彼岸の傾城傾国

読了目安時間:6分

第二十九話

「陛下、そろそろ……」  背後に控えていた紅焔(こうえん)から、耳元で(ささや)かれる。  煌威(こうい)視線だけを紅焔(こうえん)に向けると、常と変わらない強い眼光で返された。  普段あれほど強烈な気配を発している男が、今までは煌凛(こうりん)との会話を妨げないよう、空気のように(てっ)していたのだと。そのことに、煌威(こうい)は今更ながら気づく。  この後の、李冰(りひょう)歓迎の(うたげ)の準備に取り掛かるには刻限だと、紅焔(こうえん)の視線は告げていた。 「ああ、もうそんな時刻か」  気の置けない兄妹との会話は、時間を忘れさせるもの、とはまた違う状況ではあったが、話の内容は時間を忘れさせるに充分なものだったらしい。  最近は特に、時間の経過を早く感じるような気がする。気がつけば予定時刻、もしくは予定を過ぎている。そんなことが多々あった。その時々、話のほとんどが不信感を(あお)る気がかかりと言えるものだったせいもあるのだろうが。 「では、そろそろ行くよ。あまり思い詰めないように、な?」  煌威(こうい)(きびす)を返す前に煌凛(こうりん)の肩にやんわりと触れると、幾分か固く若干強ばったものだったが煌凛(こうりん)は笑った。 「……はい」  酒宴(しゅえん)の時間が近いこともあり、煌凛(こうりん)との話を切り上げ賓客(ひんかく)用の宿泊施設から寝殿に戻ると、狙いすましたかのように宮女が用意したらしい宴の為の袞衣(こんえ)煌威(こうい)は寝台の上に発見した。  袞衣に合わせる冕冠(べんかん)は、寝台横の小卓(しょうたく)(そろ)え置かれている。  しかし宮女の姿は周囲に見当たらず、つくづく優秀らしい宮女の仕事ぶりに苦笑した。  皇帝の身の回りの世話は紅焔(こうえん)がするものだと、禁城(きんじょう)で働く人間全てに例外なく広まっている。煌威(こうい)はそう、実感したからだ。 「陛下」 「わかっている」  促すように呼ばれ、煌威(こうい)革帯(かくたい)を解き、締めていた大帯(だいたい)を外した。続いて蔽膝(へいしつ)を外し、着ていた上衣も脱ぎ落とす。(はかま)の上に付けていた()を取り外し、残った小袖(こそで)と袴も脱ぎ捨て、小褲(しょうこ)だけになった格好で紅焔(こうえん)に背を向けた。  微かな衣擦れの音と共に、近づいてくる気配を感じる。 「腕を、陛下」  紅焔(こうえん)に言われた通り煌威(こうい)が腕を上げると、左腕からそっと袖を通された。  袞衣は皇帝が用いる礼服というだけあって、その装いは面倒くさい行程が幾重(いくえ)にもなる。  出来れば避けたい、と煌威(こうい)も思わなくはない。普段から深衣(しんい)で暮らせたら、どれだけ楽だろうかとも思う。  しかし、皇帝の威信(いしん)を保つ為に同じ衣裳で参じるのはよろしくない。と、幼少の折から教育されていれば、着替えるのも致し方なしと煌威(こうい)は感じた。先程まで着ていた衣裳も、昼間の謁見用に用意されていた袞衣だというのに不便なものだ。  まず最初に袖を通すのは小袖である。襯衣(しんい)を着用しないことには先に進めない。  小袖は筒袖(つつそで)の、大袖(おおそで)より袖を小さく仕立てたもので、右衽(うじん)方領(ほうりょう)だ。その小袖を着用したら、下に細身の袴を履く。色は小袖と袴、どちらも白と決まっていた。  袴を履いたら、次はその上に裳を身につける。腰巻きのような、(ひだ)のついた布で、こちらは基本的に鮮やかな(あか)一色だ。これから羽織る大袖とは対比が目立つ色彩をしていた。  大袖は文字通り、袖が大きく丈が短い上衣である。色は黒一色で出来ているが、(なめ)らかな生地で出来たそれは、黒一色とはいえよく見れば同色の糸で龍が刺繍(ししゅう)された(きら)びやかな物だった。  元より袞衣とは、首を曲げた龍が刺繍された衣のことを指すので、袞衣とはこの大袖を指すことのほうが多い。  皇帝の正式な格好ということで用意された袞衣と冕冠だが、宴は何も形式ばったものではない。特に歓迎の、ともなれば無礼講(ぶれいこう)なものになることさえ珍しいことではないが、如何(いかん)せん皇帝に求められるのは何時(いつ)いかなるときも、その形式だった。 「…………紅焔(こうえん)?」  ――ふと。こちらの、袞衣の(えり)を整えながら、物憂げな表情を浮かべる紅焔(こうえん)に気づき煌威は首を傾げる。  しかし紅焔(こうえん)は無言で、細い平紐で袞衣の腰を(くく)った後、寝台の上に置かれていた蔽膝を手に取った。  前掛けである蔽膝は、袞衣の上から腰位置に付け、背面で紐を結ぶ。  紅焔(こうえん)煌威(こうい)の正面に回ったことで、鼻先が触れるような、そんな距離だからこそ気づいた異変だった。  こちらを、と言うより、煌威(こうい)の眼を見ようとしない紅焔(こうえん)の姿は、少し前の己以外の全てに嫉妬していたあの姿と重なる。  ――ならば、と黙って煌威(こうい)が続きを促せば、煌威(こうい)の腰に腕を回す形で蔽膝の紐を結びながら、紅焔(こうえん)は口を開いた。 「……陛下も、跡継ぎを望まれていますよね」 「あ、ぁ? うん?」  突然振られたのは、脈絡のない話だった。思わず威厳も何もない声が出てしまう。  いや、煌凛(こうりん)との話を聞いていた故の話題だと考えれば、脈絡がないわけではない。ないわけではなかったが、煌威(こうい)にはその意図が分からなかった。  紅焔(こうえん)は話を振ったっきり、黙々と作業を続けるように大帯を締めてくる。  沈黙が痛いと感じたときだ。 「……っ紅焔(こうえん)?」  膝を折った紅焔(こうえん)が、勢いよく(ひざまず)いた。  突然の行動に煌威(こうい)もつい身構えたが、理由は革帯を付ける為だとすぐに判明して息をつく。  革帯は牛の革で出来た帯だ。大帯のように締めるものではなく、金具で留めるものである為、跪かなければ付けにくいものだった。  黒漆(くろうるし)塗りの、金の飾りが並べ連ねられている革帯を腰に留め、その左右に玉佩(ぎょくはい)を下げることで、袞衣という礼服は完成する。  袞衣が整えば、次は冕冠だ。 「失礼します」  立ち上がった紅焔(こうえん)が背後に回った。  いつの間にか用意されていた椅子に座るよう煌威(こうい)は促され、されるがままに腰を下ろす。  するり、と。後ろから(たま)飾りの充耳(じゅうじ)を避けてこめかみに触れた指先が、そのまま冕冠を固定していた(かんざし)を抜きとった。  紅焔(こうえん)の手が被っていた冠をそっと持ち上げた瞬間、解かれた髪が煌威(こうい)の背中を叩いて落ちる。  なんとなく、話しかける機会を失って。  髪に(くし)が入れられたこともあり、髪を()紅焔(こうえん)の手を心地よく感じ始めていたときだった。 「皇后は、いつ迎えられる予定ですか?」 「……っ!」  何でもない会話のように、掛けられた言葉。それに、冷水を浴びせられたかのようだった。  煌威(こうい)は思わず紅焔(こうえん)を振り返り見る。  ――お前がそれを訊くのか、と。口に出そうとして、(つぐ)んだ。  確かに、皇帝がいつまでも独り身でいられるものではない。若い皇帝にまず望まれるのは、国の太平よりも子供だ。帝国を護り、次代へと繋いでいく子供。  皇帝という地位にあれば、それも義務だと分かっている。  しかし、よりにもよってそれを当たり前のように紅焔(こうえん)から言われるのは、煌威(こうい)にはどうにも辛かった。  紅焔(こうえん)だけには言われたくなかったと、女々しい女のようなことを思う。 「……お前こそ、いつだ? 縁談が来ているだろう?」  煌威(こうい)が苦し紛れに質問を質問で返すと、紅焔(こうえん)が苦虫を噛み潰したような顔をした。  大将軍であり、皇帝である煌威(こうい)の従兄弟でもある紅焔(こうえん)にも、縁談が途切れることなく来ていることを煌威(こうい)は知っている。それこそ献上(けんじょう)という名目で、何人かの女が既に()てがわれていることも知っている。……仕方ないことだというのもわかっている。  皇族というのは、いわば皇帝の予備(スペア)でもある。皇帝に子供が出来ないときや、不慮の事故等で急死したときに、皇族の中から血筋的に一番近い者が次代に選ばれる。  紅焔(こうえん)を皇帝としたかった。紅焔(こうえん)に仕えたかった煌威(こうい)が望むのは、一つだけだ。 「わたしは、お前の子供が見たい」 「……っ」  コクリ、と。紅焔(こうえん)の喉が動くのを見た。  暗に、自分は皇后を迎える気はない。と言ったことに、その意味に気づいただろうか。 「紅焔(こうえん)、お前の子供が欲しいよ」  ――できれば、わたしに近い女との間に出来た子供がいい。紅焔(こうえん)の血を引く子供。その子供を、次代の皇帝にしたい。 「……ずいぶんと、酷なことをおっしゃる」  紅焔(こうえん)が、酷い苦痛を堪えるような顔で言った。握り込んでいる拳が震えている。  煌威(こうい)は、お互い様だろうと苦笑した。 「……お前もな」

革帯《かくたい》→革ベルト。 大帯《だいたい》→絹で出来た幅広の帯。 裳《も》→袴の上に付け蔽膝の下に付ける腰巻式の飾り。プリーツスカートのようなもの。 小褲《しょうこ》→パンツ。下着。 襯衣《しんい》→肌着。 玉佩《ぎょくはい》→五色の玉を貫いた組糸五本を金銅の花形に繋いで、腰から足先に垂らすもの。

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