時代短編集 『脱兎』 ~元禄お江戸干支巡り~

逃げる兎。

第4編 脱兎

「灯りだ……」  江戸を出て今日で三日、甲府を目指して歩いていた山中で、まさにこれぞ希望の灯りだ、と思えるような小さな光の瞬きを見つけた小平治は、かすれた声でそうつぶやいた。  死の淵にあった女房おさきの全快を願って三年前に身延山に賭けた願を解きに行く途上、追剥に追われて山中に逃げ込み、そのまま迷ってしまっていたのであった。  侍とはいえ太平の世を生きる微禄の旗本、鞘の内の刀はもはやただの重りでしかなく、追剥と渡り合ってなどという選択は、小平治にはなかった。 「助かった」  右も左もわからぬ山中をさまよっている時には、普段は不信心であるのに、都合の良い時だけ願をかけるなどという事をした自分に対する御祖師様の罰かとも思ったのだが、どうやら完全に見捨てられたわけではないらしい。  仏も時には助けてくれる……か。  小平治は心中でそうつぶやきながら、残る力を振り絞って、灯りに向かって駆け出した。   「それはそれは、大変でございましたねぇ」  たどり着いた先、灯りのその場所にあった小さな山小屋の中で、小平治を迎えてくれたのは三十を少し出たくらいの女だった。 「う、うむ、まぁ。助かり申した」  そう答えた小平治は、その女を前にして、先程から震えが止まらないでいる。  目の前にいる女は、こんな山中にいるには似つかわしくない、小太りでつきたての餅のような肌は艶めかしく、後ろで一つに束ねた髪は夜の闇をそのまま切り出したかのように深い色をして絹の如くに滑らかな、いい女であった。  白くやわらかな指で湯を出してくれたその所作の一つ一つも、妙に堂にいっている。  それよりも、何よりも……。  出された温かな湯を啜りながら、小平治はその顔をまじまじと見つめた。  と、女が口を開く。 「どなたかに似ておりますでしょうか」  その声に心の臓を一突きにされたような心持ちになって、小平治は慌てて首を横に振った。  似ている、どころではない。  囲炉裏の火に照らされて、茜色に揺らめくその女の人相は、女房おさきと瓜二つ。いや、むしろ割らずそのまんまといった具合に、そっくりであった。 「申し訳ない、死を覚悟していたもので、その放心してしまってな」  情けない事だ。と、小さく付け加えて、小平治はその場を取り繕った。 「無理もない事でございます、慣れぬ者には、山の中というのは自分の居場所もはっきりしないものでございましょうから」  と、女は相槌を打って立ち上がると、狭い小屋の水場から鍋を一つと徳利を一つ下げてきた。 「お湯で胃の腑が温まったなら、何か食べた方がよいでしょう」  そう言って女は鍋を囲炉裏の自在に掛ける。 「かたじけない、それより、ご亭主は何処でござろうか」  ふと我に帰った小平治は、今現在、自分が亭主不在の家に上がり込んでその妻と二人きりであることに気付いた。  あまり行儀のいいことではない、下手をしたら、疑われてしまう。 「ああ、うちの人は(しし)を撃ちに出かけております。たぶん、今日の獲物は手ごわいのか、それともまだ一匹も手に入らないのか、いづれにせよじきに戻りましょう」  女は優しげに「まぁおひとつ」とそう言うと湯を飲んで空になった湯呑に酒を注いだ。 「い、いや、亭主の御留守に酒など頂くわけにはゆかぬ」 「何をおっしゃいますか、山で迷ったお武家様に酒の一つも出さないでは、逆に叱られてしまいます」  女はそう言うと薄く微笑み「これも御祖師様の御引き合わせでしょうし」と囁き「とはいえ、我が家の宗旨は真宗なんでございますけど」と童女の様にいたずらっぽい笑みを浮かべた。  その笑みが、また、おさきとよく似ている。  若いころは今小町とさえ言われた小平治の妻おさきもまた、時折見せる童女のごとき微笑みが美しく何ともかわいい女だった。  不思議なことも、あるものだ。  小平治は観念して湯呑の酒をあおった。 「うまい……な」 「ええ、亭主も私もいける口でございますので、お酒だけはいいものをわざわざあつらえに行きますので」  と、小平治は先程から気になっていたことを尋ねた。 「そなた、江戸に居たことはないか」  これまで交わした言葉のうちに、江戸のなまりを感じていた小平治は、そう尋ねる。 「ええ、よくおわかりで」 「江戸のどのあたりだ」 「……千住の辺りでございます」  なるほど、な。  小平治は合点が行って酒をあおった。  千住と言えば岡場所。それも吉原の向こうを張ると言えば大げさではあるが、品川と比べて遜色ないほどの場所だ。  なればこの女、そう言った類の。  「お察しの通り、私はコツで客をとっていたような女でございます」  コツとは刑場で有名な小塚原の事で、千住の岡場所の通称。  つまり、女は小平治の心中を正確に察したことになる。  「いや、まぁ、人の世は色々であるからな」  下卑た推測を正確に射抜かれた小平治は、ばつの悪そうな顔で一息に酒をあおる。と、すかさず女は空の湯呑に酒を注ぎ足した。なるほど、手慣れている。 「ええ、そうでございますね。私は今の亭主に見初められ、年季が空けてすぐこの家の女房になれましたから」  と、女は意味ありげに目を伏せた。 「幸せだ、と言わなければならないのでしょうね」  そんな意味ありげなしぐさと言葉に、小平治の心が揺れる。 「それはどういう事だ」  小平治の問いに、女は静かに答えた。 「江戸が……懐かしゅうございます」 「よい思い出のあるところではなかろう」 「ええ、でも、このような一人で出歩くこともままならない山家に閉じ込められていては、楼に繋がれていたあの頃と大して変わりはございません」  なるほど、そうかもしれんな。  小平治は小さく頷いた。  女の姿を見るに、どう考えても山歩きになれた風情ではない。きっと亭主と共にでなければ、すぐその先までもひとりでは行けぬに違いない。 「客の数が減った、ただそれだけの事でございますよ」 「亭主を客とは」 「元々そうでございますから」  女はそう言うと、鍋のふたを開けた。  途端に湯気と共に何とも言えない香気が小屋の中に満ちる。 「うまそうな匂いだ」 「はい、うさぎ汁でございます」  なんと。小平治はそう答えて心底震えた。  うさぎ汁は妻おさきと小平治に共通の好物であったもの。また、滋養によいからと病の床に臥せってからも何度となく金を工面しては食べさせていたもの。  まさか、ここまでとは……。 「お嫌いでございますか」  小平治のただならぬ様子に、女は問う。 「い、いや、むしろ」  小平治は酒をあおった。 「好物である」  しかし、身延山に願を賭けたその時から、小平治はこのうさぎ汁だけは断っていたのだ。  たしかに、それほど良く食されるものではない故、うさぎ汁は断ち物には不向きだ。  普通、断ち物とは普段からよく口にするもの、または欠かせぬものを断つ。それこそ、塩だ酒だ茶だと言った物こそ、断ち物として成立する。しかし小平治にとって、うさぎ汁を断つことこそが正当のように思われた。  決して安くない銭を払って材料を集め、自ら仕立てて妻に食べさせる。  自らの欲を抑え、ただ妻の為だけに。 「どうぞ、召し上がってくださいな」  それだけに、おさきによく似た女が進めるこのうさぎ汁に、小平治は心が乱れた。  おさきが臥せって以来、どれほどこの場面を夢に見続けてきただろう。  元気になったおさきと二人、鍋を囲んで互いに酒を酌み交わしつつ笑顔と共にうさぎ汁を存分につつく光景を。  今、ここにある、この光景を。  幾度、幾晩。思い描いては涙しただろう。 「どう、なさいました」  女の言葉に、小平治は、自らが涙を流していることに気付いた。 「な、なんでもない」 「そうでございますか、ただ、ここは山中の一軒家。何をどうお話になってもだれが聞いているというわけでもありませぬ。それだけはお見知りおきくださいませ」  そう言うと、女はうさぎ汁を注いだ椀を差し出した。 「かたじけない」  そう言って粗末な椀を受け取る途端、小平治の鼻をうさぎ汁の何とも言えない香りが通り抜けた。 「ほぉ、根三つ葉を使ってあるか」  この言葉に、女は顔をほころばせた。 「まぁ、お詳しうございますこと」  詳しいも何も。小平治は顔をしかめる。  うさぎ汁に三つ葉の根を入れるやり方は、おさきの郷のやり方で、小平治はそれをおさきに教わったのだ。  これは、夢か。いや、物の怪の類か。  小平治は静かに目を閉じ心中で「妙法蓮華経」と、お題目を唱えた。  しかし、目の前の女は消えない。と、なれば。 「そなたの言う通り、これは御祖師様のお導きかもしれぬな」  そうつぶやくと小平治は開き直って椀の汁を啜った。  とたん、うさぎの出汁の旨味をふんだんに感じるみそ仕立ての汁の味が、滋味深い根三つ葉の香気をまとって口腔をくまなく覆いつくす。 「ああ、うまい」  これが物の怪であろうと夢であろうと、また狐狸の類であろうとかまわぬ。  小平治は一心に汁を啜り、そしてその身をかみしめた。  跳ね返すような弾力を持った肉が噛むごとに味わい深く旨味を染み出し、それが絶品の汁と混ざって何とも言えない旨味の塊となる。 「うまい、本当にうまい」 「それはようございました」 「ああ、亡き妻の物と遜色ない」  小平治はそう言うと、椀の汁を残らず飲み干し、大きく一つ「ほぉ」っと息を吐いた。 「うまいものというのは、心を平らかにするの」 「奥方様は、お亡くなりに?」  「ああ、つい半年前の事よ」  小平治は目を細めた。 「何やらよくは分からぬがな、四年前に風邪がもとで寝付いて以来、立ち歩くのも難しくなって、三年寝付いたのちにぽっくりとな」  願掛けの甲斐も断ち物の利益もなく。 「妻が寝込んですぐ、朋輩の勧めもあって身延山に願を賭けたのだが、その甲斐もなく、な。もちろん普段から信心などしなかったこの身だ、何の文句も意趣もないが、とはいえ願を解かねば、と思って、な」 「そうでございましたか、それはお気の毒に」  そう言いながら、女は静かに酒を注ぐ。 「ああ、いい女だった」  答えて、小平治はその酒をぐびりと一口飲んだ。 「おぬしにそっくりの、な」 「まぁ、そのようなことをおっしゃられては奥方様に…」    咎めだてをする女の言葉をさえぎって、小平治は薄く微笑みながら続けた。 「なに、死んだ者は妬きはせぬよ」  なぁ、おさき。かまわんよな。  小平治は今は亡きおさきに、心中で語り掛ける。  おさきがこの世を去って以来半年の間、小平治は毎晩の如く酒を食らっては泣き明かした。小なりとはいえ一端の侍である男のすることではないだろうが、唯一無二と心に決めていたおさきへの想いを流し切るのに、それだけの時と酒が要ったのは事実。  こうして願解きを思いついて旅だったのもまた、最後に残った心中の凝りを払うため。しかし。 「御祖師様も酷なことをなさる」 「まぁ、どうしてでございます」 「亡き妻の供養にと心に決めて身延山へ旅立ち、その途上で迷った挙句、たどり着いた先に亡き妻にうり二つの女と出食わしたのだ」  言い終えて、小平治は、女の顔を見つめた。  やはり、似ている。 「しかも、そこで、妻の好物であった根三つ葉の入ったうさぎ汁が出てこようとは、な」  そう言うと小平治は自嘲気味に笑った。  しかし、女はそんな小平治の言葉に意外な言葉を返してきた。 「お逃げになりたかったのでございましょう」  逃げる? 「それはどういう意味だ」  小平治はそう言って女の顔を睨んだ。 「失礼を承知で申し上げます。お武家様はきっと、もう、わかっておいでなのですよ、自分がこのまま亡き奥方様への思いに捉われていてはいけないという事を」  言いながら女は空の椀にうさぎ汁を注ぐ。 「しかしながら、振り払えば、振り払おうとするほどに、想いはその身にまとわりつく。そしてそれは何とも悲しく苦しく、それでいてどこか心地もよいもので、ふとした時に流されそうにもなる」  小平治は女の顔を見つめながら、新たに満たされた椀を持ち上げた。  一口すする。  そして、涙した。  女の言う通りであった。  死んでしまったものは帰ってはこない、それは十分すぎるほどにわかっていた。わかってはいたものの、心のどこかに、確かにその中心に、おさきが生きているような気がしていたのだ。  いや、心の中だけではない。  いつも笑いあっていた居間の柱の陰に、台所のへっついの脇に、二人で歩いた横丁の板塀の向こうに、そして、鬢付の匂いの残る枕に。  そこかしこに、江戸の街のいたるところに。おさきはいた。  おさきの存在を感じていた。 「そう、かもしれぬな」  願を解きに身延山へ。それは、そんなおさきの残して行った甘やかで暖かな、おさきの生きた証の残る江戸から、逃げ出したかったからかもしれない。  この女の言う通りに。 「ええ、でも。それでいいのではございませんでしょうか」 「逃ぐるは士道不覚悟というぞ」 「奥方様は敵ではございませんでしょうに」  女はそう言って、やさしげに笑った。 「さもありなん」  女の笑みを受け、小平治は再び汁を啜る。  こうして、暖かで柔らかな汁が染み入るように胃の腑に落ちて行くたびに、小平治の固く凝った心の皮が一枚づつ剥げ落ちていくような気がしていた。 「礼を、せねばの」  ゆっくりと汁を飲み込み小平治は言った。 「お礼、でございますか」 「ああ、そなたには本当に世話になってしまった」  素直な、気持であった。  命を救われたのはもちろんのこと、こうしてここに転がり込んだことが、本当に御祖師様のお導きであったと信じられるほどに、小平治の心はつい先刻とは打って変わって軽く伸びやかであったからだ。 「何かないか」  小平治は問う。と、女は突然に表情を変え、深刻な面持ちで答えた。 「ならば、亭主を殺していただけませんか」  場の空気が、突如、ぴんと張り詰める。 「なんだと」 「うちの人を殺してください」  女の言葉に、小平治は、手に持った椀の汁が急に冷めていくような気がしていた。 「理由を、聞こう」  小平治は湯呑を差し出し、酒を注がせ、それをゆっくりと飲み込んでそう言った。 「はい」  女はそう言うと、自らも手酌で酒を一杯煽り、語り始める。 「私は、信州上田の武家の娘でした」  女の言葉に、小平治が顔をゆがめる。 「いかがなさいました」 「いや、何でもない続けよ」 「はい」  そうして語られた女の話は、小平治が思うよりも重く、また、それでいて江戸の街には悲しい程によく転がっている類の話であった。  女の名前は、おあき。  武家の娘として生まれ、貧しいながらも、母と姉を含めた三人の家族で仲良く暮らしていたそうだ。  ところがおあきが十歳になった年の夏のある日、お役目で江戸へと向かった父が野盗に殺されて以来、おあきの生活は一変する。  働き手を失ったおあきの家族はどうにもままならず一家離散。おあきは、さる商家の七十に手も届こうかというご隠居の妾として、もらわれていったそうだ。  そこでおあきは年寄りの慰み者として囲われた。  決して楽な生活でも快い暮らしでもなかった。しかし、おあきはそれでも幸せだと感じていたようだ。それがどんな理由で何を見返りに求めているからなどとはかかわりなく、その厭らしげな隠居のもとでの生活には何の不自由もなかった。  ただ家族と会えない寂しさだけは残っていたものの、それでも生きているだけで、それだけで幸せだと思えていた。  ところが妾になって三年後、おあきが十四になってすぐ、隠居がこの世を去る。  そしておあきは、本人の意思とは無関係に、宿場女郎として売られた。 「そっからはもう、地獄のようでございました」  そこまで一気にしゃべると、おあきはまたしても手酌で酒を飲んだ。  よほど好きなのだろう、一度に飲み込む量は小平治のそれよりも多い。 「ご隠居様のご家族は、私を女郎屋に売り飛ばしてからもずっと、私の売り上げからいくらか取り続けていたようでした。それでも、有難いことによい客筋にも恵まれましたので、衣替えに困るようなことはありませんでしたが、ただおかげで、いつまでも年季は伸び続けるばかりでございました」  十四のころに苦界に身を沈め、泥の水に首まで浸かっていたとは思えないほどの色香で、おあきは自らの手を見つめた。  なるほど、これならば客筋には恵まれるだろう。 「そんなときです、一人の商家の若旦那様が私を見初めてくださいました」  おあきの頬が刹那ぽっと赤く染まる。 「お優しい方でした、そして実のあるお方でした」  おあきは、心に残る思い出を抱きしめるかのように、自分の胸をそっと抱いた。 「若旦那様は、お店の方をしっかりと説得なさって、私を嫁に迎える準備を着々と進めてくださっておりました、が、そのお店というのが、ご隠居様のご家族のお得意先に当たるお店でございまして」  そこに、無くした幸せのかけらでも落ちているかのように、おあきは目を伏せた。 「家の恥をお得意先に知らせることはできない、と、ご隠居様のご家族が先回りをして今の亭主に私を売ったのでございます」  なんという事だ。 「では、今の旦那というのは正式なお前の亭主ではないのか?」  売られた女と添う男などいない。  おさきは自嘲気味に微笑んで、首を縦に振った。 「ええ、今の亭主は甲府で御家人をしている男で、猪撃ちを趣味としております」 「ほう、ならば侍か」 「はい、この山中に私を閉じ込めておいて、月に五,六度程ここにお籠りにいらっしゃるだけでございます」  なるほど、な。こんな山中に、それも猪撃ちの時にしか使わぬような場所に女を閉じ込めておけば、家の者に知られることもなく、女を囲っておけるという事か。  何とも惨く、そしてうまいやり方だ。 「しかし、冬はどうしておる、猪撃ちになどこれぬであろう」  小平治の問いに、女は憂いの色をさらに濃くして答えた。 「その間は、山のマタギを相手に商売をさせられております」  なんと……。  それでは、苦界の水を舐めていた時の方がよほどましではないか。  小平治は憤る。しかし、今ここでおあきを慰めれば、その先に待っているのは人殺しの道のみであるように思われて、ううんと唸ったまま目を閉じた。 「無理で御座いましたらそれでいいのでございます。お忘れください」  忘れられようはずがなかった。  目の前に、亡き妻と瓜二つの女が慰み者として囲われている。  侍として、男として、いや、何より人間として、このむごい境遇の女を放置しておけるものだろうか。    それに……何より……。 「このうさぎ汁はまずい」  小平治はそう言い放った。 「え?」  突然の言葉に、おあきは訝しげに小平治を見る。 「時が経ち過ぎておる、脂が凝って、いかにもまずそうだ」 「ならば温めなおします」 「そうよな、温めなおせば、またうまくなろう」  そう言うと小平治はゆっくりと立ち上がった。 「しかしな、わしはもう、うさぎは食わぬ」 「なぜでございます?」  おあきの問いに小平治は刀の柄に手をやりながら答えた、いや、問い返した。 「なぁ、なんでうさぎはうまいと思う?」 「え?」 「うさぎは弱い生き物よ、猪の如く強い精気を持っておるわけではない。森の獣に、冬の寒さに、そして人間に。抗う事もなく逃げ回るだけのつまらぬ生き物よ」  小平治は語る。  そして自らの刀を見つめた。このような恐ろしい凶器を持ちながらも逃げ惑ってこんなところに流れ着いた自分を。 「なのに、うさぎはうまい。それはな、逃げるからよ」  そう、俺のように、そしてお前のように。 「逃げて逃げて逃げて、逃げ回るうちにその身は鍛えられその肉には力が宿る。そして、食われる。逃げることでうまくなりそのせいで追われ食われる。うさぎとは、哀れな生き物よ」  逃げ回り食い物にされ、また逃げる。 「なぁ、おあき、そなたはうさぎか?」  振り返って小平治は、おあきの顔を睨んだ。  ゆらめく囲炉裏の火に照らされ、きっとこちらをにらみ返したおあきのその顔は、仁王の如くになっていた。 「私は、人間でございます」  そうか、なればこそだ。 「ああ、拙者も人間だ。もう逃げぬ、また、食われもせぬ」  うさぎは持たぬ鋭い牙を、小平治は持っている。そして、それを振るう理由もある。  小平治ははゆっくりと息を吐くと、おあきに尋ねた。 「おあき、そなたの姉の名はなんという」  おあきは、戸惑いながらもしっかりと答えた。 「おさき、おさき姉さんと申します」  ああ、思った通りだ、なんという事よ、なんというめぐり合わせよ。  話の途中からずっとその事が気にかかっていた、上州上田の武家の子で、親の死で一家離散となった。それは小平治が妻おさきに聞いていた身の上話そのものではないか。と。  その後糸問屋に奉公に上がったおさきが小平治の元に嫁いできた時に話した身の上話のままではないか、と。  根三つ葉を入れたうさぎ汁。  おさきの郷の名物。  味付けも何もかも、まったく同じその味が、事の真実を裏付けていた。 「御祖師様、いや、おさきの導きかの」 「なぜ姉様の……」 「なんでもない」  小平治は刀の柄を握りしめ、ゆっくりと土間に下り草鞋を履いた。 「江戸にはうまいものがたくさんある」  そう、おさきの好物は、何もうさぎ汁ばかりではなかった。 「廓に籠っていたそなたが知らぬようなうまいものがな」  小平治に言葉に、すべてを察したおあきがゆっくりとそれでいて力強く答えた。 「はい、頂きとうございます」 「うむ」  そう答えると小平治は小屋の扉の前で腰を落とし、抜き打ちの構えで待機した。  さあこい、猪撃ち。  うさぎの一撃をくらわしてやろうぞ。  逃げ回るうさぎが、人となるための一撃をな。  にわかに、外に吹く風の音が轟轟と強くなる。  その風の音のまにまに、小平治は確かに人がこちらに向けて歩いてくる音を聞いた。  もう、逃げまいぞ。  小平治の鼻を根三つ葉の香りがくすぐる。  足音がすぐそばまで近づいてきて扉の前で止まった。 「おさき」  小平治は小さくつぶやくと、跳ね上がるうさぎの如く。  一気に鯉口を切った。

いかがでしたでしょうか。 なお、私は、このほかにも 「仕合せ屋捕り物控」https://novelup.plus/story/447310734 という時代小説を書いております。 よろしければそちらもご一読ください。

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