彼岸の傾城傾国

読了目安時間:6分

第二十八話

 謁見(えっけん)の場で、李冰(りひょう)から一歩下がって立つ煌凛(こうりん)は、武将ではなく女の眼をしていたように思う。  嫁いでから何があったのか、離れた土地で暮らす煌威(こうい)に推し量ることは出来ないが、おそらく李冰(りひょう)を人間としても男としても、信頼する何かがあったに違いないと考える。政略結婚とはいえ、夫婦は夫婦だ。共に過ごすことで余人には分からない信頼関係を生むこともあるだろう。  というか、信頼関係がないと夫婦としてやっていけない。特に国を背負い、民を背負う責任のある立場の人間同士は。先帝と、その正妃であった玉環(ぎょくかん)の二人がいい例だ。  そう考えれば、煌凛(こうりん)の顔色を見るに李冰(りひょう)との二人の関係は、悪いものではなかったのだろう。  この婚姻は、条約の為の婚姻であり、国にとってはそれ以上でもそれ以下でもなかった。二人が仲睦まじい夫婦でいる必要はなく、帝国と北戎(ほくじゅ)を結ぶ(かすがい)であればいい。そう望まれた婚姻だ。  けれど、それを煌凛(こうりん)は今、良しとしていないのだ。  煌凛(こうりん)が帝国を母国で、己にとって唯一の国と捉えていることに変わりはないだろう。  だが、おそらく比重は変わっている。帝国と北戎(ほくじゅ)、いや、この場合は帝国と李冰(りひょう)、だろうか。煌凛(こうりん)は、帝国と李冰(りひょう)を同等に見ている。  愛して、しまったのだろう。帝国を想うのと同じように。もしくは、それ以上に。  煌威(こうい)にも覚えのある感情だから分かる。  正しく同じかと問われれば違うものだが、煌威(こうい)にとってのそれは紅焔(こうえん)だ。  紅焔(こうえん)を皇帝とする為なら、どんな汚いことでも、どんなに人から恨まれようとも、何でも出来ると思った。今でもそれは、別の形で煌威(こうい)の内にある。だから、李冰(りひょう)の行動に思い悩んでいる煌凛(こうりん)の気持ちが分かる。  李冰(りひょう)が己以外の妻を全員離縁したという事態に、帝国ですら一夫多妻が当たり前の姻習(いんしゅう)だったのだから、煌凛(こうりん)は戸惑ったことだろう。  そこで女の優越感が出てこないところはさすがだが、李冰(りひょう)を真に想い、上に立つ人間としての自覚があれば戸惑うのが当然だ。  皇族には、血筋を守る義務がある。  とある国のように血統の純血性を守る為、近親婚を推奨しているわけではないが、血筋を尊んでいることに変わりはない。  皇族の生まれである煌凛(こうりん)にとって、女としての自尊心より優先させて然るべき義務を無視した李冰(りひょう)の行為は、相手を愛しているからこそ納得のいくものではないと捉えるのが普通だ。 「李冰(りひょう)殿に、子供はいません。先だっての……、その……、あのとき、亡くなられた御息女以外に子は無かった」  なんとも複雑な顔で、言葉に惑いながら煌凛(こうりん)が言う。 「……ああ、知っている」  だからこその、婚姻によって締結される不可侵条約だった。  李冰(りひょう)にとって、ただ一人の血が繋がった娘。その娘を差し出すという行為事態が、帝国と北戎(ほくじゅ)の信頼関係にも繋がっていた。  それが、横恋慕というにも烏滸(おこ)がましい、最低なことを仕出かした先帝と、(さら)われる形で皇后に収まった玉環(ぎょくかん)の娘だったと判明するまでは。  玉環(ぎょくかん)李冰(りひょう)の妻で、攫われて先帝の正妃にされていた等と。実は李冰(りひょう)の子供とされていた娘が先帝の娘で、皇太子とされた先帝の子供が李冰(りひょう)の息子だった等と。誰にも、予想などできなかった。  今は皇帝であり、皇太子だった煌威(こうい)李冰(りひょう)の実子だと知っているのは、肝心の産みの親である玉環(ぎょくかん)亡き今、李冰(りひょう)煌威(こうい)当人だけだが、それが問題だ。  李冰(りひょう)は条約締結の条件に、崩れかけた信頼をまた築く為だと詭弁(きべん)(ろう)して、「妻だった玉環(ぎょくかん)の忘れ形見である皇太子を煌龍帝国(こうりゅうていこく)皇帝に」と言いながら、本当は先帝ではなく自分の息子である煌威(こうい)を皇帝とすることで、裏から帝国を支配しようとしている。そう思われてもおかしくない。  実際、真実はそうでないのかと煌威(こうい)自身疑っている。  玉環(ぎょくかん)から聞くまで己の出自がどういうものか、煌威(こうい)自身どころか李冰(りひょう)も知らなかった。それは確かだが、知らなかったでは済まされないのが現状であり、もし万が一それが判明した場合、帝国は北戎(ほくじゅ)に弓を引くだろう。  そもそも裏を知らない、表しか知らない人間にとって、李冰(りひょう)が友好条約において煌凛(こうりん)(めと)ったことだけならまだしも、北戎(ほくじゅ)に利となるわけでもない煌龍帝国(こうりゅうていこく)の皇帝を煌威(こうい)に、と指名して条約締結としたことに、なぜ誰も違和感を抱かないのか煌威(こうい)(はなは)だ疑問だった。  しかし、誰かが違和感を抱いたとして。  事の発端や全てを調べ、煌威(こうい)の出自やらが白日の元に(さら)された場合、煌威(こうい)は皇帝から引き()り降ろされた末に処刑されるのは確実と言えるのが悩ましいところだ。  次の皇帝は弟達か紅焔(こうえん)かで揉めるところまで想像出来る。  今の北戎(ほくじゅ)と帝国の関係は、正直言って危ういものだ。  例えるならば、断崖絶壁に生える木のようなものであり、根が外に出ている木は踏ん張る力もなく、ほんの少しの雨やそよぐ風で崖下に落ちてしまう。  解決策は、雨を(しの)ぐ屋根を作り、そよ風すら通さぬ壁を設置させることぐらいだろう。  断崖絶壁という、下手をすれば解決策を講じた人間すら共倒れになる場所で。  それが分かっていて、第三者に解決策を講じさせるわけにはいかなかった。 「……宴でそれとなく李冰(りひょう)殿に話を振ってみよう」 「陛下……!」  煌威(こうい)の言葉に、煌凛(こうりん)が目を輝かせる。  期待と、少しの罪悪感を湛える目だ。  事態を解決出来るかもしれない、頼れる兄に対する期待と、しかし私利私欲と言っていい事柄に一国の皇帝の手を煩わせる自分を恥じている、そんな眼だった。 「ありがとうございます兄上。ありがとうございます陛下……」 「…………」  深く腰を折って拱手礼(きょうしゅれい)をとる煌凛(こうりん)の姿は、どちらかというと叩頭礼(こうとうれい)の形に近い。  つくづく、煌凛(こうりん)は生真面目で清廉潔白な人間だと煌威(こうい)は思う。自分とは大違いだ、と。  ――わたしが行動する理由は、正しくは煌凛(こうりん)の為ではなく、わたし自身の保身の為だと言ったら、煌凛(こうりん)はどんな反応を見せるだろうか。  煌凛(こうりん)を妹として大切に思っている。これは本当だ。だが出自が露見したとき、処刑されることを恐れているのも確かだ。間違いではない。間違いではないが、更に言うなら煌威(こうい)の本音は別のところにあった。  ――やっと、紅焔(こうえん)を皇帝にと望むことを諦め、紅焔(こうえん)の望む皇帝であろうとしているところに、皇帝の地位から引き摺り降ろされては堪らない。 「……大丈夫だ。煌凛(こうりん)を妻にしている今の状況で、まさか李冰(りひょう)殿も帝国と戦争をしようなどと思ってはいまい」 「……はい」 「妻が一人だけ、というところに李冰(りひょう)殿を想えばこそ不安を抱く気持ちも分かるが、北戎(ほくじゅ)と帝国では文化や習慣が似ているようで違うところもあるだろう」 「……はい」 「真に煌凛(こうりん)を想えばこそ、李冰(りひょう)殿にも何かしら思うところがあっての行動なのかもしれない」 「……はい」  言葉を弄する。というのは、こういうことを言うのだろう。  煌威(こうい)自身も李冰(りひょう)を疑っているにも関わらず、そんなことはないと。煌凛(こうりん)を想うが故の行動かもしれない、と。私利私欲の為に、煌凛(こうりん)を慰める甘い言葉を吐く。 「李冰(りひょう)殿は悪い御仁(ごじん)ではないよ」  なんと言っても、煌威(こうい)煌凛(こうりん)の母である玉環(ぎょくかん)が命懸けで愛したと言っても過言ではない男だ。  頭が切れるぶん油断ならないが、無闇(むやみ)に民を虐殺(ぎゃくさつ)するような悪い人間ではないということだけは煌威(こうい)も確信を得ている。  基本的に李冰(りひょう)は悪い人間ではないのだ。  考え方を変えれば復讐の為、離縁は妻達に被害が及ばぬようにという配慮の可能性もある。  ただしその場合は、李冰(りひょう)煌凛(こうりん)をも巻き込んだ復讐を計画しているということになり、あまり良い状況ではなくなるが。  李冰(りひょう)は悪い人間ではなかった。立派な、というと語弊(ごへい)があるかもしれないが、人の情を踏み(にじ)るような酷い人間ではなかった。  もしそんな酷い男に李冰(りひょう)が変わったのだとしたら、帝国が歪めたということだ。妻だった玉環(ぎょくかん)の娘である、まして今や己の妻でもある煌凛(こうりん)をも手にかけるほどの非情な男に。  さすがに煌威(こうい)もこれは言葉にしなかったが、兄の意図を察したのか、煌凛(こうりん)は力強く頷いた。 「はい。李冰(りひょう)殿を信じています」

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