さて、前章で語られた“彼”は決してこの物語の主人公ではないが、重要なキーパーソンの一人である事は確かである。“彼”の事を語るには現在から1年と半年ほど時を遡らなければならない。
2022年5月某日 時間不明
某所地下、尋問室にて
そのジメジメとした部屋の天井からは裸電球が一つぶら下げられていた。その電球は点灯していたものの光量が少なく、部屋内はまるでホラー映画に出てくる洋館の呪われた地下室の様な雰囲気を醸し出していた。そこは四方がレンガ張りで窓一つ無い。入り口のドアは無骨な鉄扉で、壁の一面には大きな薄汚れた鏡が貼られていた。その鏡がある事を除けば、部屋を見た100人中98人はそこを監房か監禁室だと答えるだろう。残りの2人は仕置室とか拷問部屋などと答えるかもしれない。
その部屋には2人の男がいた。一人は黒髪のアジア系の少年。彼は目隠しのうえ身体を椅子に固定されていた。もう一人は白人のスラリとした長身の男で、目隠しの少年の前にある小さなテーブルを挟んだ反対側の椅子に腕組みをしながら憮然とした表情で座っていた。
◇ ◇ ◇
“彼”(17)は狼狽していた。
気が付けば目隠しをされ、手は後ろ手に椅子に縛られ、足も椅子の足に縛られて固定されていた。身体をどう揺すっても縛りは緩まず、座らされている椅子から逃れることは出来なかった。今が何時か、それどころか今日が何月の何日なのか、ここがどこかすらもわかっていない。加えて眼の前に居る人物、目隠しで容姿はわからなかったが、英語で話しかけてくるその男の声はどう思い出そうとしてもまるで記憶には無かった。
ルイス・ストリックランド少佐(27)は辟易としていた。
ボスのオーダーで部下にスカウトさせてきた眼の前の小僧はどう見てもナヨナヨしていて兵士としてモノになりそうになかったからである。なんでこんな奴を、という疑問と共に、説得に苦労しそうな様子にほとほと嫌気が差していた。
「もがいてもムダだって。もっぺん訊くぞ? まずはお前の名前を言え」
ダルそうなルイスの声が響く。“彼”は目覚めてから今まで無言を貫いていたが、さすがにこのままでは埒が明かないと考え、何度目かの質問の後に自分の名前を明かした。
「久我将冴だ! 名前も知らずに誘拐したのか? なんで! なんで僕を!」
「いいからちょっと落ち着いて話を聞け。悪いようにはしない」
「悪いようには、って……。こっちは多分誘拐されてるんだぞ! もう充分悪い状況じゃないか!」
「うん、ヒアリングも出来てるようだし、発音も“Engrish”にしては良く聞き取れるほうだ。正直助かった。通訳を用意しなけりゃならんかと心配していたんだ」
そんな世間話みたいなのはどうでもいいと思った将冴は二度と口を利くまいと唇を固く閉じた。
「ええと、それで……、日本人はファーストネームとラストネームが逆なんだっけか。ショーゴ・クガ、で間違い無いな?」
その言い様に一瞬で苛ついた将冴はすぐに口を開いた。
「だからッ! 何で名前も知らない人間を誘拐する必要があるんだ!? 身代金目的か?」
「いや、知らなかったわけじゃないしカネ目当てでもない。ボスのオーダーに従ってお前個人を狙って誘拐した。名前を訊いたのは確認のためだ。実は俺自身、アジア系の顔をうまく区別出来なくてな。誘拐を実行した部下はお前がヒースロー空港に到着してからずっと機会を狙っていたんだ。そいつらの見分けを信用していないわけじゃないが、違う奴を攫ってたら面倒なんで念のためって事だ」
「そもそも何で僕なんですか?
あんたがた何なんですか?
何のために僕を誘拐したんですか?」
その立て続けの質問にルイスはスラスラと答える。
「俺はその最初の質問には答える立場にない。どうしても知りたいならあとで俺のボスに聞いてくれ。
二番目の質問の答えは、俺達はとある組織に属する私設軍隊だ。平和維持目的の傭兵貸し出し企業なんかとは違う、完全なる荒事専門のだ。
三番目の質問の答えはお前を兵士にスカウトしたいからだ。この部屋を出る前にYesと言ってもらうぞ?」
明確な答えは返ってきたものの、その殆どがこの状況を変える役に立たない事に気付いた将冴は“兵士にスカウト”という言葉に食いついた。
「兵士のスカウトって……、僕は修学旅行でイングランドに来てただけで……。確か、確か、劇場を出た後でみんなでカフェへ行って、トイレの、トイレで…………! その後の記憶が無い!」
「日本からイングランドへ学校行事で旅行、って今の世相を考えたら相当珍しいな。イングランドも観光誘致に本腰を入れ始めたかな? 日本人っつっても学生なら問題も起こさんだろうし」
無言を続ける将冴にルイスが言葉を続けた。
「ああ、あと記憶に関してはあれだ、攫う時に睡眠薬を使ったからな。睡眠薬と言うか、即効性の気絶薬と言うか……。頭痛は無いか?」
「他の皆は? に、日本とイングランドの間で外交問題とか、大きな騒ぎに!」
「目撃者はいないし、お前以外に攫った奴はいないから心配するな。あと俺達は国籍を持たない人間だから日本との間で外交問題なんて起こらないし、だいいち俺らは捕まらん。報道が騒ぐだろうが民衆は飽きやすい。二週間もすれば行方不明になったアジア人学生の事などテレビには出なくなる。そもそも、ここはまだイングランドかな?」
その言葉に、将冴は本格的な危機感を覚えて身体を固くした。
「……いったい僕をどうしたいんだ?」
「言ったろ、お前を兵士にスカウトしたいって。俺自らの手でお前を屈強なソルジャーにしてやる。安心しつつ光栄に思え」
「何で……、わかってるでしょ? 僕はただの高校生ですよ! スカウトって……、何で僕を?」
「それはさっき言ったろ、答えられないって」
「……い、嫌だと言ったら?」
「口止め料と言う名の金を握らせて日本へ帰す。3ヶ月以内に、極めて平和的にだ。もちろん誘拐された事と、ここでの会話の内容は忘れてもらう。お前がこの話を断るなら俺たちはもう無関係だ。フラれたからって海の向こうにいるお前の関係者を害するとか、いちいちそんな事にコストをかけてられんからお前の家族も安全だ。しかしな、ここであった事を誰かに喋ったら首チョンパだ。お前、お前の家族、漏らした相手、全員だ」
無茶な話をしだしたルイスに将冴の全身が更に硬直する。次第に怒りに震えだした彼を乗せる椅子がガリリと音を立てて少し前に進んだ。
「なら答えは一つしかないだろ! 僕はあんたらの事は喋らないしここで聞いたことも忘れる。誰かに攫われて知らない所で目覚めた、ぐらいは言う必要はあるけど……。もういいだろう? カネなんて要らないから今すぐ僕を解放してくれ!!」
「……面倒くさくなってきたな。ボス、アウトだ。別の候補者の選別をしてくれ」
部屋に椅子を引いて立ち上がる音が響く。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、他の奴って……、あんたらまさかずっとこんな事やってるのか?」
将冴の悲鳴の様な質問にルイスは椅子ではなくデスクに座った。微かな衣擦れの音と共に机の足がギシリと軋む。
「スカウトは本業じゃない。俺らは兵隊だしな。ただ、まぁ、一年前にも日本人を一人誘拐してる。そっちでニュースになったらしいが、お前覚えているか?」
「いや、そっ……、でも何で?」
「必要だったからだよ。俺にはわからんがボスがそう言うんでね。何だ? 考え直す気になったか?」
「僕が断ったらまた誰かを、日本人を誘拐するのか?」
「ボスの方針が変わってなきゃそうなるかもな」
「…………」
ルイスは机から立ち上がると部屋の中を当て所無く歩き始めた。
「はぁ~、将来誘拐されるかも知れない、見も知らない同胞の心配か? なんだかお前ら日本人を見てると調子が狂ってくる。お前らほんとに80年前の太平洋戦争で合州国と引き分けた国の人間か? 休戦直後に日本に見切りを付け、愛瀰詩ナントカ共和国へ移民した奴らのほうがまだ気概があるぜ」
「あんな軍事独裁国家と日本を比べないでくれ」
「共産国家からの防波堤としちゃ優秀だろ? だからこそ今もって合州国や日本が軍事的経済的に支援してるわけで。だいたいエミシが無かったらサハリンから日本本土へソ連兵どもが押し寄せてくるだろうが。お前ら今までどれだけエミシに守られてきたと思ってるんだ?」
ルイスは将冴の後ろに立ち、将冴の座る椅子の背もたれの上に両手を置いて体重を預けた。
「……まぁ今はその話はいい。本題はお前がどうするかだ」
「…………」
無言を続ける将冴に、ルイスは椅子から手を離して再び歩き始めた。
「お前、家族は?」
「……僕に両親は居ない。父親は僕が小さい頃に出ていったきりで、病気がちだった母親ももう死んだ」
将冴がそう答えると、ルイスの首にあるチョーカーから耳裏の乳様突起に繋がる骨伝導スピーカーが静かに振動して何者かの声を伝えた。
『彼は嘘をついてる。父親は中堅家電メーカーの営業マンで年収は55000ドルほど。母親は無職で、現在スイミングスクールの若いインストラクターと不倫中』
ルイスはチョーカーから聞こえてきた少年――組織のボスであるクリフォード・F・モルガン(13)の声を聞いて苦笑した。それをおくびにも出さずに久我将冴への質問を続ける。
「で、兄弟は?」
「……小さな妹が一人。病気がちで……、そう、治らない病気で入院中で……」
ルイスのチョーカーの骨伝導スピーカーが再び振動する。
『それも嘘だ。姉がプロサーファーと結婚してオーストラリアに移住、自身もプロサーファーでそこそこ稼いでいる。あと妹はいないが弟がいる。ジュードーの選手で、中学生ながら将来を嘱望される逸材らしい』
ルイスがその内容にニヤけながら頬を掻く。
「親無しで病気の妹を抱えてんのか。それでお前は高校生? イングランドに卒業旅行? 日本の社会保障制度ってのは凄いな」
何か見透かされた様な気がした将冴は床を見下ろし、合ってもいない目線から顔を逸した。
ルイスが再びテーブルの前のイスに座る。
「まぁビビるな。Yesと答えて金をバンバン稼ぎゃいい。病気の妹は寂しがるかもしれないが、稼いだ大金で何かこう高度な先進医療を受けさせりゃいいだろう。不治の病も治るかもな」
「……Yesと答えたら僕はどうなるんだ?」
「まずは兵士として一人前になるまで訓練をしてもらう。脱落したらこっちからお前をクビにする。訓練期間はおよそ6ヶ月程度と見積もってる。新兵訓練を終えて名実ともに兵士となった時点で、それまでの訓練期間は雇用していたものとして扱い給与を支払う。素晴らしいな、訓練してもらった上に金まで貰えるなんて。普通、教育や訓練を受けるならカネを払って学校へ通うもんだぞ」
「その後は?」
「実戦だ。作戦の傾向がどんなか、って訊かれたら……、まぁそうだな、弱肉強食の世界でひたすらドンパチだ。運が良けりゃ、お前ら日本人が大好きな巨大ロボに乗ったり宇宙へ行けたりもするかもな」
実戦という言葉の恐怖に将冴が身体を震わす。
「ドンパチって……、人を、殺すんですか?」
「当たり前だ、兵士にするって言ったろ。その仕事を何だと思ってる」
「だって、私設軍でドンパチって、ただの人殺し集団じゃないか!」
今度は怒りで身体を震わせた将冴へ、ルイスは静かに冷静に応えた。
「そこらの悪人と一緒にするなよ? 俺達は無差別テロなんて行わないし、カネ目当ての誘拐も今のところはやってない」
「僕を誘拐しておいて!」
「カネ目当てじゃあないからな」
「…………」
ルイスは将冴が見えていないにも拘らず、人差し指を立てながらゆっくりと歩き出した。
「そうだ、カネだ。人生大抵のヤマはカネがありゃ越えられる。日本で一般的なビジネスマンの年収は幾らだ? 7万ドル? 8万ドルぐらいか? 俺の部下になりゃ軽くその倍は稼げるようになる。まれに一、二ヶ月のまとまった休みが取れる事もあるが、その他は忙しくて散財するヒマも無いから実質ビジネスマンの3倍ぐらいのペースで金が貯まる。ソ連艦隊が跋扈するアラスカ沖でやる命懸けのカニ漁以上だ。部隊への貢献度が高けりゃ戦功ボーナスもドーン! お前が俺ぐらいの歳になる頃には軽くミリオネアだぞ。どうだ、興味が湧いてきたろ?」
「お金の為に人を殺すとか……」
「……ビジネスマンだって人を殺すだろ。特に証券マンとか仮想金貨マンだ。実体が無い電子データに価値があると叫び、時間をかけて大衆を扇動したあと高値になったところで売り抜ける。奴らが1人儲かる陰で何人が泣いたり破産してると思う?」
経済には疎いが度々何らかの市場が暴落したとのニュースがあった事は覚えている将冴は口を噤んだ。
無言の将冴にルイスの話が続く。
「うん、それにナントカショック、みたいなのが今まで何度あった? その際、政府は市場の混乱から社会を守るという名目で公金を投入して銀行を救ったが、暴落した市場に取り残された個人は誰か救ってくれたか? あいつらの気まぐれ一つで何人の個人投資家が露頭に迷って自殺していると思う?」
ルイスは返事を返せないままの将冴の前で仁王立ちになると大声を出した。
「はっきり言ってやる、俺よりもあいつらの方が人を殺してる! 俺の部下達よりもだ!」
言ってる事は納得出来なくも無かったが、言いくるめられそうになった事に不安を感じた将冴は、今のカネの話を考えないようにしつつ話題を変えた。
「もしスカウトに応じたら……、僕は二度と日本に帰れないんですか?」
「作戦対象地域に日本は無いな、今のところは。個人的な都合で訪日出来るかと問われれば、しばらくはNoだ。パスポートや日本国籍が無くなるからな」
目隠しの奥で将冴が目を丸くする。
「こ、国籍が無くなるって……」
「俺のボスは大抵の事をカネの力で平和的に解決する。お前がこの話を飲んだらボスが日本大使館へ連絡し、ショーゴ・クガの国籍、あとなんだっけか、コセキ? それに社会保障番号……、じゃなくて確かアイナンバーだったか? 呼び方ダセぇな……。とにかくだ、お前を日本国民だと証明する公的記録の一切を消す。書類の一部を黒塗りにしたり死亡した事にするんじゃなくて、お前という日本国民が最初から存在しなかった事にする」
「信じない! そんな簡単に国籍とか……、消せるもんか!」
「い~や、簡単だよ? 俺がいまカメラに向かってこの指をパチンと鳴らしゃあボスがすぐさま行動を……」
ルイスが指を鳴らす音が部屋に響いた。
「あ、今の無し、取り消し! まだ交渉中!」
カツンという足音、硬い布素材の衣擦れの音、それに顔に感じた微かな風から説得役の男のオーバーアクションに気付いた将冴は、ボスとやらがどこかで見てるのか? と考えた。思わず映画やドラマに出てくる警察の尋問部屋を想像する。
ボスへの訂正を終えたルイスが将冴に振り返った。
「大丈夫、安心しろ。すぐに偽物の国籍や本物ソックリのパスポートをたんまり作ってもらえる。どうだ、スパイ映画みたいでカッコいいだろ?」
そんな事を言っても効果は無いと思っていたルイスだったが、本当に効果が無い様子を実際に目の当たりにして心底げっそりした。彼は一つ大きくため息をついたあと将冴へ質問を続けた。
「お前の態度から見るに、今のところ答えはNoだな。なぜ明確に断らない?」
「誘拐犯の言う事なんて信用できない。申し出を断って無事に帰れる保証が無い。家に帰れたとしても家族や友人の安全が担保出来ない。そもそも喋ったらその相手も殺すって事は、日本に帰れてもやっぱり僕には監視が付くんだろうが! あんたらみたいな危っかしい連中が家族や友達の近くでウロチョロするなんて耐えられない。それに僕が断ったら他の人間を誘拐するんだろう!?」
将冴が話しながら静かに怒りを溜めてゆく様子に再び嘆息するルイス。
「ボクちゃん~、コストが掛かるし面倒くさいから監視は付けない、とも言ったろ? 喋ったら殺すって言ったのは駆け引き上の政治的なジェスチャーだ。お前がそう飲み込んでくれりゃそれでよかったんだ。仮にお前がこの事を周りに漏らしても“高校生にもなって迷子になった奴が恥ずかしくなってつまらん言い訳をしてる”ぐらいなら問題無い。誘拐の事をバラされて報道に乗り、話が大きくなったらなったで今度は俺らがお前に手を出せなくなる。高校生がついた“かわいいウソ”が本当になっちまうからな。拒否されても殺すなっていうボスの命令に従わなきゃならん以上、本来は俺のほうが詰んでる立場なんだよ」
ルイスは説明に納得していない将冴の態度を見てすぐさま二の句を告げる。
「まいったな、昔の刑事ドラマみたいに良い警官と悪い警官みたいなのを用意して説得すれば良かったか? それとも睡眠薬を嗅がされた直後の記憶が無いってんなら、もっぺん薬で眠ってこの話を最初からやり直す?」
「…………」
「ここまで話した以上、もしお前がこの話を断るなら俺はお前の口を塞がなければならん。その場合、いっその事お前をここでぶっ殺すほうが早いし確実なわけだが、それは俺の個人的な倫理観に反するし、ボスの命令にも背くことになる」
「…………」
「お前が悩む理由は理解した。誘拐犯の言う事などまったく信用出来ないというお前の気持ちもわかる。ただお前は決めなきゃならんし、そうしなければ話が進まん。このままここで一生目隠しされて生きるつもりはないんだろう? 俺もここで監禁され続けるお前のクソの処理とか、そんな面倒臭ェ仕事を部下にやらせたくないしな」
暫くの沈黙の後、将冴が口を開いた。
「……どうするか考える時間が欲しい。あと日本にいる妹や友人に連絡を取りたい」
「身代金目当ての誘拐じゃないから、こちらにはお前に家族と話させる意味など無いしメリットも無い」
伸びを始めたルイスのパキパキという関節の鳴る音が静かな部屋に響いた。
「それにお前が目を覚ますのに時間がかかったせいで、俺の就業時間はもうとっくに過ぎてる。今夜はもうバーへ繰り出してビールでも飲み始めたい気分だ。面倒だからもう時間はやらないし誰かに相談もさせない。いまここで即答しろ」
「……Noと言ったら本当に帰してもらえるのか?」
「お前が居もしない妹の話を始める前だったらな」
将冴は保身のために何気なくついたウソがバレていた事に全身の血の気が引いていった。少し呆れたようなルイスの言葉が部屋内に響く。
「ボスからの命令でお前個人を狙って誘拐したと言ったろ。もう何から何まで調べ上げてんだよ、お前の事は。騙すつもりなら次からはもっとうまくやれ。そんな様子じゃ今後、敵の捕虜になったらソッコーでぶっ殺されるぞ」
目隠しのまま呆然とする将冴を前に、ルイスは腰に両手を当てて仁王立ちになると首を左右に振ってゴキゴキと鳴らした。
「仕方ねぇ、それじゃ最初からやり直すか。まずはお前の名前を言え」
項垂れていた将冴は嘆息すると更に深く項垂れた。
◇ ◇ ◇
同月同日 14:02
イングランドの南西部、ロンドンから西へ170kmほどの位置にある古い街ブリグストウ。その市街から少し離れた荘園跡近くにその屋敷はあった。そこは通称モルガン邸と呼ばれる古くから代々続く子爵家の本邸である。3階建ての本館の左右にウイングとして迎賓館と別館を一棟ずつ抱える荘厳な大邸宅だ。
その本館、西側にあるパントリーの勝手口の一つから屋敷を抜け出してきたクリフは、正面の噴水脇から続く道路を抜け、西側に並び立つ迎賓館の先にある庭園に向けて電動車椅子を走らせていた。彼のショートボブにした金髪がそよ風になびき、碧い瞳が陽光をキラキラと反射させている。
クリフォード・F・モルガン。13歳にして子爵位を持つモルガン財閥の当主であり、モルガン系列企業群の最高執行責任者である。その立場ゆえか、下肢が不自由な彼は車椅子に乗りながらも常にスーツ姿である事を欠かさない。13歳の男児にしては華奢な身体と病的なまでに白く見えるその肌は見る者に彼が虚弱だとの印象を与えるが、その原因はモルガン財閥当主としての激務と責務、未だ完治する気配を見せない背中の古傷のためだった。
午後2時過ぎ。ようやく春を迎えたイングランドの暖かい日差しが辺りへ降り注ぐ中、玄関前にある園庭から続く歩道脇に作られた花壇には何羽もの蝶が舞い、ミツバチが好みの花を探して飛び回っていた。それらを感慨深げに見つめたクリフは肘掛けのコントローラーで車椅子の速度を落とすと花壇の方へ手を伸ばす。蝶を捕まえる気は無かったが、運良く手に止まってくれれば、などと取り留めの無い事を考えていた。
後ろから自分を呼び止める男の声――ルイスに気付いたクリフは車椅子を走らせたまま振り向いた。彼の距離と速度差からすぐに追いつくだろうと判断して再び正面を向く。
程なくしてルイスは車椅子に追い付き、クリフの隣で歩調を合わせてから話し始めた。
「ボス、さっきは助かったが情報の入手が遅い。大体だな、本人の情報以外入手してなかったってのはどういう事だ?」
「本人以外に興味が無かっただけだ。身代金目当てでもないしな」
「説得の成功率に関わるって言っただろ」
「そう言われたから両親を始め姉弟の情報を揃えた。間に合ったのだ、文句はあるまい」
ぎりぎり過ぎるだろ、とはルイスの心の声。
それを察していない振りをしたクリフは車椅子を走らせながらルイスを見上げる。
「それより少佐、彼の印象はどうだ?」
「最後は無理やりYesと言わせたがダメかも知れない。カネが儲かるって話をした時も目の色一つ……、あ、いや目隠しをさせてたんで目の色はわからんが、態度一つ変えなかった。家族の心配はまぁ当然だが、自分の事よりも兵士になった時に殺す相手や、自分が断った後に拐われる他の誰かの心配をしていた。優しすぎる奴だ、向いてないとしか言いようがない」
「しばらく戦争とは無縁だった国の人間だ。自国の外側の状況を理解していないだけでは?」
ルイスはそれには応えず質問を返した。
「どうしてもアレがいいのか?」
「“アレ”ではない、彼がいい。どうしてもだ」
ルイスは早足になってクリフの前に回り込むと、くるりと振り向いて後ろ向きに歩き出した。車椅子のクリフに少し大げさな身振り手振りを交えて話し始める。
「ボス、あんた一年前にも同じ様なことを言ってたが、Maximaの野郎はあのザマだ。こちらの人員リストの一部を持ち去られたお陰で、諜報部から3ユニット分もの人員が消えて今でも行方不明だ。前回はともかく、今回俺は何があっても絶対に責任は取らないからな」
「前回のMaxima出奔の件では少佐に責任を取ってもらった覚えは無い」
「ボスには無くてもこっちにはある。俺の気持ちの問題だ。引け目のある俺は昇給などを欲する気持ちがあってもボスに相談出来ん。そんな状態が1年近く続いてるんだぞ」
クリフは表情にこそ出さなかったが、彼のこういったところが嫌いだった。敵に向けられる厄介さは歓迎だったが、それが一転自分に向けられるとなると話が違ってくる。非論理的で感情的、自分に不利な状況でも決してそれを認めず、勢いとか圧力で相手を押していく。
大体Maxima事件のあと昇給は要求しなかったが、作戦をこなす度に多額のボーナスは要求してきたしそれについては支払ってきたろう、と答えようとしたが、それとこれとは別だと言い張られても面倒なので話題を変えることにした。
「少佐、“鹿”の準備をしておいて欲しい」
「本当にやる気なら部下に目星を付けさせておく。要望は?」
「そうだな、わかりやすくて……、なるべく元気で大きいのがいいだろう」
「了解。しかしこっから先は奴次第だ。望まない結果になっても俺を恨むなよ?」
ルイスはそれだけ言うと踵を返して本館へ向かった。
クリフはガートルード・ジェキル――蔓薔薇のピンクの花に覆われた細い鉄枠のアーチを抜け、花が咲き乱れる庭園へと至る小道へ入っていった。
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羽山一明
うむ。今こうして読み返してみても、やはり人選ミス感がありますね。日本語を解する、日本人のことを理解できるメンバーの方がスムーズだったんじゃあ、と。非を認めない性格のルイスと、この時点ではどう考えても非しかない状況を混ぜ合わせているわけですから、なんとも。
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羽山一明
2022年4月21日 9時49分
うさみしん
2022年4月22日 6時58分
ヨシカワぐらいしか居ないのであります。将冴が了承すればすぐに地獄の訓練が始まるわけで、その前に余計な事を吹き込まれたり、モノになるかどうかわからん小僧に彼女なりのテクニックを使われるのが嫌だったわけであります、たぶん。
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うさみしん
2022年4月22日 6時58分
葵乃カモン
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葵乃カモン
2021年5月25日 1時18分
うさみしん
2021年5月25日 1時23分
うをををを~ん! 応援ポイント3000どころかノベポ100ポイントまでいただけるなんてありがとうございます! ありがとうございます! 超がんばるますぞ押忍!!
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うさみしん
2021年5月25日 1時23分
羽山一明
思っていたより寛容だった。でも、招聘された側もした側も、理由がはっきりわからないのであれば、駆け引きもやりづらそうですね。彼がいかにして一人前になったのかが気になります。余談ですが、なんとかショックはいずれも国政失敗によるもので、金融商品取引業者はむしろ被害者だったり。
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羽山一明
2022年1月13日 17時37分
うさみしん
2022年1月14日 5時09分
証券マンの下りはアメリカやイギリス一国の話ではなく世界一般の話であります押忍。それとここはストレンジリアルの世界で、現実に起こった事件や辿った歴史がちょっと異なります。現実との差異はそこで吸収していただけると助かります押忍。
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うさみしん
2022年1月14日 5時09分
朝元しぐろ
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朝元しぐろ
2022年1月12日 0時08分
うさみしん
2022年1月12日 6時11分
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うさみしん
2022年1月12日 6時11分
J_A
いきなり尋問というシチュに釘付けになりつつ、前回までとは打って変わっての新チーム?結成と広がりを見せる物語世界を堪能させていただきました! それにしてもお手本のような尋問術……久我の過去も気になります!
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J_A
2022年4月26日 22時37分
うさみしん
2022年4月27日 7時03分
最新話の時点でまだ第1話の時間に戻ってきてないのです(だいぶ近づいてきましたが)。久我将冴の過去編をやるならその後になります押忍!
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うさみしん
2022年4月27日 7時03分
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