「お待たせしました」 「よい、気にするな」 どれほどの時間抱き合っていただろうか。 暫くしてイーラが落ち着くと、イーラの頭を最後に数回撫でた後、エリスはヴェルに声をかける。 「ふむ。イーラよ。落ち着いたか」 「…うん!」 グズグズと鼻をすすりながら、 それでも清々しい返事をする。 「して、行きたい場所は決まったか。」 「うん…私、魔王城に行きたい」 魔王城。 イーラの母が亡くなった場所であり、生涯で最も愛しく感じた朝日を臨む場所。 「暫くは帰ってこれないが良いか」 「うん。大丈夫」 家を離れる覚悟を決めた。 ふむ。 と、ヴェルは一呼吸を置いて、視線をイーラからエリスへ。 「とのことだ、エリスよ」 「あらあら。わかりました」 半歩だけヴェルに近寄って、 エリスはこれまでと変わらない穏やかな返事と、 「しっかり面倒を見てあげてくださいね」 私の宝物を、貴方に預けます。 今度こそ守ってあげてくださいね。 と。 「しっかりと勤めさせていただく」 エリスに立てる二度目の誓い。 ヴェルは組んだ腕をほどき、右手を胸に置く。 と、隙をついてイーラが空いた左手に縋りつく。 「私、外の世界のこと全然知らないから、いっぱい迷惑かけるかもしれないけど、よろしくね。ヴェル」 「うむ。」 ヴェルの返事を聞いて、安心をしたのか、にへへ、と表情を緩める。 そのまま、ぎゅっとヴェルの左手を少し強く抱き締める。 事情を知るエリスも、その温かな光景に今日まで感じることのなかった種類の安堵を覚えた。 「ねえヴェル。1つだけ、持っていきたいものがあるんだけど、いい?」 イーラが抱き着いたまま上目遣いでヴェルに聞く。 「かまわない。」 ヴェルの返事を聞くやいなや、左手を開放し、家に向かって駆けだす。 「やった!すぐとってくるねー!」 と、エリスはイーラが横を過ぎようとしたところで呼び止める。 「イーラや」 「なあに?ばあば!」 「カバンにちょっとした荷物を入れておいたさね。それも持っていきない」 昨晩からこうなることはなんとなく分かっていたから。 せめても、イーラに、応援をしていることを伝えたい。 そう思って昨日の夜に用意した旅支度。 「はーい!」 親の思いを知ってか知らずか。元気にそのまま駆け抜けていくイーラ。 「…ばあば、ありがとう」 ドアの前につくとふとエリスの方へ振り返り、ちょっと恥ずかし気な笑顔を向ける。 全部お見通し。嬉しいようで、照れくさいようで。 ちょっとだけエリスと目を合わせて、そのままイーラは家の中へ入っていく。 エリスはそれを見てくすっと笑った後、ふと現実的なことを考える。 実際に足を運んだことはないが、魔王城へ行く場合、いくら強いとはいえ、 今の世で無茶をして向かうわけではないのだろう。とすると…安全についてはそこまで心配はないが、 ヴェルという人から、そこはかとなく抜けている雰囲気がするのも気のせいではない、だろう…。 ここまでが数瞬。 ヴェルに向かって声をかける。 「では、頼みますね。ところで…」 急な雰囲気の変化をヴェルも察し、 少し楽にしていた腕を、再び組みなおす。 「魔王城までの…旅の支度金はあるのでしょうか」 と、問われたヴェル。 ない…とは言いにくい。 ヴェルには食事も睡眠も本来はいらない。 たとえ薄くとも空気中に漂う魔素が力の根源であり、加えて体内には千の個体に匹敵する魔素を元々蓄えている。 そのため旅先で何か入用になるということはこの10年間、滅多になかった。 あったとしてもその場で少し日銭を稼ぐだけて、宿にも泊まらず放浪を決め込んだ。 だが、イーラと一緒ということは、そうもいかない。 彼女は魔王の娘ではあるが人だ。とすると、宿にも泊まるし、普通に食事もする。 まして年頃の女の子であり、髪や服の手入れもする。風呂にも入りたがるだろう。 気軽に魔法を使って解決しても良いが、魔素を使って作ったものはすべからく人里には持ち込めない。 同じく人里の中で魔法は使えないので、旅先で病を患えば薬を所望する必要も出てくるだろう。 とすると、ヴェル一人分が単純に乗算される、という話ではない。 ここまで考え、 ゆっくりと組んだ腕の上下を入れ替え… 「ふむ」 とだけ、返事をしておく。 策がないわけではない。 「ヴェル様?」 と、初めて見せる肯定でもなく、否定でもない返事に少しばかりの不安を覚え、エリスは一つため息をついた。 きっと全く無策でもないようだが当てが外れる可能性もそこにはあるのだろう、と察し、 「あと数刻もすれば日暮れです。今日は休み明け。ぼちぼちと一昨日の祭りの片づけが終わり、商人の皆様は旅立たれます。仕事に熱心な方であれば、早朝には出発されているでしょう」 早くしないとお目当ての方も発たれてしまいますよ、と。 どこまで察しの良い婦人なのか… 「すまない、エリスよ。其方の心配りにはつくづく感謝しておる」 気まずさがだだ漏れの声でヴェルが答える。 その巨体をして小さく見えるものだから不思議だ。 エリスは、家の方を一瞥した後、持っていた貨幣いくらかをヴェルの上着のポケットへ入れ込んだ。 少ししてイーラが戻ってきたとき、家の玄関前にはエリスしかいなかった。 「あれ?ヴェルは?トイレ?」 と、素っ頓狂な声を出す。 エリスはしゃがんでもう一度イーラを抱き締める。 「ちょっと挨拶をしないといけない人が街にいるそうで、街の北側の入り口まで来てほしいそうです。」 と、エリスが言伝を伝える。言われてもいない理由を添えて。 「そうなんだ。うん!わかった!じゃあばあば、一緒に行こ?」 それに応えるようにイーラが無邪気にエリスを誘う。なるべく一緒にいたい。 これも思った通り。しかし、今は旅立ち。 二人がちゃんとやっていけるのか、自分の目で確かめる最後の機会。 抱擁を解き、イーラの頭に手を置き、まっすぐ目を見て伝える。 「ばあばは、今日の家事をやらないといけないから。一緒にはいけません」 「…え?」 イーラの顔が急に陰る。 全くこの子は……いえ、親子そろってわかりやすい。 「あなた達二人の旅立ちです。私が一つ一つ助けなくても、イーラや、一人で何でもできることを私に見せてください。」 それだけ言うと、すっくと立ち上がり、頭をひと撫でして、エリスは家の方へ向かう。 「ねぇ!街の入り口までだけ!入り口までだけだから!」 その場で、半泣きでごね始める孫娘。 だめです。 「なんで?ねぇ、できるだけばあばと一緒にいたいだけだから」 と口にはするが、離れるエリスに向けてその一歩を踏み出すことはしない。 「ねぇ!お願い!」 その姿を見て、その意味が分かって、エリスは心に押し潰されそうな痛みを感じる。 …私だって一緒にいたい、けれど、1歩外に出れば今までとは違う。少なくとも十年も一緒にいる私との生活とは大きく変わる。 色んな事を自分でやって、時に訪れる大きな不条理に勇気をもって立ち向かわなければならない。ヴェルという大きな存在がいたとしても、それは変わらない。 エリスはドアに手をかけ、ふっと後ろを振り返り 「いってらっしゃい、気を付けるのよ」 とだけ言うと、家の中に姿を消した。 送り出すのに、いっぱいの笑顔ができたかしら。 器用なタイプだと思ってきたけれど、今日ばかりは器用に笑えた自信がない。 玄関前に残されたイーラは急に一人になる。 なんでこんなに寂しい気持ちになるのだろう。さっき旅立つって決めたばっかりなのに…。 散々迷惑をかけて、何も返していないし、今日も自分のわがままを聞いてもらった。荷物の準備をしてもらった。向かうべき場所を教えてもらった。 なのに、なんでこんなに寂しいんだろう。なんでこんなに私はわがままなんだろう。 と、心が弱って、答えのない思考に入ろうとする自分。 それを奮い立たすよう、胸に抱えた物の重みに意識を向ける。 …でも、私が決めたことだもん。頑張らなきゃ。 ママが、一緒にいる。ママが一緒にいるんだから…。 一生懸命睨んでいたドアから地面に視線を落とし、 その重い身体を足を、街の入口へ向けて一歩ずつ進めていく。 彼女の母が一番好きだった本を小さな胸に抱えて。 トボトボと家とは逆へ向かい出した我が子を、 窓の陰からエリスはずっと見つめていたエリスも、 その姿が見えなくなると、家を出てこっそりとイーラの後を追う。 万が一のため、そして、孫娘の旅立ちを見届けるために。
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