは力強く頷いて、ルビーを抱きしめる。 「ぼくがんばるよ」 ルビーの中で小さな生き物は静かに眠っている。
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とん
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とん
2022年1月6日 21時57分
夜色椿
2022年1月6日 22時48分
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夜色椿
2022年1月6日 22時48分
藍ねず
コメント失礼します。ローズの言葉や最期に、思わず指先が震えてしまいました。息を引き取ったローズの体が崩れてしまうとは予想しておらず、魔法が解ける瞬間の儚さを見せられたような気がしています。ポイントが枯渇気味ですが、悲しくも心にくる物語をこれからも読み進めて参ります。
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藍ねず
2020年9月30日 23時12分
夜色椿
2020年10月1日 4時45分
コメントありがとうございます。 ローズは儚く哀れな少年であるがゆえに姿を留めることさえできないのです。 ポイントとてもうれしいです。ご無理のない範囲でのんびりと楽しんでいただけたらさいわいです。
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夜色椿
2020年10月1日 4時45分
月瀬沙耀
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月瀬沙耀
2020年9月25日 21時14分
夜色椿
2020年9月25日 22時01分
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夜色椿
2020年9月25日 22時01分
lamrts
2021年5月11日 23時11分
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lamrts
2021年5月11日 23時11分
夜色椿
2021年5月12日 5時07分
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夜色椿
2021年5月12日 5時07分
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