【完結】歪みの旋律~わたしが愛を知るまでのレッスン~

読了目安時間:6分

エピソード:10 / 47

2-2.agitamento~動揺~

 ――食事を終え、せめてものお礼に食器を洗った。調理器具はすでに洗浄されていたから、本当に少ししかなかったが。  その間に貞樹(さだき)がコーヒーを入れてくれた。時間は今、朝の七時だ。ようやく白み始めた空には昨夜と同じく暗雲が見える。 「瀬良(せら)さん。折り入ってお話があるのですが、お時間は大丈夫でしょうか」 「は、はい」  昨夜のことだろうか、と理乃(りの)は身構えた。姉と隆哉(たかや)、そして自分の関係を話したくない。知られたくないという気持ちがまだ、胸を占めている。  ソファへと再び座り、貞樹を見つめた。貞樹はコーヒーを飲みつつ、何かを考えているようだ。リビングに流れている曲は、ベートーヴェン作曲の『田園』へと移り変わっている。 「お話というのは……」 「教室で少し触れたことです。来年に行う自主公演に、瀬良さんもぜひ参加しては下さいませんか?」 「わたしが自主公演に?」  カップに入っている茶色い液体を眺め、理乃は考えあぐねる。昨日は全くと言っていいほど演奏ができなかった。しかし。 「あの……曲目はもう、決まっているんでしょうか」 「あらかたは。G線上のアリア、パッヘルベルのカノン、ロンドト短調・WoO.41……」  そのくらいなら――と理乃が希望を見出した時、貞樹が一転して真顔になった。 「そして、ヴァイオリンソナタ第九番・イ長調。クロイツェルの第一楽章」  淡々とした声音に理乃は呆ける。曲の名前が一瞬、素通りしたようだ。 「ク、クロイツェル? ベートーヴェンのですよね?」 「その通りです。バイオリンとピアノは対等、といった名目で作られたソナタ」  思わず唾を飲み込む。ベートーヴェンが一八〇三年に作ったとされるクロイツェルは、バイオリン、そしてピアノを弾く両者ともに高度な技巧を要求される代物だ。理乃も何度か挑戦したことはあるが、上手に弾ききった試しはない。 「ピアノは宇甘(うかい)さんが担当するんですか?」 「はい。そして願わくば、瀬良さん。この曲のバイオリン部分をあなたに担当していただきたいのです」 「え……っ」  カップを持とうとした手が固まった。貞樹はなんと言ったのか、やはりスムーズに頭へ入ってこない。しばらくしてようやく言葉の意味を理解すれば、顔が青ざめてしまう。  クロイツェルを、自分が弾く。全然想像できなかった。バイオリン上級者の中でも演奏するのが難しいとされている音楽なのだ。ピアノ奏者との相性、心の通じ合い、そんなものだって要求される。  理乃は自然と首を横に振り、居住まいを正して縮こまった。 「む、無理です。そんな、クロイツェルだなんて……」 「今は確かに難しいでしょうね」 「そうです……わたし、昨日もろくにバイオリンを弾けなかったんですよ? ハードルが高すぎます」 「ですがやはり私は、この曲をあなたと弾きたいのです」  戸惑う理乃に、平然と続ける貞樹には冗談を言っている様子はない。絶句してしまう。柔らかな旋律だけが流れていくリビング。震える声で理乃が出したのは、疑問だった。 「どうして」 「何がでしょう」 「どうして、そんなにわたしを買ってくれているんですか……」  うつむき加減に、聞いた。「私があなたを変える」という貞樹の言葉が頭の中で谺する。そこまでされる、してもらう価値なんて、どこにもないような気がした。  貞樹がカップを置き、顎に手を当てる。理乃を見つめる視線は鋭いが、教室で見せる時のような厳しさはない。 「瀬良さん、今のあなたは言わば、花の蕾のようなものだと考えています。頑なに自身の殻に閉じこもり、永遠に開花しない花だと。昨日も車の中で言いましたが、私はそれを変えたい」  貞樹に内心を言い当てられた気がして、理乃はぎくりとする。頑な、殻――今の自分を指すにふさわしい単語だ。花はいささか華美に過ぎる気がしたけれど。 「あなたには技術が確かにあります。あとは情熱を取り戻していくだけ」 「技術だなんて……そんな」 「ご自分を卑下しないで下さい。私が見込んだ方なのですから」 「そう言われても」  と、恐縮してしまう。天才であろう貞樹に見込まれても素直に喜べない。素晴らしい音を奏でていた姉と、教室で情けない姿を見せた自分を自然と比較してしまった。  落ち込む理乃に、しかし貞樹は優しく笑む。 「頑張る方向を間違えれば、人は五里霧中(ごりむちゅう)の暗闇に落ちます。ですが今のあなたには私という道しるべがいる。私を信じて、一緒に頑張ってみませんか」 「頑張る……」 「そうです。頑張ってみる、とあなたも言ってくれたでしょう。ここで諦め、今のまま開花しないつもりですか? 音楽を捨てていくつもりですか?」  穏やかな口調で問われ、それでも理乃の頭は混乱に陥った。姉の顔、隆哉の顔を想起する。隆哉を更生するために再開しようとしたバイオリン。そこには自分を好きになりたい、という打算もある。  だが、怖かった。自分でもわからない恐怖に二の腕をさすり、何か口にしようとすればするほど、言葉が出てこない。  すっかり沈黙する理乃へ、貞樹は畳み掛けるように言う。 「音楽を愛しているあなたと私。似ているでしょう」 「……似てないです。だって、天才です。宇甘さんは。私はそこまでたどり着けません」 「誰が天才ですか。天賦(てんぷ)の才なんてものは、周りが決める程度の代物でしかありませんよ」 「で、でも」 「確かにミュンヘン以外でも、私は国内外のコンクールで賞をいただきました。しかし、その全てが人の価値を決めるものだとは思っていません。自信には繋がりましたが」 「わたしには……その自信なんて、欠片もないんです」 「私がそれを変えましょう。プロになれ、なんてことは言いません。ただ私と楽しく、思いを込めてクロイツェルを弾いて下さればいいのです。誰のためでもなく、自分のために」  温かな言葉をかけてくれる貞樹に、理乃は申し訳ない気持ちで一杯だった。だが。 「……少し考えさせて下さい。お、お稽古はします。でも、やっぱり……」  今の自分に大役が務まるとは到底思えず、返事を先延ばしにしてしまう。貞樹の視線が痛い。 「どうやら私が慌てさせたようですね。すみません」 「いえ、わたしの方こそ……」 「ですが、レッスンを続けて下さるようで何よりです。私も困りますしね。今ここで稽古をやめられては。恋人のふりだってまだしてもらっていませんし」 「そ、それなんですけど、どうしてわたしなのかがさっぱり」 「ああ……そのことは気にしなくていいですよ」  わたしが気にするんです、という呟きは音楽に溶け消えた。どうやらそれについて答えてくれるつもりはないようだ。 (自信……か)  ようやくコーヒーを啜り、映る自分の(おもて)を見た。食事の時とは違い、顔がまた強張っている。  音楽を愛する気持ちは眠ってはいない。けれど、演奏に関しての自信など一欠片もないのは本当のことだ。勉強し続けた身だからわかる、天才と秀才の決定的な差。周囲が決める代物と貞樹は言ったが、秀才では越えられないのだ。天才という壁は、絶対に。 「少し休んだら、家まで送りましょう。明日はお仕事があるのですから、早めに帰るのがいい」 「……ありがとうございます」  だが、貞樹にそんな考えをぶつける気にはならなかった。  もやもやした気持ちを抱えたまま、理乃は結局、貞樹の好意に甘えるだけだった。こちらは何一つ、真実も打算も隠したままだというのに。  それがやはり、申し訳なくて堪らない。

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