【完結】歪みの旋律~わたしが愛を知るまでのレッスン~

読了目安時間:8分

エピソード:31 / 47

5-5.Rêverie~夢想~

 葉留(はる)の車で送ってもらい、貞樹(さだき)は一人で自宅に戻った。花束は妹に渡した。十六時だが外は暗く、手探りで明かりをつける。ここが電灯のスイッチ、などと確かめながら。  深緑色のカーテンを閉める。リビングには革張りのソファとガラステーブル、それからテレビと共に黒いスピーカーが二台あった。広いダイニングキッチンも見回したが、ほとんど記憶にない。それでも自分好みのスタイルだな、と一人で納得した。  無音というのもどこか落ち着かない。テレビをつけ、適当なニュースを流しておいた。そのまま室内を確認していく。浴室、トイレ、そしてバイオリンが置かれた部屋。防音室は作られていない。寝室と思しき場所を後回しにし、最後の部屋を開ける。  パソコンと本棚がある部屋だった。書斎に使っていたのだろうな、と思う。本棚には様々な小説、音楽関連の書籍が並べられていた。壁には数種類の高名な国際音楽コンクールの表彰状が額に入れて飾られている。 「……ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール一位。エリザベート王妃国際音楽コンクール一位。ミュンヘン国際音楽コンクール一位……」  額の中の表彰状を読み上げていく。どれもが有名な音楽コンクールだ。だが、実感はない。これらも空白の四年間でとったものなのだろう。他にも日本で開催されているコンクールのものがあったが、記憶にはない。  溜息をつき、スーツのポケットからスマートフォンをとり出してパソコンデスクの上に置いた。その横には栞を挟んだ本が、一冊。椅子に腰かけて確認した。ミステリーやSF小説ではなく、幻想文学だった。 「彼女に借りたんでしょうね、きっと」  独りごち、なんとかパソコンを起動させる。メールの確認をするためだ。海外に住む友人が多いものの、理乃たち以外にも交流のあった日本人がいるかもしれない。  よくやり取りをしている相手を見ると、気になるメールが数点あった。  「アドバイス感謝。おかげで公演は上手くいった」  「教室開設おめでとう。お前がまた音楽に関わるようで、よかった」  「来年の自主公演を応援している。自分にできることがあるなら手伝う」  簡素な文面だ。差出人の名前をチェックする。神津(こうづ)(しゅん)、とある。他のメールも確認したが、特に二年前の文章が引っかかった。 「また、音楽に関わるようで……」  またとはどういう意味なのだろう。復唱しても虚しく声が響くだけだ。  意を決し、俊とやらにメールを送ってみる。事故に遭ったこと、記憶がなくなっていること、ここ最近の出来事など話していたら教えてほしいということ――長文になったが、仕方ない。返事が来るまでの間、ただ待つのももったいない気がして部屋から出た。  最後の一部屋、寝室に赴く。ウォールナットのセミダブルベッドがあり、クローゼットも完備されていた。ベッドは整頓されているが、着るためなのか、紺色のパジャマだけは畳まれて枕元に置かれている。 「……出しっぱなしにしますかね」  いつもの自分なら片付けるはずだ、と疑問に思い、パジャマを手にした瞬間だった。  ふわりと、微かな、ごく僅かな香りがパジャマからした。甘やかで清純な香り。それは理乃がつけているオードトワレだ。  呆然とした。普段、香水の類いはつけない。趣味ではないからだ。だが、確かに漂う残り香は、理乃がいつもつけてくるオードトワレとお揃いだった。 「彼女がこれを着た……?」  わからないままサイドテーブルに目をやる。ランプの他、白い箱がひっそりと置かれていた。寝間着を抱えながら箱を見てみる。紛れもなくオードトワレだった。  理乃がここに来ていたのだろうか。肉体関係にあったのだろうか。いや、それならば別に自分が香りを纏わなくてもいい。ならば、お揃いの香りは一体何を示すのだろう。  理乃の笑顔が自然に浮かんだ。自分にではなく、隆哉(たかや)に向けたよどみない笑顔が。車の中でも切実に願った、その顔はこちらに向けてほしいという身勝手な感傷が胸を刺す。  パジャマを握り、唇を噛んだ。思い出せないことが歯痒い。理乃の面が浮かんでは消える。彼女に冷たく当たる自分が、今は馬鹿だと切実に感じた。 「さだは、壊そうとしてる……」  葉留に言われた言葉。昼の教室でもそうだ。理乃は、必死にバイオリンを弾いていた。無茶ぶりにも構わず、苛立ちを隠そうともしないこちらの要求に応えるように。ひたむきで必死な、健気ささえ思わせる姿。  く、と唸り、片手の拳で壁を叩いた。痛むまで。記憶がないことがこんなに辛いものだとは思わなかった。素直に理乃に接することができたなら、どんなに楽だろう。  だが――怖いのだ。そう、恐怖だ。異性に対する恐れがまっすぐな思いをベールで包む。虚勢に近い冷たさで心を閉ざしていることを知ったら、理乃は何を感じるだろうか。  拳に力を込めた時、開けっぱなしにしてきた書斎から電話音がしていることに気付く。  パジャマを置く手が震えていた。後ろ髪を引かれる思いのまま、寝室を出る。  書斎では、高らかなコール音がスマートフォンから流れていた。急ぎ足で確認すると、神津俊と名前が浮かんでいる。手に取り、耳へ押し当てた。 「……はい、宇甘(うかい)です」 「宇甘か。オレだ、神津だ。君は覚えていないかもしれないが」  聞き覚えのないバリトンに、小さく溜息をつく。 「ええ。メールで送ったとおりです」 「メールを見て焦った。体の方は大丈夫なのか?」 「むち打ち程度です。しかし……記憶の方が」 「オレに何かできることはあるか。少しでも君の記憶を戻すために尽力したい」 「ありがとうございます。ここ四年の記憶がなく、どうにも参ってしまいました」 「明日にでも会えるだろうか? 直接会って話した方がいい気がしてな」 「ぜひお願いします。気になることもあるので。妹を連れて行っても?」 「ああ。札幌のことを覚えていないなら、妹さんと一緒の方がいいだろう……待ち合わせの場所は、そうだな。大通駅にしよう。カフェの名は……」 「今、メモをとります。少し待って下さい」  近くにあった紙切れに、転がっていた万年筆で駅とカフェの名を書いた。 「時間は十一時でどうだろうか」 「問題ありません」 「なら、明日。……覚えていないだろうが、君の音楽の女神(ミューズ)に、よろしく」  通話はそこで終わった。スマートフォンをじっと見て、ささやく。 「女神(ミューズ)……」  その響きはなぜかとても、愛しく聞こえる。これは理乃のことを指しているのだろうか。わからないことが多すぎて、疲れた。椅子に座り、再びパソコンに目を通す。 「……おや」  一件、新着のメールが届いていた。ホテルからのもので、確認してみる。 「十二月二十四日、スイート一室二名、鉄板焼き二名の予約……」  記憶にないが、すでに料金も払っているらしい。その日は確か、理乃の誕生日だ。多分祝いのために部屋などを予約してあったのだろう。  こんな状態で彼女と二人きりになれるか、わからない。また冷たく接するかもしれない。  それでもキャンセルをしたくない気持ちが勝った。ホテル名を検索し、場所などをチェックする。スマートフォンで地図と交通経路の写真を撮り、保存しておいた。 「……サプライズでしょうかね」  悩んだ。これは直接、理乃に尋ねた方がいいかもしれない。サプライズだったとしたら申し訳ないが。  それ以外のメールは、取り立てて目立つものはなかった。明日、俊と会う。そこで色々聞けば、わかることがあるかもしれない。  パソコンの電源を落とした。スマートフォンを持ってリビングへと向かう。ニュースはすでにバラエティと変わっていた。  動画に変え、ドヴォルザークの交響曲第九番『新世界より』をリピートで流す。広大な夕陽などを思わせる音に、幾分か心が落ち着いた。 キッチンの冷凍庫などを確認する。冷凍されている肉などがあった。料理は昔からしていて、趣味の一つだ。しかし、今は調理する気になれない。それでも腹は空く。仕方がないからデリバリーのピザを頼んだ。  デリバリーが来るまでの間、手持ち無沙汰になる。家がほとんど知らない場所だった。不安が胸を掠める。葉留に頼んできてもらうか、とも思ったが、それとは裏腹にスマートフォンで理乃に連絡していた。  「お疲れ様です。今月の二十四日と二十五日は空いていますか」  文字を送ったあと、心臓が脈打つ。素っ気なさ過ぎたかもしれない、と一人唸った時、既読の印がつけられた。どうやら彼女は起きていたらしい。  「お疲れ様です。有休をとってあります」  「では、その日は私にお付き合い下さい」  「でも貞樹さんの体が心配です」  ふ、と口元がほころんだ。少なくとも理乃は、自分の都合を優先するようなタイプではないようだ。  「心配なさらず。札幌のことを教えて下さい」  「はい。わたしでよければお手伝いします」  「あなたもゆっくり休んで下さいね」  「ありがとうございます。もう、寝ますね」  「お休みなさい」  返答の代わりに猫のスタンプが送られてきた。スタンプを返し、安堵の溜息を漏らす。 「理乃」  今まで決して呼ばなかった名を、呟いた。柔らかい響きの名前だった。寝室に向かい、畳んであった寝間着をまた、手にする。それにオードトワレを吹きかければ、まるで彼女が側にいるかのような幻覚に陥る。 「理乃……理乃」  頭痛がした。それでも呼び続ける。幻が優しい声で「お休みなさい」とささやいてくれた気がして、自然と微笑んだ。

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