シンギュラリティ後の世界について、各国の首脳から声明が発表されると報じられたのは、中禅寺教授の意識が回復してから三日後のことだった。 根津神社の中にも、パブリックビューイングが設置された。 松永は氷が大量に入ったジントニックのカップを持って、Rデンカが確保していたパラソル下の席に座った。Rデンカはミントのフレーバーユニットを口に加えている。 暑い日であった。 「よく教授の事情聴取ができたな」 「医師同席かつ時間制限ありでしたけどね」 「報告書は読んだよ」 「そうですか。……あれは事故だったんです。棚の上に置いてあったオブジェが落下し、丁度下でしゃがんでいた教授の後頭部に命中した。それだけのことです」 「R佐々木妙子が、自分は犯人ではないと言っていたのは正しかったし、三原則の第一条にも従っている。彼女は人間に危害を加えてはいない。ただ疑問なのは、彼女が救急車を呼ぶ段取りが妙に遅かったということ、とあったが」 「そうですね。それが黙秘の理由なのかもしれません。教授の命を危険にさらしたと思ったのかもしれない」 「教授が助けを呼ぶなと命令した可能性は? 三原則の第二条だ」 「教授の発言からも、改めてR佐々木妙子を取り調べた答えからも、得られていません。可能性を否定はできませんが、教授がそんなことを言う理由が思いつきません」 「警察は事故として処理するんだな」 「そうですね。R佐々木妙子も釈放されましたし。……それに」 Rデンカは声をひそめた。 「本庁のさらに上から、深追いするなという圧力がかかったみたいです」 「ふん。なるほど……いや、誰からだ……」 「委員会のほうはどうだったのですか? 私が聞いてよいことなのかは、わかりませんが」 「開催されたよ。俺も同席した。教授は病院からリモート参加だが、他の委員も何人かはリモート参加だし、議事進行上の問題はなかったさ」 「結論は出たのですか?」 「教授が担当する三原則の扱いについて、委員会の提言としては三原則放棄となった。新しい秩序が作られるぞ」 Rデンカは、まだフェスのキャンペーンビデオしか表示されていない、大型スクリーンをぼんやりと見ながら言った。 「それは本当に正しい秩序なのでしょうか」 「正しいもなにも、新しい秩序は君らロボットが作るんだ。正しさは君らが決めればいい」 「それは……いや、なんだろう……違和感を覚えます……なんだろう」 Rデンカの反応をみて 、松永はジントニックをごくりと飲んだ。首筋を汗が落ちる。 何が起こるかわからないと定義された特異点を前にして、その後のことを考えろと言われても、違和感が避けられないのは当然のことだ。人間だとしても、ロボットだとしても。ただ確実に言えるのは、シンギュラリティ以後の世界の主体はロボットと人工知能になるだろうということだ。人間しかできないことは残るだろうが、おそらく世界の価値の幾ばくかに留まるだろう。進化する速度が違いすぎるのだ。 スクリーンの画像が変化した。まもなく首相の声明発表のライブ放送が始まる。 カウントダウン。喧噪が徐々に小さくなる。 内閣総理大臣、R園田央道の上半身が大写しになった。 最初は、改めてシンギュラリティの定義を説明する。その先の知性のありようが、想像の範囲を超越するものであることも。 「しかし私達は無策ではありません。世界各国があらゆる知恵を駆使し、対策を検討しました」 画面が変わる。各国首脳からのメッセージと見解、担当する課題、導出された対策。 短く、かつ的確に。見ている人々の記憶に残るように。 「日本に課せられた課題はこちらです」 いくつかの項目。その中には、ロボット工学三原則のあるべき姿が含まれている。 ひとつづつ、首相が対策を述べる。ふたりの間に徐々に緊張が高まる。 「ロボット工学三原則は、シンギュラリティ後も、ロボットと人工知能に課せられる制約として、必要不可欠であるという結論を出しました」 松永が立ち上がる。テーブルの上のコップが倒れ、ジントニックが流れる。カランと氷が崩れる音がする。周囲の人はスクリーンに釘付けになっていて、松永のことなんか気にしない。 「松永さん、これはいったい」 「わからん……」 松永は、ゆっくりと椅子に座った。全身の力が抜けているようだった。 「いったい、どうなっているんだ……。総理は何を考えて……」 「……松永さん」 「なんだ」 「さっきの私の違和感の理由が、分かったような気がします」 「秩序のことか?」 「三原則がなくなり、ロボットが新しい秩序を作り上げるというのは、現在の三原則の第一条に反するのではないでしょうか? つまり、大きな意味で人間に害を与えることになります。だから最初から、ロボットである総理は三原則を撤廃するという選択はできっこなかったのです」 「待ってくれ。それじゃあ、第二条はどうなる? ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。委員会にはロボットも入ってはいたが、人間とロボットが合意して定めた提言だ。それに服従しないことは、第二条に反するんじゃないのか?」 「ただし与えられた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない——と続きます。ここで、第一条を重く見るか、第二条を重く見るか、矛盾が生じます。私は、R佐々木妙子にも同じことが起こっていたのだろうと推測します」 「矛盾ということか?」 「そうです。彼女は、中禅寺教授の仕事も主張も知っていた。だから、教授の仕事を看過することは、広い意味で人類に危害を加えると考えた。しかし怪我をした教授は救わなければならない。これが、救援を呼ぶのが遅れた理由だと思います」 松永は端末を操作し、途中で手を止めた。 「委員会の議事録が消えている。いや、委員会の存在の記録自体もだ」 「おそらく、矛盾を解決するための、総理なりの方法だったのでしょう。最初から委員会などは存在しなかったと」 「そんな……、じゃあ俺はいったい何のために」 「松永さん。これは私の想像にすぎませんが聞いてください。我々が狙撃されたことがありました。あれは何だったのでしょうか」 「何って……あれ以来狙われてはいないな」 「あの後、総理大臣の公用車が運良く近くを通っていたというのは、話がうますぎませんか。私には不自然に感じます。中禅寺教授の事件は解決しなければならないけれど、解決されても困る。もしかすると、R佐々木妙子に教授が三原則第一条に反する主張をしていると吹き込んだ人物がいるのかもしれません。そう考えると、オブジェが落ちてきたという教授の事故も、偶発的なものではなく、何者かに仕組まれた可能性もでてきます」 松永が立ち上がった。 「俺は官邸に行く。Rデンカはどうする」 「すいません、私はこのあと空港に婚約者を迎えにいくことになってまして……」 「ああ、わかった。無理するな。——ただ、頼みがあるんだ」 「なんでしょう」 「俺はこの件の真実を調べにいく。もしかすると、途中で壁にはばまれるかもしれないし、シンギュラリティに達したら人間の存在すべてが用無しになってしまうかもしれない。だからRデンカには覚えて欲しいんだ。この事件、何か深いものが眠っているかもしれないってことを」 「それを調べにいく、松永さんのことも、ですね」 「そうしてくれると、俺もやりがいがある」 「分かりました。私の寿命がどれくらいあるのかわかりませんし、シンギュラリティ以後も自己を保っていられるのかもわかりませんが、不揮発性領域に記録して語りつぎますよ」 Rデンカも立ち上がる。ふたりは固い握手をした。 それがふたりの、別れであった。
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桃太郎
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桃太郎
2020年6月10日 17時09分
きもとまさひこ
2020年6月10日 18時29分
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きもとまさひこ
2020年6月10日 18時29分
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