ばーーーーん。
勢いよく開かれたドア。
その向こうに。
「ばあば!お風呂あがったよー!」
元気に飛び出してきたイーラ。
ただ、ひとつ、問題があった。
ほかほかで。
これはよし。
うっすらと上気した頬の。
これもよし。
健康的な四肢を盛大に広げた。
元気に広げた。
何も身にまとっていない少女がそこに、いた。
「まぁイーラや!」
「…」
焦るエリスと何事かと振り返るヴェル。
「い!?なんで昼間のおじさんがいるのよ!ここ私の家よ!」
お昼にぶつかった大男。
イーラは瞳の色をくるくるさせて、ここ!と意思表示をする。
ばあばと私の大切な家。
「勝手に上がってすまぬ。謝ろう」
エリスに通されて入ったのにもかかわらず、ヴェルは謝罪を述べる。
温かな家庭に入り込んだことを。
「すみませんねぇ。お昼に続いてお見苦しいところを」
あらあら、とエリスがヴェルとイーラの間に割って入る。
「…ね、狙ったでしょう!この変態!」
驚いたイーラは近くにあった茶菓子箱を、このぉ!と勢いよく投げつける。
コントロールが悪いのか、ヴェルの反射神経が上回っていたのか、目一杯の力で投げた茶菓子箱は中身をポロポロと散らばせながら壁にコツンと当たる。
「こら、イーラや。お風呂場で服を着なさいといつも言っているでしょう」
イーラ、エリスに導かれお風呂場へと強制連行。
残されたヴェルは誰も聞こえなくとも。
「ふむ、すまぬ」
と謝って茶菓子箱を拾う作業にかかるのであった。
再び入室してきたイーラはすっかりパジャマに身を包み、違うものへと興味を注いでいた。
魔の者が今はまだ力なく横たわる、蘇生の魔法陣。
先程より弱くではあるが薄く光を灯し、紋様はそのままに浮き出ている。
「ねえねえ、これおじちゃんがやったの?」
目をキラキラさせて聞くイーラ。
先程のことは忘れてしまったかのように。
「そうだ」
綴られているのは難解な記号。
「すごい!ねえこれ、古代魔法なんでしょ!」
少しばかり驚いた表情を見せたあと、ヴェルは肯定する。
本で見たことがあった、イーラの知識。
意味は解らない。
今はなき廃れた文明の遺産。
これを一目で古代魔法と読み解くイーラから矢継ぎ早に質問が飛ばされる。
「なんでおじちゃんはこんな凄いの知ってるの?」
「長生きしてるからな」
質問をしつつ、それでも視線は魔法陣に釘付けであった。
「そうなの?友達のパパと同じくらいなのに?」
「そうだ」
ヴェルのことを見てはいない。
興味は一点、この奇妙な文字列と陣。
「へぇー、変なのー」
感心しているのか、野次っているのか、言の葉はぼんやりと焦点を合わせていない。
陣の描かれたシーツをツンツンとつついてみるイーラに別の声がかかる。
「イーラや、そんなに騒いだら寝ている方が起きてしまうじゃないの」
エリスは騒ぐイーラに一声かけたあと、
ことり。
温かな湯気が立ち上るコーヒーをヴェルに勧める。
ちらりと見やるが、寝ている魔の者は目覚めた様子はないようだった。
テーブルにあるコーヒーの香りが部屋にいる者たちの鼻腔をくすぐる。
温かいうちに私をおあがり、と。
ヴェルもその声に従い、軽く礼を言ってからカップを手にする。
「寝てるおじさんは魔族なの?」
躊躇ないイーラの問いに、こちらも躊躇いなく応じる。
「そうだ」
ゆっくりとコーヒーを味わい、ヴェルはふっと息をつく。
「うむ、婦人よ。良き味である」
こうして温かな家庭に自分がいるのはいつぶりくらいだろうか。
ずっと、旅をしてきた。
色々なものを見てきた。
人が見れば頬が綻ぶものも、思わず目を背けたくなるものも。
いずれも、ヴェルには色褪せた思い出たち。
「私たちとそんなに変わらないのね」
魔族を見る目は、好奇か醜悪かのいずれかだった。
のに。
この少女も、婦人も、そのいずれとも違った。
少女に至っては、魔族よりも魔法陣の方が気になる様子で、シーツをつついたり、裾から裏を覗いてみたりしている。
「魔法陣ってこうなってるのね…」
「ふふ、お口に合いましたか」
柔らかく微笑みながら自分をエリスだと名乗った婦人は、ヴェルの向かいの椅子に腰を下ろす。
「ふむ、紹介がまだであったか。私はヴェルという」
コト。
カップをソーサーへともどしながら、つい、とイーラへと視線を向ける。
「こちらの子は…」
床に座ってシーツと好奇心とで戯れているイーラにエリスは、溜息を一つこぼす。
「イーラや、あなたも挨拶したらどうさね?」
「ん?」
視線、魔法陣から外れていないです。イーラさん。
「私はヴェルという」
「ふーん、ヴェルね。よろしく」
今度はシーツの臭いをかぎだす。
向き直ってのヴェルの自己紹介など上の空。
イーラの好奇心は止まらない。
魔法陣を見ながら、へー、ふえー、と観察を続けている。
どれくらい、シーツと格闘をしていただろうか。
止まらないイーラについにエリスから声がかかる。
「さてさて、イーラや。こんな時間だから、早くおやすみ。あまり長く起きてると怖い人たちがさらいに来るさね」
「えー!もっと見たい!」
人さらいの噂話をなぞらえるエリスの言葉に不服申し立てをするイーラ。
この勝負、最初から勝者は決まっていそうだがイーラはあきらめない。
んー。でもー…とごねてみる。
「ヴェル様は明日までいらっしゃるそうだから、そんなに焦らなくてもいいさね」
ねえ、とエリスから目配せをされてヴェルも少し困る。
確かに担いできた魔族を一人置いて去るわけにもいかない。
どうしたものかと悩んでいたが、しばしの沈黙を残したところで決着はついた。
「…」
エリス、沈黙の勝利である。
「あー!わかったわよ。寝ます。寝ますー」
「いい子ね」
くすくすと笑いながら席を立つエリス。
テーブルの上の食器をその手に持つと、
「私は片付けがあるから、ヴェル様は寛いでてください」
「世話になる。…イーラよ、良き夢を」
ヴェルの言葉を聞いて、エリスはそのまま夕食の片づけにキッチンへと足を向ける。
キッチンで食器の音がカチャカチャと鳴り始めたのを確認して、イーラはヴェルにとたとたと駆け寄り、そっと耳打ちする。
ふわりと石鹸の香りがヴェルの元にも降り立つ。
「ね!おじさんのお話聞かせて。ばあばがお風呂に入った時に上がってきて。待ってるから!」
続けて。
「ばあば!おやすみなさーい!」
パチリ。
金と赤のオッドアイの金の方が瞬く。
返事を待たない約束に。
「ふむ」
ヴェルは少し冷め始めたコーヒーを啜ってみせた。
ドアが開いた時とは違い、静かに閉ざされ。
小さな足音がトントンと離れていく。
キッチンでは変わらず食器の音が子気味よく響いている。
しばしの沈黙の後、二人に届かぬ落ち着いた声でヴェルが独り言のようにつぶやく。
「意識が戻ったか」
びくっ。
魔法陣の上で小さく魔族が跳ね上がる。
「恐れるな、ここは心優しき者の家だ」
「気づかれてたか。そして、これは…?」
自分が横たわっている物に奇怪な紋様が描かれ、ぼんやりとした輝きを放っていることに不可解なものを見る目を落とす。
「私が書いた。古の知恵…と、この家にあったシーツだ」
魔族の瞳がヴェルの姿を捉えて、驚きの表情をしたか。
意外だ、と眼が訴えている。
「あんたが、助けてくれたのか?」
「そうだ」
魔族を助けるなんて異常としか思えない。
その異常とも取れる行動を、目の前にいる男とこの家の者が許したというのだ。
互いに名乗り合い、魔の者―クリシュオラは身に起きたことを語った。
人魔戦争が終わる前は、人目を避けるように森で暮らしていたという。
しかし魔王の訃報を受け、森の魔族の大半は人間の街へ侵攻。
統制の取れていない下級魔族の群れは人間の軍に敵うはずもなく散っていったと。
その中で彼は生き残り、貴族の奴隷として仕えていたのだと。
近くの森にあるコロニーに家族がいると聞き街を離れようとしたところで捕縛され、命失うほどの手痛い仕打ちを受けたのだ。
人魔戦争終結後十年。
魔族の残党も狩られ、森や洞窟でひっそりと暮らすか、人の奴隷として生きるしか残されていなかった道。
惨めに生きるしか残されていない未来。
その元凶は。
「ご苦労だった。今は安心して休むとよい。ここは心優しき者の家だ」
ヴェルは繰り返した。
心優しき者の家だ、と。
聞いてクリシュオラの落ち着かなかった瞳が、穏やかになる。
この家の空気がそうさせたのかもしれない。
「ありがてぇ」
「ふむ」
小さな影が寝返る。
動ける程度には回復してきているようだ。
「…良き夢を」
ヴェルはコーヒーの最後の一口を飲み干すと、未だ食器の音がカタコトと鳴っているキッチンへと足を運んだ。
来訪者に特に驚く様子もなく、エリスは拭きあげた皿を棚へと戻している。
「あら、お話は終わったんですか?」
「ありがとう。気遣いに感謝する。…これも馳走になった」
空になったカップを受け取りながら、エリスは柔らかく微笑む。
「老婆の要らぬお節介だと思ってください」
見透かしていたのか。
ヴェルはこの婦人の優しさに心から感謝した。
この家が温かなものであるのは、この婦人と天真爛漫な少女によるところなのだろう。
「ヴェル様は、お風呂は入られますか?」
「いや、私は寝ずとも良き身なので最後に借りることとする」
「そうですか」
カップを洗いながら、エリスは何事もないかのように口にする。
「イーラの部屋は二階に上がって左手の部屋です」
全くをもって。
なかなかに食えない婦人だ。
「そうか、ありがとう」
「イーラは毎晩これくらいの時間から、冒険の本を読んでほしいと駄々をこね始めます」
昔から繰り返されてきた、この家の物語。
「今日はヴェル様のお話を伺いたいようですから、子供の相手と思って少しだけお話を聞かせてあげてください」
濯いだカップを今度は拭きあげながら。
「私は久しぶりにゆっくりとお風呂に浸からせていただきますから。場所とシーツのお代と思ってください」
エリスは悪戯っぽく笑う。
どこか懐かしい。
「では、しっかりと勤めあげよう」
「よろしくお願いします」
勤めあげると約束したからには、行かぬわけにもいかぬ。
小さく軋む階段をゆっくりと昇りながら、ヴェルは先程の石鹸の香りを思い出していた。
二階に上がって左手の部屋。
寝てしまってはいないだろうか。
そっとドアを二度叩いてみる。
「起きておるか」
「どうぞー」
戸を隔ててくぐもった、囁くような返事がヴェルを室内へと導いた。
こぎれいな、イーラを体現したかのような部屋。
歳に似つかわしくない量の本が鎮座した棚が印象的だった。
ベッドに横たわり、金の髪を無造作に枕に広げているイーラは半分ほど夢の世界に足を踏み入れているようだった。
「失礼させていただく」
「やっときた。遅かったのねぇ」
ランプの明かりがゆらりと悪戯をしたように揺れる。
「すまぬ。話し込んでしまってな」
閉ざしたドアにヴェルの大きな影がゆらりと揺れる。
「うむ。許そう」
渾身のイーラの物まねに、普段はあまり表情を変えないヴェルの頬が緩む。
それに気づいたのか気づいていないのか。
イーラは己の探求心に素直になった。
「ねえ、ヴェルはどこから来たの?」
「難しい質問だ。私は…」
「ねえ、魔王っているの?」
答えを得るよりも先に出る質問。
「なぜ、それを聞く?」
質問に質問で返す。
「あのね、本を読んだの。魔王はね、ヴォルカスっていうの。私はね、きっと可哀想な人だって思うの」
そう言ったイーラはどこか遠いところを見つめている。
「それでね、私が生まれた年に魔王は死んだの。けど、誰も会ったことがないんだって。どんな人か知らないんだけど悪い人だって」
「ふむ」
悪い人。
人は、そう魔王を評した。
「でも私はそう思わないの。魔王はきっとね、いい人だったのよ」
イーラの持論。
物語でも語られていない、歪みのない持論。
「当たってはいるが、間違ってもいる」
「!」
ヴェルの答えにイーラは心臓の鼓動が少しだけ早くなるのを感じた。
「ヴェルは魔王のこと知っているの?」
答えは。
「多少なら」
やっぱり!
「ねえ、話して。そのお話。ヴェルの知ってることでいいの」
微睡みの中でのイーラのおねだり。
今日もお話をしてほしい。
今日はばあばの。
物語の話じゃない。
ヴェルの。
魔王を知る人のお話。
「ふむ。では…」
魔王を知る者が語るのは、どんな物語であるのだろう。
今日こそ魔王を近くに感じるのかもしれない。
イーラはヴェルの、新しい物語に心躍らせる。
夜は更け行く。物語を綴るように。
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