エピソード1 春の潮風が走り出す

第1-1話 満月、希望と出会う(1)

 春の潮風が走り出す。  今は吐く息も白くなく、首筋を伝う汗の粒も朝日に輝いていた。  青く高い空、遠くに見えるわずかに灰色の海、今は何1つ不自由がないと思える、東北・宮城の町だ。  他の街の人たちは、よく海辺の街って、風が寒いよねーと苦笑する。  でも、生まれた時から住んでいる私の慣れでは、何も感じなくなっていた。ちょっと語弊あるけど、冷たい風が吹くのが普通。  高校入試が1年前だっけ。  あれから、何か変わったのかなぁ。変われたらいいんだけど、現実は息苦しい。 「まぁ、走っていたから、息苦しいんだけどねぇ……」  動かしていた両足をちょっと、凸凹のアスファルトに止めた。膝を両手で抑えて前傾し、息を整える。汗の雫がぽたぽたと落ちる。  変わらないのは、朝のジョギングくらい。  運動なんて、汗を流す程度でいい。だけど無心になれる、走っているときが一番良かった。  私は、高校1年で学力が足りず、父のように立派な医師にもなれない。そして、1年間、勉強だけやっていたから、いつの間にか運動部の入部もしなかった。  いつまで、無い才能を追いかけて走って行くのだろう。このままじゃ、変われない自分への劣等感の上乗せだ。  中学指定だった赤ジャージの長袖で、顔の汗をふく。  ふへぇ、うわっふ!  冬の名残の風は、上半身を吹っ飛ばしそうな感じで吹いた。マイナスな感情だけ、すっ飛んだかも。  吹っ切れた。よし、顔をあげよう。やる気スイッチオン。  そうそう! この町、坂が多い。  道路が上下の起伏になって、ちょっと苦労があって走るには良いと思う。  私は中学までコツコツと陸上競技をしていた。今じゃ思い出せないけど、昔は夢や希望もあったと思う。  それは高校に入ったら、走るだけで今はいいやと諦めたからだ。  それだけで楽になっていたから。  脚の屈伸をして、軽く腰を伸ばして、ポンと1歩跳ねてから、また走り出した。  海沿いの道から、小高い丘の方へ走っていたら、いつものゴール付近としている地元神社の石柱に、腰を下ろし座っている先客がいた。  左まぶたに青腫れ、右の唇端を切っている。  黒髪で野暮ったい私とは違う、金髪ショートカットで細身の少女は、ムッとした顔で海を見ている。  黒のジャージを羽織っただけ、膝の剥けたダメージジーンズに、ブカブカのロングTシャツ、それに有名メーカーのNバランスの赤い靴が足下にキラリだ。  簡単に言うと、私とは交わらない属性の、ヤンキー娘だと思った。  彼女は猫のように敏感に、私の気配を察した。 「邪魔した……」  そのヤンキー娘は、ポンと座っていた石から飛び降り、私の前をさっさと歩み去ろうとしていた。  そのまま、風のように去る態勢だ。  そんな風を気にする私じゃないのに、その朝は違った。 「待って!」 「え!?」  思わず、その金髪少女の細い左手首を掴んでいた。  彼女も驚いた眼で私を見た。  顔が初めて合う。あ、全体的にちっちゃくて小動物系の顔なのに、大きい濃褐色(ダークブラウン)瞳が無垢で綺麗だった。  まるで朝焼けの星屑だ。磨けば光りそうな瞳なのに、朝の眩しさで色素が薄いようだ。うーん、何でこの娘は、目を釣り上げて睨んでくるのだろう。  もしかして、怒っていらっしゃる。 「可愛いのになぁ……勿体ない」 「は? あたしが可愛い? 何だ、あの銀髪女にぶん殴られて、耳がおかしくなっちまったか?」  金髪VS銀髪。ヤンキー同士の喧嘩かな。  でも、私さえ予想しなかった言葉に、目の前で、睨んでいた娘の目尻が少し緩んだ。やっぱり大きい宝石のような少女の瞳をしている。  素直な嬉しさと、見ず知らずの女の子に声をかけられて困ったが、混じった笑みで、彼女なりの冗談が飛んできた。  私はハッとした。その先の言葉、あまり考えていなかった。  言った手前引くに引けなくて、可愛いと最初に思った赤い靴を過剰にほめた。若干、上ずっている声、でも嘘じゃない言葉だ。 「そのNバランスの赤い靴、可愛い! すっごく可愛いんだから!」 「はっはっはッ! 新手のナンパかい? 慰めにしちゃあ、上出来上出来! 黒髪のお嬢さんさぁ、坂の下からすげぇ勢いで走って来たよね?」 「ナンパ……ナンパなのかなぁ……。まぁ、走るのはいつもの朝のルーティーンだよ。それがおかしいの?」  半分冗談だと思ったけど、金髪(この)娘にちゃんと答えた。  私の幼馴染の()は、『満月(みつき)』は話し方が大人しいから、中途半端に言葉尻を切らない方がいいよ、それと他人の目を見て話そうと、指摘してくれた。  だから、何かを変えたかった私は、それを今実践している。すごい手が震えて怖いけど、その怖さじゃないドキドキを胸に感じている。手のうちに滲む汗がその証拠だ。 「へー意外。あたしの目を見て、目を反らさないんだ。お前、良い奴じゃんか! あたしも今思ったこと言っていいかい?」 「ど、どうぞ!」  少し緊張している私は、すしざんまい!みたいな両手を広げるポーズで、受け入れる態勢になった。  金髪ショート娘の大きい褐色瞳が、柔らかく動いた。そして、頬が緩んで微笑んでいる。  ややあって。  彼女は、私に近づく。背中に流れる、黒いポニーテールの長い髪束をサラッと、その手で触った。 「長い髪が風に揺れるのも良いけど、お前の可愛い顔がちゃんと見えなかった。ちょっと残念かなって……」 「~~~~~!」  綺麗な目で見つめないでほしい。顔がキューンと赤くなって行くのが分かる。  心臓の鼓動が早くなる。100M走を全力で走った後でも、こんな苦しくならないのに、不思議な感じ。  夢の世界は、彼女の声で終わった。彼女の平坦な声は現実的だ。 「おーい。初心(うぶ)トマト」 「ひゃいッ!」 「今度は、お前の名前を聞かせてくれよ。あたしは銀髪と仲直りに行くから、今日はお別れ。バイバイ」 「……うん、またね」  ポンポン。  金髪娘が大きい手で私の頭を撫でてくれた。  身長差はそんなにないけど、その大きい手の感触が懐かしい。もうずいぶん疎遠だった温かさだ。  ちゃんと、お話出来たかな。今度は名前を教えてくれるかな、あの娘。  不思議と、また会える気がしていた。  春休みは終わり、東北のへんぴな海町にも、春の息吹が肌で感じられるようになってきた。  私の、いや私たちの、長い長い冬が終わる。また傷つきながらも、優しく絡み合う毎日が始まろうとしていた。

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