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彼岸の傾城傾国

読了目安時間:5分

第十九話*

 禁城(きんじょう)の外廷で三日続いた宴の二日目。  煌威(こうい)は、早々に寝殿へと引き上げていた。  宴会とは、食事をしたり酒を飲んだりして楽しむ集まり、という意味だというのが煌威(こうい)の自論だ。皇帝に気を使う集まりではない。  いくら煌威(こうい)が気を使うなと言ったところで、皇帝即位の宴と銘打っている以上、自分がいつまでも居ては楽しめないだろうという配慮だった。  禁城(きんじょう)は皇帝の住居ということで、煌龍帝国(こうりゅうていこく)の中でも殊更(ことさら)豪奢(ごうしゃ)な造りをしている。翡翠と朱塗りの壁は、昼間は鮮やかに目を楽しませるが、夜となると色濃い濃霧のように視界を惑わせた。  月夜とはいえ足元は頼りなく、各所に設置された燈籠(とうろう)の明かりは唯一の道標だ。  皇帝即位の式典で用意された装飾品は冕冠(べんかん)を含め重く、煌威(こうい)に寝殿への足を急がせる。  内廷にあたる後宮は皇帝の寝殿や皇后・貴妃達の寝殿が並ぶ私的空間だが、煌威(こうい)(きさき)はまだ居ない。その上、この時間帯に起きている宮女や召使い、宦官(かんがん)は宴に集まっているだろうと、煌威(こうい)は音も気配も隠さず進んだ。  禁城で暮らせる成人男性は皇帝一人と仕来りで決まっている為、禁城の北に位置する王府(おうふ)で暮らしていた煌威(こうい)にとって、後宮に位置する皇帝の寝殿に入るのはこれが初めてになる。  これから自分はここで寝起きをするのかと思うと、不思議な心地がした。  皇帝の(しるし)でもある、昇龍の彫刻が施された一対の柱が皇帝の居住区である寝殿の目印だ。  煌威(こうい)は、昇龍が両側から守るように(あつらえ)られた、重たく感じるその扉に手をかけた。  ――(おごそ)か、というのか。  木が(きし)む音すら何やら意味がありそうだと思わせる、神秘めいた雰囲気を(かも)し出す扉を引き、その室内に足を踏み入れる。  歴代の皇帝が居住区にしていた寝殿だ。(ぜい)を尽くした造りをしているのだろうと煌威(こうい)は予想していたが、扉を開けてみれば華美な装飾品はまったくと言っていいほどに無く、観賞用の花すら無い。あるのは木製の机に箪笥(タンス)、本棚、寝台と、良く言えば実用的で意外と簡素(かんそ)な作りをしていた。  拍子抜けしていない、わけではないが、煌威(こうい)個人としてはとても好ましく感じた。  ふと机に視線をやれば、そこにある(すずり)煌威(こうい)が長年愛用している物で、皇帝付きの宮女がさっそく仕事をしてくれたらしいことを悟る。  箪笥(たんす)抽斗(ひきだし)を開ければ、既に自分の持ち物が収まっているのだろうかと、煌威(こうい)は少々微妙な気分になったが、皇帝という立場になったからには仕方ないことなのだろうと諦める。  本棚に収められた、今はまだ高価な紙の代わりに竹の板で作られた書籍である竹簡(ちくかん)は、既に煌威(こうい)が所有していたそれらだ。  いつか、その中に自分の(あざな)が載った竹簡(ちくかん)も歴史書として残るのだろうかと思うと、感慨深くなると同時に暗然(あんぜん)となる。  煌威(こうい)が皇帝即位に際して付けられた字は、どう反応すればいいのか戸惑うもので、正直あまり嬉しくないものだった。  いや、絢琰(けんえん)と字を名づけられたことに不満があるわけではない。〝絢琰帝〟(けんえんてい)という響きは悪くないし、字画に問題があるわけでもない。  だがしかし、絢琰(けんえん)(きら)びやかで美しい宝石の意味だ。……悪気は、ないのだと思う。そもそも宝石に悪い意味はない。  ――しかし、 「貴方には合わない」 「……っ!」  まさに今、自分が思っていたことを言葉に表され、煌威(こうい)瞠目(どうもく)する。  咄嗟(とっさ)に振り返れば、すぐ背後に紅焔(こうえん)がいて息を呑んだ。  ここは、皇帝の寝殿だ。皇帝以外の男は立ち入り禁止と決まっている後宮だ。いくら皇帝の従兄弟といえど、言い訳はできないんだぞと煌威(こうい)叱咤(しった)しようとしたが、無遠慮にこちらへ伸ばされる紅焔(こうえん)の手を見て言葉を失う。  およそ、紅焔(こうえん)らしくない立ち振る舞いに唖然(あぜん)としている間に、冕冠(べんかん)から垂れる(りゅう)の間から手を差し込まれ、冠を固定していた(かんざし)を引き抜かれた。  何を、と煌威(こうい)が口を開く暇もなく、まとめていた髪が肩を滑って落ちる。  乱雑な仕草で、紅焔(こうえん)によって皇帝の証とも言える冕冠(べんかん)が投げ捨てられ、(たま)飾りの充耳(じゅうじ)が硬質な音を立てた。 「こ……」  紅焔(こうえん)、と名を呼ぼうとして、腕を取られる。  寝台の上に押し倒されたのだと煌威(こうい)が気づいたときには遅く、脚の間に足を差し込まれ身動きを封じられていた。  少しも焦る気持ちが湧かないのは、紅焔(こうえん)に殺気がないことともう一つ。  注がれる眼差しに、――ああ、あの眼だ。と、思ったからだ。甘い、蜂蜜色の双眸(そうぼう)。  何度か見た、普段は実直と言っていい真面目一辺倒男の紅焔(こうえん)が、唯一隠さず煌威(こうい)に見せる、意思の光だ。  それは、崇高(すうこう)なものではなく俗物的(ぞくぶつてき)で、欲が垣間見えるものだったが、煌威(こうい)も人のことが言えた義理ではないので、黙って見上げる。 「絢琰帝(けんえんてい)……」  紅焔(こうえん)煌威(こうい)の視線を受け止めながら、熱に浮かされたような顔で字を呼んだ。 「貴方に、宝石は似合わない」 「……知ってる。では、わたしに似合うのはどんな名だと思う?」 「貴方にこそ、黄帝(こうてい)が相応しい。黄龍の(こう)だ」 「それは……」  龍は、皇帝の象徴だ。しかも黄龍と言えば、あの赤龍だったと言われる焔帝(えんてい)と同じ位の龍のことを指す。さらに黄色は、昔から皇帝のみが(まと)うことを許される色だと言われていた。  煌威(こうい)は、それはいくらなんでも買いかぶり過ぎだと、紅焔(こうえん)(たしな)めようとして、その真剣な眼に閉口する。  ――なんとなく。紅焔(こうえん)が自分に求めているものを察して、唇を引き結んだ。  まだ皇帝に即位して日が浅い煌威(こうい)には、当たり前のように自分を頂点として仰ぎ、そう在ることを望む紅焔(こうえん)を見るのは酷く辛かった。  黙る煌威(こうい)をどう思ったのか。  紅焔(こうえん)は寝台に広がる煌威(こうい)の髪を一筋取ると、そのまま自分の唇に押し当てた。  髪に口付ける、その意味はなんだったかと煌威(こうい)が思案しているうちに、近づいてくる紅焔(こうえん)の顔が間近に迫る。  煌威(こうい)が咄嗟にきつく瞳を閉じれば、閉じた(まぶた)の上にも唇が落とされた。

冕冠《べんかん》→皇帝の冠。冠の上に綖《えん》と呼ばれる長方形の木板を乗せ、板前後の端には旒《りゅう》(珠を通した紐)を簾《すだれ》のように垂らしたもの。 冠側面から整えた髪や冠を固定する為の簪《かんざし》を指し、底部の顎紐を結んで被った。 板の中央には赤帯がつき、その両側から耳の辺りまで垂らした紐に充耳《じゅうじ》(珠飾り)がつく。

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