母の教えと

 いい。ハテヒ。覚えておくのよ。  身分が高い人が目の前を歩く時、こうやってお辞儀をするの。そう、手を地面について、深く深く頭を下げて。みんなこれを恭敬と呼んでいて、必ず守っているの。あら、額にたくさん土をつけて、おかしな子ね……。  こうして、じっと我慢していたら。殴られても、蹴られても、こうしてじいっと我慢していたらね。  私たち生口は、それだけで、生きていけるのよ――。 「ハテヒのその恭敬、どこで教えてもらったんだよ。とっても綺麗だってスヒリ様もヤヤク様も褒めてたから、ねえ、おれにも教えてくれよ」  カジカの声に、ハテヒは顔を上げた。額からぽろぽろと小石や砂が落ちてきて、それを見たカジカが面白そうに笑った。  先ほどスヒリを訪ねていたどこかの偉い人――大人が帰るところに、たまたま出くわした2人は、恭しく地に伏せていた。彼らの後ろ姿を見ると、赤い布を持っているのがちらっと見えた。きっとスヒリの染め物をもらいに来たのだろう。 「今更だよ。前にも一回教えたのに、カジカはいつまでも経っても足がそろわないんだもん」  ハテヒは立ち上がって、紅の花が入っている籠を抱え直した。  今年も、たくさんの紅が咲いた。  この邑を訪れて2年が経った。母を失い、スヒリの元へ辿り着いて、2年。あれから体も少しだけ大きくなり紅花を摘みやすくなったと、ハテヒは一生懸命に自分を養ってくれるスヒリのために働いていた。  紅で染め物をし、その布と交換したたくさんの鏡や鐸、食糧などをヤヤクなど貿易に携わる人に届けてもらう。それがこの邑のやり方だった。  真っ赤になった指の先を夏の終わりの太陽に照らすと、綺麗に見える。染め物の最後の仕上げを行うスヒリの、紅に染まった指先や爪と同じ手に近づいていることが、ハテヒにはとても誇らしくも思う。  いつだったかは忘れてしまったが、一度スヒリの手に血がついていると見間違えてしまい、スヒリに大笑いされたことがあった。  このくらい指先が真っ赤になれば、あなたも立派な私の下戸よ。  スヒリのその言葉を信じて、ハテヒもカジカも、うんと頑張って指先を紅色にする。自分を養ってくれるスヒリのためにも、立派な下戸になる。子供たちは、その気持ちでいっぱいだった。  まだ母が自分を守ってくれていた時は、どうだっただろうか。母に守られるだけの生口の自分と、今の下戸となった自分は違うのだと、ハテヒはぎゅっと籠を握りしめて歩いた。 「もー。待ってよ!」  先にとてとてと籠を持って歩いて行くハテヒの後を、カジカは追った。 「早く帰らないと、おやつなくなるよ」 「じゃあ、走る! 競争!」  ぱっと駆け出したカジカに、ハテヒは焦って走り出す。中に入れられた紅が落ちてしまわないように、カジカを追う。  足の速さはいつもカジカに負けてしまうのが、悔しかった。  午後の摘み取りの仕事を一通り終えたあと、ハテヒは西日を顔に受けながら、剣を抱いて邑の端まで走ってきていた。紅畑の畦道を走っていると時たま、ふわりとトンボが飛び立ち、そろそろ染め物の作業が始まる季節だということを告げていた。黄色の花をつけていた紅もだいたいが摘み取られ、あとは燃やされるのを待っている。  スヒリの染め物は邪馬台国一である。ヤヤクが言っていたのか、下戸が噂していたのかは忘れてしまったが、広大な畑を見ていると、そんな気がする。 「トク様! おかえりなさいませ!」  肩を上下させ、顔をほころばせながら門の向こうからやってくる1人の男を迎えた。背中には弓を、腰には剣を下げている。武人のようである。 「お迎えかい、ご苦労さん」  頭の上に大きな手がぽんっと置かれる。長く伸びた髭の間から見える口元が上がったのが見えた。ハテヒは剣を掲げてはにかむ。 「トク様に、早く剣を教えてもらいたくて」  自分よりはるかに背も高く、細身のヤヤクとは肩幅も比べものにならないトクは、スヒリの夫であり、卑弥呼の住まう都で護衛や警備を任されている人である。弓や剣はそのための道具だ。  夜警をすることも多く、滅多に帰ってこないトクが帰ってくると言うので、ハテヒは真っ先に迎えに来たのだ。 「そうか、それなら早くスヒリの所に行こう。あいつは元気にしてるか」  女の身で邑を守る大切な妻を思うと、徐々に歩幅も大きくなってくる。トクの一歩はとても大きい。ハテヒはちょこちょこと小走りでついていった。 「早く帰ってきてほしいって、言ってましたよ」  ハテヒのその言葉に笑って、トクは歩き出した。館に着いた時はちょうど夕餉(ゆうげ)の仕度が始まる時間で、トクの顔を見たスヒリは驚いた。 「あら、早かったのね。おかえりなさい」 「ただいま、スヒリ。奥さんが寂しがってるだろうって、上から言われるからな。早めに抜けて来た」  女たちが夕餉の支度をしているのを眺めながら、トクはため息をつく。 「もう少し、お前と一緒に居たいところなんだが」 「いいえ、あなたにはこの国の女王様を守ってもらわないといけないから。大丈夫よ、カジカもハテヒも居るのだから寂しくないわ」  夫を気遣う華奢な妻の肩を、トクは抱き寄せた。  本当ならば男である自分が邑を守らなければならない。スヒリの紅で真っ赤に染まった指先を、トクはごつごつとした大きい手で包んだ。 「何?」 「いいや、何でもない」  何でもない、と言いながらスヒリの手を愛おしそうに撫でる夫のにおいを、スヒリは胸いっぱいに吸い込んだ。  一方、2人の様子を遠くから見ていたカジカとハテヒは、顔を見合わせて頷く。 「今日はトク様とスヒリ様2人だけにするんだ」  カジカがそっとハテヒの耳元で囁く。  ハテヒも手にしていた剣を、一度寝室に戻していた。 「分かってるよ、稽古は明日の朝にしよう」  そうして2人は、改めてトクの所に向かい、手をついた。 「トク様、おかえりなさいませ!」 「ご無事で何よりです!」  子供2人の恭敬にトクとスヒリは微笑む。  さながら、我が子のように。この下戸の2人がまるで自分たちの息子のように、トクも迎え入れていた。しかしスヒリが子供が欲しいと毎晩鏡に向かい、神に願うように、カジカとハテヒを迎え入れたことで、トクも一層強く、自分たちの子供が欲しいと思うようになっていた。 「さあ、晩飯にしよう。お前たちの手も真っ赤じゃないか。スヒリと頑張っている証拠だな」  カジカとハテヒは自分たちの手を見比べて、嬉しそうに笑った。  以前よりも賑やかになった我が家に、スヒリの元に、もう少しだけ居れたら。  トクは、スヒリと子供たちの顔を見ながら杯を上げた。 「トク様、いつまでいるんだろうね」  木簡を再利用するために、表面に書かれた文字を刀子で削りながら、カジカはハテヒに話しかけた。結っていたみずらも解き、カジカは鹿のような柔らかい茶色の毛を、ハテヒの方はうねりが強い黒髪を下げて寝る準備に入っている。 「3日くらいかなあ。いつもそれくらいで都に行っちゃうから」  カジカと同じように刀子を持って、読めない字を一生懸命削っていたハテヒの手がふと止まった。 「ねえカジカ、もしスヒリ様に子供が出来たら、どう思う?」 「どう思うって、いいことなんじゃないかな」  トクが帰ってくる時は、普段より剣のことが気になってしまう。脇に置いていた剣を見て、ハテヒはカジカに訊ねた。 「ずうっと、スヒリ様は僕たちをここに置いてくれるかな」  もし、またどこかに行かなくてはならなくなった時。ハテヒは2年前の月のない夜を思い出す。  今度こそ、行く場所がなくなってしまうかもしれない。重たい剣を抱いて、長い長い道を歩いて、知らない場所へ行かなくてはいけないのかもしれない。トクが帰ってくるたびにハテヒはそう不安になってしまう。 「一生懸命、スヒリ様をお守りしたら、置いてくれるよ」  ガリガリと不器用に木簡を削りながら、カジカは言う。 「うん」  カジカのどこから湧いてくるのか分からない自身に、ハテヒは少しだけ安心して頷いた。  自分を守ってくれるスヒリとトクに、2人は精一杯お仕えしようと、刀子を動かした。  途中、思い出したようにカジカが顔を上げる。 「あのさ、もう一回ハテヒの恭敬の綺麗なやり方、教えてよ」 「じゃあ、これが最後だよ」  母の優しい教えと生口の厳しさを思い出しながら、ハテヒはカジカの足を直す。  いい。ハテヒ。覚えておくのよ。  身分が高い人が目の前を歩く時、こうやってお辞儀をするの。私たち生口は、それだけで、生きていけるのよ。  悲しいことがあっても、つらいことがあっても、我慢するの。我慢して、お仕えするの。そうすれば、いつかは大人様が救ってくださるから――。  母の教えさえ守っていればきっと大丈夫。立派な下戸になれば、きっと大丈夫。  ハテヒは、幼い頃の記憶をたどりながら母とスヒリを重ねた。

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