泣かないで、と言えなくて。

読了目安時間:7分

エピソード:1 / 26

入院時

 私が春光さんと出会ったのは、職場いじめが原因で発狂し幼児退行をしてしまった人がいると聞きつけて、病院を訪れた時でした。入院してしばらく経った時だったと記憶しています。  入院した直後から精神的な異常があった事から、ケアが必要だという事で私が病院から依頼をされたのが始まりです。  入院した経緯について、ケアに入る前に聞かされましたが想像を絶するものでした。パワハラ、モラハラは当たり前。本当にひどいのは、トイレで服を脱がせて繰り返し暴行し、大怪我をおわせたというものでした。そこから恐怖心でトイレも出来ず、退行してしまったというのです。    もうすでにこの頃、ご両親と春光さんの間で関係性に亀裂が生まれていました。 「おかーたん……ドアあけて! おかーたん!!」  私が初めて二人のもとに向かった時、個室のトイレに春光さんは閉じ込められていました。なんとも大人げない話ですが、お母様がわざとドアを押さえて出てこられない様にしていたのです。ドアの中で泣き叫ぶ春光さんは様子からして、ほぼ幼児退行していると理解できました。 「お母さん、いくらなんでもこれは駄目です。泣いてるでしょう? 暑いですし、熱中症になります」  まさか私が来た経緯の説明もなしに、親御さんの説教から入る事になろうとはこの時思ってもいなかったのです。 「何貴方? ほら春光!! 演技なんかしないで一人でトイレをしなさい! 本気になったら このドアも開けられるでしょうッ!?」 「……春光さんのサポートを担当する事になった介護士です。『佐々木 (なお)』と言います。さ、お母さん。ドアを開けましょう」  少々酷だと思いながら、力を込めてトイレのドアを開けました。  当然ながら床は濡れていて、春光さんは座り込んでいました。手は腫れ、顔も涙でぐしゃぐしゃになっていました。 「……おかーたん」 「寄ってこないでって言ったでしょッ!? 気持ち悪い!」 「ひっく……おかーたん、だっこ」 「しないわよ! ねえ、演技なんかしてないで元に戻りなさい!」 「うえええぇん!」    思ったより、幼児退行のレベルは重度でした。春光さんの実年齢は23歳でしたが、精神年齢はおそらく5歳以下まで低下しているものと見えます。 「お母さん、叱っちゃ駄目です。絶対に駄目です。余計に悪化します……春光くん、お風呂行きましょうか。お着替えしましょうね」  だっこ、だっこと泣いてせがんでいるので私が変わりにその要求に答えてあげました。身長が150センチ、私が180センチでしたので、なんとかできない事もなかったのが救いですが。   「おいしゃさん?」 「そう、おいしゃさんです。私の名前は『佐々木 直』といいます。名前、呼べます?」 「なおせんせい」 「そうです。これからよろしくお願いしますね」  簡単な返答しか出来ない。事態は深刻でした。  身体的な治療にも加えて精神的な治療も一緒にしなくてはならない。そして最悪な事に家族が非協力的であるという事も改善に向けての大きな壁になります。 「お風呂こわくありませんか?」  入院着を脱がしながら、春光さんに聞きます。 「うん」 「流しますよ」  お風呂場でシャワーを使って流してあげると、ほっと安心したような表情を浮かべてくれました。被害を受けた内容が内容なので、怖がられて泣かれてしまったらどうしようかと思っていた矢先の反応だったので、そこは非常に安心したのをよく覚えています。 「おかーたん、おこっちゃった……」 「そうですねえ。でも春光くん悪くないですよ?」 「お、おとーしゃん、いなくなっちゃった」  つたない言葉ですが、自分が今置かれている環境について聞かせてくれます。元々の経緯について少し聞いてはいますが、まだ詳細はわかりません。 「いなくなっちゃったんですか?」 「うん……ぼくのことたたいたの」 「それはお父さんが悪いですよ」  ああ、この親子は元に戻らないのかもしれない。  断片を聞くだけでもそんな気配がしました。 手早く作業を済ませ、おむつを履かせた後にもう一枚入院着を取り出して着せてあげると、すっきりとしたのかニコニコと笑い始めました。本当に小さい子が笑う様なキャッキャという笑い声。小さい子であれば、微笑ましいと思えるそれも、今のこの状況ではなんの慰めにもなってはくれません。 「……春光ッ!!」  叫び声にも近い母親の声に、春光さんはびくっと震えます。私は静かに抱きとめてやって、背中をトントンと叩きました。 「どんだけ小さい子のマネをした気が済むのよ!! ねえ、佐々木先生、だっけ? おむつなんか履かせないで頂戴。大人なんだから、普通に出来るんだから!」 「お母さん、この子は振りなんてしていません。振りなら必ずボロが出ます。トイレだって失敗する事は普通ならできません。今春光さんはストレスから逃避する為に、こうしているんです」 「それがフリだって言っているのよ。なによ逃避、って。ただ甘えてるだけじゃない。職場いじめくらいで……」 「そんなに軽いものじゃないですよ」  そうぴしゃりと口にすると、母親は出ていってしまい、個室は春光さんと私の二人だけになってしまいました。 「おかーたん、出てっちゃいやー!!」 「ついてくるな! あんたなんかいらないのよ!」  親自体も、状況を受け止めきれていないのだろうと思いました。 「春光くん、こっちおいで。先生の所にいたら戻ってきますよ。一人は危ないですからね」 「んう〜……なおせんせい?」 「はい、どうしました?」 「おなかすいた!」 「病院でおやつ買いましょうか。食べやすいのがいいですね」  一緒に手をつなぎ、売店に向かう事にします。  ふと視線を腕にやりました。春光さんの腕は衝動的に切り刻んだ跡があり、包帯が幾重にも巻かれていました。腕を切り、ウイスキーを全て一気に飲む事で酩酊させ、失血でのショック死を狙おうとしたのだろうと、治療をした医師からは説明を受けました。そうするしか、他になかったくらいに追い詰められていたのでしょう。 「腕、痛くないですか?」 「ちょっと痛い」 「がまんできないくらい痛くなったら教えてくださいね」  そんな会話をしながら売店に入ると、こころなしか春光さんは楽しそうでした。 「うん……なおせんせい、これ買って!」 「ビスケットですか。いいですよ」  小さなビスケットを一つ買って、売店のそばにあるテーブルに座って食べる事にしました。 「せんせい」  呼びかけたと思ったら、口をあーんと開けたので、ああ食べさせてほしいのだなと思いその通りにさせてあげました。幼児退行をしている大人を見るのは、親御さんでなくとも耐えられずに叱ってしまったりします。でもそんな事をするとさらに悪化して、どんどん悪化が進んでいくと最悪の場合、自意識そのものを見失い、別人として生きていく『解離性遁走』という状態になってしまいます。すんでのところで自分の心を守ろうと、戦っているのが退行現象なのです。 「おいしいですか?」 「うん! はい、せんせいもどーぞ」 「ふふ、ありがとう」 「おかーたんにもどうぞする!」  じゃあ、病室に戻りましょうかと席を立った瞬間に見えたのは、こちらをにらみつけている春光さんのお母さんの姿でした。 「あ! おかーたん! おかーたん、おかしどーぞ!」  駆け寄っていった春光さんを、お母さんは音がするくらいの衝撃で平手打ちをしました。当然ですが、火がついたように春光さんは泣き叫びます。 「春光、その『おかーたん』って呼び方やめてってお母さん言ったよね? あとお菓子は食べちゃ駄目って言ったでしょ!! なんで簡単な約束も守れないの! 馬鹿な子! 本当に馬鹿な子! 有名な美大に行かせた結果がこれなの!?」 「おかーたん……ぼくのこときらいなっちゃった〜!!」  余りに突然の事なので、他の患者さん達の注目を引いてしまい、私は急いで春光さんの手を握って歩きながらお母さんにも感情を抑える様に言いました。 「お母さん。現実を受け入れられない気持ちはわかります。でも叩いたら駄目です。今の春光さんは叩かれて怖かった事しか頭に残っていません。本当に、取り返しのつかない事になりますから。本当にやめてください」 「もう要らないから、壊れてもどうなってもどうでもいい」  親にとって、子供はいくつになっても子供だ。  そんな話は、ただの幻想だったのでしょうか?    

幼児退行 年相応の行動が取れなくなってしまう精神崩壊の一つ。 春光は重度のスケールに入る。 恋人に甘える時などは一種、軽度の幼児退行とも取れるが それが重くなると、自分が幼くなったのだという意識すらない。 退行をしている時に叱ったりすると、より症状は悪化していき 最終的には患者本人が本人であるという自意識を手放してしまい、完全に別人として生きてしまう例も存在する。 (例えば結婚していて子供もいた人が、記憶を無くして別の人と結婚し家庭を持って別の場所で暮らしていた、など)

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