時代短編集 『脱兎』 ~元禄お江戸干支巡り~

第5編 竜胆

「で、おまいさん、これを誰に食わすつもりなんだい」  浅草は言問橋(ことといばし)の袂、料理屋「桜屋」の奥座敷で、そう言って料理人の孝介をギロリと睨んだのはこの家の女主(おんなあるじ)であるおつるだ。なくなった先代の幸兵衛(こうべえ)と二人、この桜屋を一から築き上げた苦労人だけあって、その眼光は鬼の如くに鋭く冷たい。  対して、この()の椀方である孝介は、その眼光に射すくめられてシュンとしている。 「まあ女将(おかみ)さん、もうちょっと優しく言ってくだせぇよ、こいつも頑張っているんだ」  孝介の隣で、バツの悪そうな表情を浮かべているのは、桜屋の花板である佐吉。  侍の家から桜屋へ奉公に上がり、程なくして身寄り頼りを失ったまだ十七の孝介の身内のようなことをやっている料理人で、齢三十を出たばかりではあるものの、浅草界隈では一と言って二と下らないと噂される名人である。  よって、主であるところのおつるからの信頼も厚いのであるが、こと孝介の育て方については、いつもこうして(つの)を突き合わせているといった次第で。 「いい加減におしよ。あんたがそうやって孝坊を甘やかすから、こんなくだらない汁を作るんだろう」  その言葉に、孝坊と呼ばれた孝介は、さらに絞った濡れ雑巾のようになってしまう。  確かに十七と年若くはあるものの、椀方といえば料理屋においては上から三番目の位。幸兵衛の思惑で次板を置かない桜屋においては花板の佐吉に次ぐ位である。商人と違って職人は勤めの長さより腕が最優先とはいえ、坊や扱いされるような人間ではない。  それだけに、孝介としてはもう、穴があったら入りたい気分で縮こまっているのだ。  そしてその一言は、隣に座る世話役の佐吉の心にも、ジクリと鈍い痛みを与えたようで。 「おっしゃるとおりで、ただ、もう少し待ってあげてください」  と、悲しげに頭を下げるのみであった。  女将であるおつるに散々っぱらどやされたあとの板場。  孝介は佐吉と顔を突き合わせて、自分の作った汁を片手に泣きそうな顔でしょぼくれていた。 「まあ、とりあえずもう一度飲んでみろや」  佐吉にそう促されて、孝介はその椀の中に引かれている澄んだ出汁の香りを嗅ぎ、そして小さくため息をついた。  冷めているとはいえ、そこから立ち上る香気は、鰹節の良いところだけを薄く切り出した削り節を使い、しかも生臭みを極力出さぬよう細心の注意を払ったことの良くわかる品のいい香り立ち。香りだけでも生臭みを一切感じさせない一級品の汁だ。  それだけに、孝介にはそれのどこが悪いのかさっぱりわからない。だから、それをじっと見つめるほかないのだ。  そうして見つめる椀の中に浮かんでいるのは、鞠麩と三つ葉。三葉は香りが強いもののだからといって生臭さを抑えることのない青物で、むしろ喧嘩をするもの。そして、鞠麩は汁を吸うからその香ばしい麦の香りを消さないためにも、やはり生臭みを抑えるのは常套である。  教えられたとおりに作り、そして、自分の鼻と舌の間違いのないさじ加減で引いた出汁。  一口すする。 「やっぱり、うまい」  吸ってみて、唇の間からすすり込まれる汁は、舌の上でまず典雅な三つ葉の香りをふわっと漂わせたかと思うと、後を追うように鰹の精の強い香りと確かな旨味が口内に広がる。そして、その旨味が、先に広がっていた三つ葉の香りに合わさってなんとも言えない味の(にしき)を口内に織り上げてくれる。  孝介は訝しげな表情のまま小さく息を吐くと、そのまま箸で鞠麩をつまみ上げ口に入れる。  するとこちらも、まずは三つ葉の香気をまとって口に転がり込むと、舌と顎の力でじゅわっと潰れ、中から旨い出汁が小麦特有の香ばしさを連れて溢れてでてくる。さらに、やや時が経って頼りなくなっているものの、孝介が一から選んだその一級品の鞠麩は、心地よいクニュクニュとした感触が官能的ですらある。  しかも、どこかにそっと三つ葉の苦味を感じるのもいい。  その刺激が、ぐっと胃の腑を刺激して食欲も湧いて出る。 「まちげぇねぇ」  やはり、うまい。 「佐吉の(あに)さん、いってぇこれはなにがいけねぇんですかい」  どう考えてもうまい。というより、今の孝介にはこの椀よりうまいものは作れない。  つまりそれは、浅草でも有数の料理屋である桜屋の出すことのできる、最高の椀だということになるのだが、その結果があのおつるの叱責なのだ。 「あっしには、これがいけねぇ訳がわからねんですよ」  そう言って肩を落とした孝介の顔には、いっそ死相が出ていると言えるほどの疲労と狼狽の跡が見え、厳しく育てたつもりでも本当の弟のように孝介が可愛くて仕方ない佐吉の心をさいなんだ。  目の下のくまが、もう別人のように濃い。きっと、ここ数日しっかりと寝ることもできないのだろう。  それもそのはず、孝介の椀がおつるにはねつけられたのは、もうこれで十二度目。そのたびに、牛が蝿を叩くように追い払われているのだから、こうなってしまうのも仕方がないように思えた。 「おめぇな、それ、誰が食うんだい」  救いを求める孝介に、佐吉が切った口火はおつると同じ言葉。 「へぇ、ですから、糸問屋の播磨屋さんのご隠居の古希の祝いにでござんすよ」  そう、いま孝介が考え悩んでいるのは、糸問屋「播磨屋」の隠居。七十という大年寄になるまでピンシャンとしていて衰える気配のない傑物、播磨屋六輔の古希の祝膳に添える椀なのだ。  しかもこれには、孝介の出世もかかっている。  最初にこの話をおつるにされた時は、祝いの膳に添えるにふさわしい椀をこしらえたら幸兵衛の決め事を破って次板にしてやる。という話だっただけに、孝介は出世の夢を見て天にも昇る心地であった。  というのも、次板になるということは包丁人になるということ。  孝介の年で椀方というだけでかなりのものだが、これが板場に出るとなると、つまり正式な板前になるということになれば、もうそれは異例の大出世。それも浅草の桜屋の次板に十七やそこらの若造がなったとなれば、これはもう江戸市中にくまなく広まるほどの大事なのである。  そうとなれば、当然のことながら孝介はそのすべてをこの難題に賭けた。  そしてその結果が、天に登るどころか鬼に追い込まれ、地獄の釜を覗いているような心地なのだ。一端の料理人として、情けなくも、兄と慕う佐吉に助け舟を期待したくもなるというところなのだが。 「すまねぇな、それが答えだ」 「どういうことですかい?あそこの隠居には好き嫌いがありますので?」 「そういうことじゃ、ねぇ」  佐吉はそういうと、腕を組んで「さて」とつぶやき、続けた。 「なぁ孝よ、料理ってのはどこで作る」  その言葉に、孝介は心で深くため息を付き、それでも真剣な面持ちで「どこで、ですかい」と答えた。  というのも、この佐吉という男は料理の腕は立つものの人に物を教えるということが不得意な男で、よくこういう謎掛けのようなことを口走って下のものを混乱させるている男なのだ。そして、佐吉を慕う孝介ですらそれがどうも気に食わないでいる。  兄さんも、スパッと、教えてくれればいいものを。  孝介は、そう悪態をつきながらも考える。きっと、腕や道具という答えを佐吉が求めていないことは瞭然だし、人情なんて薄甘いことを口走るような男でもない。  となると、だ。 「精進でしょうか」  やっとのことで答えた孝介に、佐吉はブンブンと頭を振ってその答えを切り捨てた。 「ちげぇよ」 「じゃぁなんでやんす」 「そりゃな、頭だよ、孝の字」  その答えに、なんとも合点の行かない表情を浮かべた孝介。それを見て、佐吉は噛んで含めるように話し始めた。 「あのな、おれたちゃ遊びで料理を作ってんじゃねぇんだ」  と、佐吉は、孝介がいきり立ちそうになるのを手で制し、そのまま続ける。 「そうじゃねぇ、別にお前が遊びで仕事してるなんざ思っちゃいねぇがよ。ただ、料理屋の料理ってのは遊びでも酔狂でもねぇ、商売だってことだ」 「そんなことは、あっしにも!」  ここで孝介は佐吉が制したにもかかわらず声を荒げた。というのも、その言葉はとても聞き捨てならない物言いだったからだ。しかし、それでも佐吉は、穏やかな表情のままやはり手で制して続ける。 「わかってら、そんなことはよ。そうじゃねぇんだよ、なんていうかな、そうだな……」  そこまで言って、佐吉はピタリと言葉を止めた。  しかし、孝介にはわかっている、これもいつものことだ。  つまり、頭でわかっていることをそのまま口にするのではなく、いつものように謎解きめいたことを言いたいものの、そのうまい例えが浮かんでこないときの習性(ならいしょう)のようなもの。つまりは。  まったく、めんどくせえ人だ。  ということなのだ。  と、佐吉は、そんな孝介の思いに気づくこともなく、懐から小さな紙包みを出して孝介に投げてよこした。 「ま、そのなんだ、これでも飲んでまずは身体をいとえ、そしてそっから考えればいいこった」 「なんですかい?こりゃ」 「竜胆だよ」 「りん……どう、ですかい?」  受け取った孝介は、そのちいさな紙包みを手にすると、それをかざして透かしてみた。どうやら中にはいっているのは草の根を乾かしたもののように見える。 「そりゃな、深川の竹庵先生に頂いた胃に効く薬だ」 「胃、ですかい?」 「ああ、最近、おめぇはそれで寝れてねえんだろ」  いわれて孝介は、慌てて胃の腑のあたりをキュッと押さえた。  というのも、佐吉の言う通り、このお題を頂いてからは晩飯のあとに必ず胃の腑がキュウっと痛んで、ただでさえ朝起きの早い料理人の仕事に差し支えるほどに、中々寝付けずにいたのだ。 「ま、それ飲んでりゃ、わかるかもしれねしな」 「へ、へぇ」  なんでぇ、また謎掛けじゃねぇか。  気まぐれに見せた佐吉の気遣いに、ほんの少し心をほだされかけていた孝介も、それが結局謎掛けの一部であると知って少し鼻白み、それでもその包みを大事に懐にしまった。  胃の腑がいてぇのは、間違いねぇからな。  そう心でつぶやいて、孝介は佐吉に丁寧に頭を下げた。 「頭で作るねぇ」  豆腐と飯だけの簡単な晩飯を済ませてごろりと横になっていた孝介は、薄い天井を見つめて呟いた。 「くそ、寒くなってきやがった」  最近めっきりと冷え込み始めた江戸の街。  どこを塞いでも必ずどこかしらか風の吹き込んでくるこのぼろ長屋に寝転がっていると、まるで、枯野の真ん中に寝ているような気さえしてくる。  そしてその寒さが、凝った心と痛む胃の腑に響くからたまらない。 「どうして佐吉のお兄いさんは、ああ、回りくどい人なんだろうね」  誰も聞いていないのをいいことに、孝介はそう毒づいてため息をつく。  確かに、孝介にも、何でも口で教えればいいわけではない、ということは分かってはいる。いるのだが、だからといって余計に難しくすることはないだろう、と、佐吉の顔を思い出しては心に苦いものが湧いてくるのを感じるのだ。 「苦味といえば、三つ葉の苦味。ありゃもうひと工夫できたかもしれねぇな」  椀に浮かべる前にさっと湯通しをし、さらに椀の出汁より一層鰹を強くとった出汁にひたして半刻ほどおいたものを使ったのだが、たしかにそのせいで椀の汁にうまく馴染んではいいたものの苦味が少しだけおとなしいようにも思えた、の、だが。 「そんな、小手先の話じゃねぇよな」  そう唸ると、不意におつるの鬼の形相が浮かぶ。  もうあれで還暦間近なはずなんだが、後添いはおろか貰い子もせず、それこそ百年は生きてやるといった風情で働いている女丈夫の顔は、孝介の椀がその程度のやりくりでどうにかなるものではないことを如実に物語っていた。  うん、わからん。  孝介は心中でそうつぶやくと、ごろりと体の向きを帰る。  と、ふと(くだん)の糸屋、播磨屋の娘おさきの顔が目に浮かんだ。    つい先日播磨屋に出向いたときのことだ。以前、風のうわさでおさきさんは病で寝付いてしまいもう先は長くない。と聞いていたのだが、そんなおさきが連れ合いの侍といるところに出くわしたのだ。  しかも、えらく元気な様子であった。 「女ってぇのは、中々くたばらねぇ生きもんだな、まったく」  孝介はそう言うと、今度はいつぞや播磨屋のおさきに聞いた兎汁の話が浮かんできた。 「そういや、播磨屋のおさきさんの実家じゃ兎汁に根三つ葉を入れるって言ってやがったな」  思い出して、孝介は頭の中でその味を組み立てていく。  味噌仕立ての汁、精の強い兎の出汁、そして、滋味をたっぷりと含んだ癖の強い根三つ葉の味と香り。これが三位一体、渾然となって、その旨さがありありと頭の中で思い描ける。 「うまそうだ、が」  流石に、料亭の椀物で兎汁はねぇな。  ああいうのは、田舎料理で、だからこそ味が濃く精が強くても成り立っているもの。少なくとも江戸で一、二を争う桜屋の椀方が作っていいような汁じゃねぇ、いや、作っちゃいけねぇ。     料亭の椀に必要なもの、それは品だ。  たとえ、公方様が現れたって間違いのねえような、スッと透き通っていて切れ味の良い、一振りの業物ののような汁でないといけねぇ。  しかし、だ。 「俺に、あの汁よりも切れる椀が作れるものかね」  頭によぎるのは、昼に駄目を出されたあの汁。  あの汁が出来上がったときは、我ながらその味に感動を覚えたものだった。しかし、結局はあれ以上のものを作らないといけない羽目になってみると、そのできの良さが逆に恨めしい。 「いってぇ、なにがわるいんだ」  孝介は唸る。  言うまでもないが、出汁は申し分ない。  糸屋を意識した鞠麩も縁起の良いものだし、普段は公方様を憚ってあまり口にしない三葉を出すと言うのも趣向が効いている。 「ああ、わからねぇ」  だいたい、頭で作るってぇのはいったいどういうことだい。  こちとら、父上と母上の差配で侍を継がず、ろくな読み書きもできないうちに料理屋に叩き込まれたような人間だ。生まれてこの方寺子屋にも手習いにも通ったことのねぇ、桜屋に入ってなんとか字は読めるようにはなったが書けねぇってくらいの人間だぜ。 「はぁ、どうにもならねえ」  孝介は、また頭を抱えてごろりと転ぶ。 「だいたい佐吉の兄さんだって、もとは読み書きのできねぇ信州の田舎もんじゃねぇか」  まあもちろん、いまじゃ品書きも書けばそろばんも弾く。  しかもそろばんに関しては、先代にみっちり仕込まれたせいか、いまでは番頭の真似事ができるようになっていると言うんだから恐れ入ったものであるが、孝介にそっちの才はまるでない。  俺は、料理しかできねぇ。父上と母上から、それ以外の才はもらっちゃいねぇ。  そういえば、父上や母上の里も信州と同じく雪深いところだったと聞いた。あまり昔のことは語りたがらない人達だったけど、おさきさんの兎汁の話をした時は懐かしそうにしていたっけなぁ。  と、ふいに孝介の腹の底で「ぐぅ」と虫が鳴いた。 「ああいう田舎料理は、食い意地がついていけねぇや」  孝介は苛立たしげに頭をかく。  ああいう味の濃い食い物は、一見身体にきつそうに思えるが実は食欲が無いときほど胃の腑を刺激して食欲を出させることがある。たしかに油っ気の強いものはいけないが、塩辛いものを年寄りが好むのはそのせいもあるのだ。  しかも、年寄は舌が鈍いからなぁ。  腹をさする、どうやら動き始めているらしい。 「たく、しょうがねぇな」  孝介は吐き捨てるようにそういうと、床に突っ伏して頭を抱えた。  というのも、この時間、晩飯を食べた後にこうやってゴロゴロしているのは、最近腹の具合が悪い事もあってなんとか腹をなだめようという算段なのだ。なのに腹の虫が泣き始めてしまうと、そこからすぐに痛みがやってくる。  ちくしょう、腹減るのが一番痛みにゃ悪いんだ。  とはいえ、すでに腹を鳴らしてしまった以上痛みは間違いなくやってくる。と、孝介の頭にひとつひらめくものがあった。 「そうだ、竜胆だ!!」  孝介は懐を探る。そこには小さな紙包みがあり、中には刻んだ草の根っこが入っていた。どうやら煎じるらしい。 「そうと決まれば、いざ鎌倉よ」  そこはそれ、孝介は料理人である。あっという間に支度を整えて、またたく間に竜胆の根を煎じると湯呑いっぱいの煎じ薬が出来上がった。  匂いは……わるかねぇ。  色は……うん、葉っぱをけちった茶みてぇな色だ。 「味は、苦いんだろうが、まぁいい。薬だ」  意を決して湯呑の半分ほど飲み込むと、それがまあ苦いなんぞというものではない。  口に入った途端、無数の小さな針で舌を刺されたような刺激が広がり、口を抑えてのたうち回りそうなくらいの苦さであった。 「むううう」  うなりながらも、仁王のような顔でうずくまる孝介。  どいうやら気合を入れて煮出したせいか、普通より苦くなているようだ。証拠にその煎じ薬は、段々と舌の感覚を麻痺させていき、料理人の孝介に一抹の不安を感じさせるほどの効きを見せている。 「かっ、かはっ、おい、こりゃでぇじょうぶなのかい?!」  これで舌が死んじまったりでもしたら、泣くに泣けねぇ。 「ま、まぁでも、こりゃ薬だからな、味はどうでも良いんだ、効きゃいいんだろうけど」  と、そのとき、温かいものが胃の腑に落ちると同時に、なにやらふわっと胃の腑が軽くなるのを感じた気がした。  舌のしびれも徐々にとれていく。 「へぇ、竜胆ってのは大した薬じゃねぇか。飲んですぐ効いてくるとは、上等の酒みてねぇな薬だな」  孝介は、感心して腕を組む。 「いや、しかしおどれぇたな。もし、あのまま舌がしびれてたら、それこそ、兎汁くれぇしか旨く感じねぇところだ……った……ん」  その時だ、孝介の頭にガツンと何かが浮かんできた。  まて、まてよ。  孝介はすっくと立ち上がると、部屋の中をウロウロと歩き始める。  ……こりゃ胃の薬だ、うまい必要はねぇ、効きゃいいんだ。  ……年寄は兎汁みてぇな味の濃いものを好む。  ……舌がしびれて味を感じなくなれば兎汁くれぇしかうまくなくなる。  くるくると部屋の中を回り続ける孝介の頭に、様々な事柄が浮かんでは消え、最後におつるの鬼の形相がドンっと現れた。 「で、おまいさん、これを誰に食わすつもりなんだい」  そうか……そうか、そうか、そうか、そうか! 「はなから俺に、うまい薬なんぞ作れるはずはねぇんだ」  孝介はそう言うと、竜胆を煎じた薬の入った湯呑を掴むと、残り半分をぐっと一気に飲み干した。 「くぅぅぅにげぇ!まずぃ!でも、これでいいんだ!」  孝介はそう叫ぶと、竜胆の入った紙包みを大事そうに懐にしまい、狭い長屋を飛び出していった。  着物の上から竜胆の紙包みを掴んで「ありがてぇ、ありがてぇ」とつぶやきながら。  孝介は、走った。 「では、今日の椀、もいっぺん作らせていただきやす」  大盛況に終わった、播磨屋の祝宴。  大わらわだった桜屋の、まだ熱気のかけらがそこらここらに漂っているような板場に、孝介、佐吉、そしておつるの三人が揃って神妙な面持ちでそこにいた。   そう、試験は合格。そしていま、孝介は播磨屋の隠居がたいそう喜んだその椀を、再現しようというのだ。 「では、まずこの穴子を使いやす」 「しっかし驚いたぜ、まさか椀に穴子を持ってくるとはね」  佐吉は、流れるような手さばきで穴子をさばく孝介をみながら、感心したようにそう吐き出した。  そう、今日の祝宴で孝介が出してきたのは穴子の椀。穴子は旨い魚には違いないが、少なくともある程度格のある料理屋では下魚扱いの魚である。のに、だ。  堅い野郎だと思っていたんだが、なにがあの野朗を変えやがったのか。  実は自分が渡した竜胆がきっかけだったとは知らない佐吉は、孝介の思いがけない成長ぶりに目を細める 「では、ここで骨切りをいたしやす」 「穴子に骨切りだよ、あたしにゃ思いもつかないね」  そう言ったのはおつる。  時が押し迫っていたせいで、先に確かめるまもなくいきなり祝宴の椀を任せることになったものの、孝介の「任せてくださいよ、女将さん」という言葉の頼もしさに期待はしていた、していたけれど。 「ここまでとは、ねぇ」  骨切りは、普通は上方でよく食される(ハモ)に使われる技法だ。  もちろん、穴子にも小骨はおおいが鱧ほどではない、しかも江戸っ子は穴子の骨なんか気にしちゃ男がすたると息巻いて、まさか穴子の骨切りをしようなんぞとは思いもつかない。  しかも骨切りで身に傷をつければ、大事な穴子の味が抜ける。  特にあの冬に向けて乗りはじめる脂が抜けてしまう。の、だが。 「いやー、こんなにあっさりとしていてふうわりと(やわ)い穴子は初めてだわい」  そう言って満面の笑みを浮かべた播磨屋の隠居の顔を思い出すに、そこに間違いのない孝介の思いが手にとるようにわかった。 「で、ここで、炭火で炙りやす」  見れば孝介はまたたく間に穴子を裂き終わり、今度は串を打って焼き始めた。  あたりに漂う香ばしい煙、たしかにいっそう食欲をそそるのだが、これではまるで。 「あれじゃ、まったくうなぎだぜ」  佐吉は唸る。  穴子を割いて骨を切り、しかもそれに串を打って炭火で炙るなんて姿、いってぇどこの料理人がみたら「椀を作っている」なんぞと思うんだ。そんなヤツ、いたら「料理のいろはも知らねぇ」と張り倒してしまいそうだが……。 「出汁は、今日使ったものを温めておりやす。穴子の骨で出汁をとった、濃いめの出汁でございます」  しかも、出汁は蕎麦出汁のように濃い味で、少し砂糖までつかってやがる。  昼の祝宴のとき、裏でこっそり出汁を吸った佐吉は、そのあまりに品のない蕎麦出汁のような汁の味に思わず顔をしかめ、女将に言って取りやめさせるべきだろうかと本気で悩んだほどだったのだが。 「ここで、熱いうちに穴子を短冊に切って、出汁に沈めやす」    そうなんだ、あの出汁は、こうして穴子を沈めた途端、突然品のいい味に変わりやがる。  唸る佐吉の前で、孝介は手際よく脂がジュウジュウと音を立てる穴子を串から抜き、サクッサクッと皮目の香ばしさが音でわかるほどに心地よい音を響かせて短冊に刻むと、それを片手鍋に張ってある出汁の中にジュウッと小気味良い音とともに沈めた。  そして、片手に木さじを持つと、出汁に浮く小さな焦げと脂を掬っては捨てる。 「丁寧な仕事だね」 「へぇ、それだけはしつこく言ってありますんで」  確かに、色々教えては来たが。  俺はそんなことまでは教えちゃいねぇ。こりゃ、この野郎は俺とは桁の違う天賦の才を持って生まれたのかもしれねぇな。  そう心でつぶやいて目を細め佐吉の前で、孝介は丁寧に焦げと脂を掬い終えると、それを椀に張って体裁を整える。  上に添えるのは山椒の葉。パチンッと小気味良い音を響かせてそれを叩いてから出汁の上に泳がせると、静かに椀に蓋をして、孝介は佐吉とおつるの前にそれを差し出した。 「お味見の方、よろしくお願いいたしやす」 「はい、たしかに」 「うむ」  この子がこの店に来て以来、もう、何度こういう場面があったろう。  おつるは感慨深げに、平身低頭で椀を差し出す孝介のすがたを見つめた。そして、いま、初めて心の底から味を楽しみにするものを差し出されて、目尻に薄く涙が浮かんできそうになるをこらえる。  「いただきます」  おつるはそういうと、ゆっくりと出汁をすする。 「ああぁ、おいしい」  鼻から飛び込んでくるのは、皮目を焦がした穴子の香ばしい香り。それと同時に口いっぱいに穴子の野趣あふれる旨味がくっきりと輪郭を持って広がり、そして濃いめの出汁がそれをぐっと引き立てて持ち上げたかと思うと、ほんのりとした甘みがそれを上品にまとめ上げる。  舌をくまなく覆い尽くす旨味の綾錦。 「それじゃ俺も」  おつるが恍惚の表情で出汁をすするのをみて、佐吉はまず穴子を掴んで口に放り込んだ。  そして、眼を見張る。 「おい、こりゃ、本当に穴子かい?」  まさか目の前で割いて焼いていたのを見ていないわけもない佐吉だが、あまりの味についそう口走った。  確かに、味は穴子だ。しかし、しつこい脂っ気はまったく消えてしまい、それでいながら身にしっかりと蓄えてある旨味。そして、香ばしい皮目のクニュリとしたなんとも言い難い極楽のような感触、噛んだ瞬間にとろりとくる舌触り。  しかもこの穴子は、少し噛みしめるだけで、中からじんわりと染み出した出汁とともにホロリと(ほど)けて、消えてなくなっちまう。  佐吉は、たまらず出汁をすする、そして、更に目をみはった。  料理屋で出すには、やや下品なくらい甘ったるく味の濃い出汁は、穴子を沈めたことで上品になった。それは事前に味を見て知っていたのだが、解けた淡雪のような穴子の身とともにその汁が口内を満たせば、もう一度そこに穴子が生き返ったかのように再びくっきりとした旨味の稜線を描くではないか。   いや、生き返ったのではない。更に旨味をまして、鯛や鮃に劣らぬ魚に身を変じてしまっているようだった。  そして最後に鼻に抜ける、爽やかな山椒の風味。  たく、孝の字の野郎、いったいこの寒い季節にどこで山椒の葉なんか手に入れてきたんだか。しかし、そんなことより。 「うまい、こりゃ、とんでもねぇうまさだ」 「ええ、わたしも長いことこの家業をやっていますが、ここまでの椀に巡り合ったことはありません」  二人の褒めちぎる声と先を争って口に運ぶ様子に、孝介はなにか眩しいものを見るような、そんな表情で立ち尽くしていた。 「よくやったな孝の字、おめぇは俺を超える包丁人になるぜ」  佐吉の言葉に孝介は大きく頭を振るった。 「違う、違うんです兄さん。俺は、ひとりじゃたどり着けなかったんだ、兄さんの竜胆と女将さんの言葉があって初めて」  孝介は、嬉しかった。間違いなく喜びに打ち震える瞬間はあった。  これほどうまい椀を作れて、難しい問題を解くことができて、本当に嬉しかった。しかし、時間が経っていまこうして自分の椀を褒めちぎりながら食べる二人をみて、自分はひとりでは何もできないことを嫌というほど思い知らされているのだ。 「おらぁなんにもできちゃいない。なんにも、出来ちゃいなんです」  だからこそ、目の前にいて自分を導いてくれた二人に遠く及ばない、あまりに情けない力の無さを感じる。  と、おつるが呆れた口調で言った。 「お前は馬鹿だね」 「え?」  孝介がおつるを見る、と、おつるは微笑みながら涙をこぼしていた。 「料理屋だってね、漁師がいて、百姓がいて、魚屋や八百屋がいて、この家を建てる大工がいて、食器作る職人がいて初めてできるんだ、何も全部ひとりで出来てるんじゃない」  おつるはそう言うと、板場のぬれた土間に降りてその場に平伏した。 「お、女将さん!何をっ!!」  孝介はおつるを抱き起こそうと近寄る、しかし、佐吉がそれを制した。 「孝介、わたしがこうして料理屋の女将ができるのも、全部あんたたち職人のおかげだ。わたしだってひとりじゃ何もできゃしないんだよ。だからこうして感謝するんだ、ありがたいって手をつくんだ。だからこうして……」  おつるはそこまでいうと、ゆっくりと顔を上げた。 「……嬉しくて泣くんだよ」 「女将さん」  孝介は、その泣き濡れた顔をじっと見つめる。  あの日、鬼のように見えたおつるの顔は、こうして見るともう随分衰えて、初めてみた数年前のそれより随分と小さくなっているような気がした。しかし、泣きながら「ありがとうよ」と呟いて微笑むその顔は、まさに観音菩薩の顔だ、と、孝介は思い、それだけじゃねぇ、と頭を振るった。  いや、きっと竜胆だ。  見たことはねぇがきっと竜胆って花は、苦くてまずいがだからこそ誰かの身体を癒やせる力と、そして、いまの女将さんのように可憐で凛とした花を咲かせる、そんな花に違いねぇ。  きっと、こんな花に違いねぇ。  ありがてぇ、観音様みてぇな花にちげぇねさ。 「佐吉はもう十分立派な男で、孝介もこうして一人前になった。もうわたしは、なんの心配もなくあの人のところに行けるってもんだ」  いいながらおつるは「よいしょ」と掛け声をかけて、ゆっくり立ち上がる。 「馬鹿なことを言わねぇでくださいよ、寂しいじゃないですか」  孝介は、少し潤んだ目尻を拭いながら、そう言っておつるに手を貸す。 「でぇじょうぶだ、女将さんはこっから四十年は生きるさ」  佐吉はそういうと、孝介とともにおつるの体を支えて起こした。 「なんだいそりゃ化けもんじゃないかい」  桜屋を支えるように、おつるを両脇から支える佐吉と孝介。その姿を満足そうに見つめながら、おつるは、いつものように優しく笑っていた。  竜胆がさきほころぶように。  しかしそれが、元気なおつるの最後の姿になったのである。 「もう随分と前からの、駄目じゃったのよ」  弔いの席で、孝介と佐吉を目の前にそういったのは深川の竹庵先生だ。 「胸が痛いとうちに来てな、まぁ詳しく見るまでもない、乳に岩が凝って腫れ上がっておった。もう半年は持たんじゃろうとそう言ったのじゃが、なんの一年持ったのじゃからたいしたもんよ」  そう言うと竹庵は、煙管に火を落としてスーッと吸い込む。 「ところでお前さんたち、名前を改めたそうじゃの」  竹庵がそう言うと、泣く間もなく働いて疲れの見える佐吉が「へぇ」と答えて少し恥ずかしそうに答えた。     「あっしが、先代幸兵衛の名を頂いて左兵衛、で、そこの孝介が、これもまた先代の名を頂いて幸いに助けるで幸助、と」  佐吉あらため左兵衛の言葉を受けて、孝介、いや幸助がゆっくりと頭を下げる。 「で、左兵衛さんが板場を出て店主になって、幸助さんが花板というわけじゃな」 「へぇ、ありがてぇことに死ぬ直前に養子に入りまして、そういうことに相成りました」  左兵衛がそういって頭を下げると、竹庵は幸助に向かって言った。 「その年で花板とは、えらい出世であるのお」  すると幸助は、以外なことを口にした。 「ええ、それもこれも、竹庵先生のくださった竜胆のおかげでござんす」 「なに、竜胆じゃと」 「へぇ、いまじゃぁ、うちの名物となりました穴子の椀。あれも竜胆椀と名付けさせていただいておりますゆえ」  幸助の言葉に、竹庵は頭をひねる。 「よくわからんが、竜胆はひどく苦くてまずいもんじゃ。旨い料理に名にはふさわしくなかろう」 「いいえそうじゃぁござんせん」  幸助はそう言うと、ピッと背を伸ばして答えた。 「竜胆こそ、あれが教えてくれたことこそ、料理の真髄でござんすよ」  ですよね、女将さん。  幸助の言葉に、左兵衛は微笑み竹庵は訝しげな顔でキセルをくゆらせている。  そしてきっとおつるは。  観音菩薩の顔をして、この家のどこかで泣き笑いの顔を浮かべていることだろう。  この家のどこかに、可憐な竜胆を咲かせているに、違いない。    きっと、そうに違いないのだ。

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