「モルダウの醜聞」
《自慢の友人である
英国探偵と伯爵令嬢に敬意を込めて。》
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
-19世紀 イギリス ロンドン‐
ウエストミンスター内のメルリボーン地区を南北に走るベイカー街は様々な店が並んでおり、来客をあちらこちらへ目移りさせる楽しさを持ち合わせている。
しとしとと雨が降っているにも関わらず、たくさんの人で賑わっているその様子は、ほんの半年前までアフガンの地で戦火に蠢く地平線を眺めていた日々を、もうずっと昔のことのように思わせた。
馬車から流れ見るこの景色も、ここへ来た当初は少し窮屈そうに見えていたが今ではすっかり慣れ親しんだものになり、それ程にわが祖国に帰還してからの日々は色濃く、その根源は
しばらく馬車に揺られていると、通りの左側にお気に入りのサンドイッチ屋が見えてきた。
僕は胸のポケットから懐中時計を取り出す。
時刻は午前10時24分ーー待ち合わせの時刻まであと6分。
ここから馬車で5分はかかるから、今日も寄り道はできないなと、僕は諦めて懐中時計をしまった。
僕の友人は時間にとても煩く、1秒でも遅れると不機嫌になる。
しかも彼はそれを遠慮なくフルオープンにする
サンドイッチを諦めてから約5分、今度は通りの左側に紅い日除けテントを拵えた小さなカフェーが見えてきた。
そのカフェーの入った2階建ての古いアパートが目的地である。
白い外壁に墨色の木扉が5つと少し大きめの窓が5つ。
屋根は扉に合わせて墨色のレンガで作られており、その他はとてもシンプルで、僕の好きな感じだ。
チップをいくらか渡して馬車を降り、もう一度懐中時計を取り出して時間を確認するーー午前10時29分。間に合ったようだ。
僕は懐中時計をポケットに押し込み、建物の手前から2つめ......「221B」と白い文字盤が打ち込まれている扉をノックした。
-コンコン-
返事はない。
しかし人を呼び出しておいて不在だなんて、いくら彼でもそんなことはしないはずだ。......いや、彼ならしかねない。
僕は銅の取っ手に手をかけ、回してみる。
するとガチャりと扉が開いた。
「ごめんください」
これまた返事はない。
中は暗く、とても人がいるようには思えなかったが、僕は足を進めた。
彼の居住スペースは2階にある。
そこへ上がる階段をギィギィと不穏な音を立てながら登ると、今度はセピア色の扉が現れる。
覗き窓から覗いても中は暗くてよく見えない。
まさか本当に留守なのだろうかーーそんな疑念が
こんなことにはもうほとんど驚かなくなったが、
彼は来訪者が扉を開けて顔を出す前から、その人物が誰かわかるらしい。
中へ入ると、暗い部屋で独り安楽椅子に深く腰掛け、天井を見あげている友人の姿があった。
「いるなら返事してくださいよ。
明かりもつけないでどうしたんですか?」と、僕。
「明かり? ああ、そういえばそんなものもあったな」
......何を言っているかわからないが、
とりあえずスルーしよう。
「今日も足音でわかったんですか?」と、僕。
「本当にそんなことを言っているのかい?」
「え?」
「あまり失望させないでくれたまえよワトソン君」
そう言いながら彼は自身の顔を左手で覆う。
その細く長い指の隙間から僕を小馬鹿にしている笑みが垣間見得るのだが、それを隠そうと手を顔に当てたのだろうか?
だとしたら、おもいきり見えているのでまったく無意味だが。
この、やや失礼で容姿端麗な紳士の名前は
「シャーロック・ホームズ」。
ここベイカー街221Bに住む私立探偵で、僕の友人である。
友人と言っても、彼の方が6つほど歳が上なので、僕はいつも敬語だ。
「さて」と、ホームズさんは天井を見上げたまま話を続ける。
「足音なんて聞かなくても、
俺には君だとわかったよ」
「まさか。未来予知の能力でもあるんですか?」
僕のその言葉に、彼は今度は声を出して笑った。
「いいかい?ワトソン君。ここへ君を呼んだのは誰だ?」
「......ああ!」
言われてみれば当たり前である。
僕はさすがに少し恥ずかしくなった。
「いやはや。タネ明かしをされるまでは、
いつもあなたが本当にすごい能力を持ってるんじゃないかって本気で思うんですけどね」と、僕。
「事象には偶然であれ必然であれ、
必ずその起こりうる原因があるものだ。
たまにはサンドイッチ以外のことでも頭を使うといい」
そんなことより、と彼は言葉を続ける。
「俺はね、ワトソン君。そりゃあもう退屈なんだ。
退屈過ぎて天井の木目で人の顔がいくつ作れるかと数えていた」
「は、はあ.....」
「ああ、どこまで数えたっけ。まあいい、君が来たからもう数える必要はなくなった」
そう言ってホームズさんはやっと僕の方に目を向ける。
今となってはこれも慣れたものだが、初めて会った頃はその鋭い瞳に捕食される前のうさぎのような気分になったものだ。
「ええと、電報には火急だと書いてありましたが。なにかあったんですか?」と僕。
「火急だよ! このままでは俺は死んでしまう。
退屈すぎてね! 一大事だろう?」
「は、はあ.....」
「だが、君が来てくれたのならば幾分かは退屈が凌げるというものだ。そうだな、今日は【水死における窒息死と溺死の差異】について議論しようじゃないか。」
と、まあここまでの会話を見てもらえれば、彼が少々? 変わった人物だということを説明する必要もないと思うが、読者のみなさんが気分を害さないよう、著者の僕には先に彼の悪習を伝えておく義務がある。
まず第1に、その独特な話し方。
これにはしばしば......いやかなり他人へのデリカシーが欠落している。
よって人から好かれない。
よって友人もほとんどいない。
僕と他2人くらいしか会話らしきものをしているところを見たことがない。
上記を踏まえ、第2に、彼は
ーーふと、表の通りで馬車が止まった音がした。
ホームズさんも気がついたらしく、安楽椅子に座ったまま、外も見ずに「4輪馬車だね」と呟く。
彼が言うのだからそうなのだろうが、僕は一応窓の外を見る。
確かに立派な4輪馬車が止まっていた。
それもーー
「この家の前に止まってますよ」と、僕。
その言葉に、ホームズさんは一気に顔を煌めかせ、
「依頼人か?!」と、椅子から飛び立った。
「ええと、ベランダのでっぱりがあるから真下の玄関に誰が立っているかまでは見えないです」
僕のその言葉に彼は鋭い目を
ぴったりと閉まった扉の方に、いや、
現れたのは、この
メアリー・リーズベット嬢。
国の研究機関に務めているリーズベット伯爵の御息女で、
なんでも、幼い頃にホームズさんに助けられたのだとか。
それがきっかけで、メアリー嬢はホームズさんに会うために探偵となり、例の「踊る音符事件」、通称「3つの葬送曲事件」で再会を果たしたそうだ。
ーーそうそう、この事件に関してもいつか書きたいと思っているのでお楽しみに。
そして、彼女こそが事前に紹介したかった、
彼らの華麗なる事件簿を、僕がこうしてしたためることになるほんの少し前のーー英国を揺るがしたあの事件を。
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degirock
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degirock
2020年6月13日 11時19分
こまつみえ
2020年6月13日 16時17分
degirockさまありがとうございます(´;ω;`)✨ ノベラポイントまで!!光栄です!! 次の一幕も楽しんでいただけるようがんばります!!
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こまつみえ
2020年6月13日 16時17分
s.h.n
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s.h.n
2020年8月9日 12時58分
こまつみえ
2020年8月9日 15時36分
s.h.nさま ありがとうございます(´;ω;`)!頑張りますので今後ともよろしくお願いいたします!
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こまつみえ
2020年8月9日 15時36分
綾瀬アヤト
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綾瀬アヤト
2021年8月17日 15時27分
こまつみえ
2021年8月18日 23時47分
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こまつみえ
2021年8月18日 23時47分
Yuiz
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Yuiz
2020年7月11日 14時51分
こまつみえ
2020年7月13日 14時13分
Yuizさまありがとうございます!励みになります(*´-`*)
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こまつみえ
2020年7月13日 14時13分
夏目みもり
文章が流麗ですね。馬車から見えるロンドンの街並みの部分などは特に巧いと感じさせられます。私はホームズは未読なのですが、それでも彼はこういう人柄なのかな、と原作を想像しながらでも読める作品だなと感じました!メアリー嬢はオリジナルでしょうか?これからの活躍が楽しみです!!
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夏目みもり
2021年8月18日 7時09分
こまつみえ
2021年8月18日 23時53分
夏目さまありがとうございます(´;ω;`)! そのように言っていただけて光栄です! まだまだ未熟ですが、がんばってまいります!! 夏目さまの作品の更新も楽しみにしております!!
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こまつみえ
2021年8月18日 23時53分
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