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文字を伝える魚

 私は耳が聞こえない。生まれつき聞こえなかったわけではなく、ある時から聞こえなくなった中途失聴者だ。  聴覚以外の身体機能に異常はないが、耳が聞こえないと普通に話をする事も出来ないものだ。  だって、自分がどのくらいの高さで、どのくらいの大きさで声を出しているか分からない。自分が口から出す言葉が本当にその言葉なのかも確認できない。だから、耳が聞こえていた時には口から出せていた言葉も今では怖くて出せないのだ。会話は手話と筆談のみになった。  そんな私だけど、毎日が楽しくて仕方がなかった。 『おはよう、聡子(さとこ)ちゃん』  その魚はいつも私にメッセージを伝えてくれる。私はちゃん付けされるような年齢ではないのだけど、画面に表示される文字を見る私は、少女のように心をときめかせていた。 『おはよう、雅敏(まさとし)さん』  お返しのメッセージを入力すると、送信ボタンを押す。すると海の中を泳いでいた魚がやってきて、メッセージカードを口に咥えて泳ぎ去っていった。彼(彼女?)は電子の海を泳ぎ切り、ずっと遠くにいる雅敏さんのところに運んでくれるのだ。  パソコンに繋がっているケーブルを見つめる。小さなピンクのお魚さんはここを通って広い海へと旅立つのだろう。  電子の海ってどんなところだろう? 同じような魚が沢山泳いでいるのだろうか。危険な捕食者が襲いかかってきたりはしないだろうか。迷ってどこかに行ってしまわないだろうか。そんな事を考えているうちに、魚が帰ってきた。私に幸せをもたらすメッセージカードを口に咥えて。 『今度の連休、聡子ちゃんに会いに行きたいんだけど、大丈夫かな?』  断る理由などありはしない。私はすぐに、 『もちろん大丈夫! 待ってるからね』  と返事をした。慌ただしくメッセージを伝えるお魚を見送り、私が幸せに暮らせる事を感謝する。  この魚は、誰のパソコンにも住んでいるのだと思っていた。電子の海では沢山の魚が毎日世界中の人達へと想いのこもったメッセージを運んでいるのだと。  約束の日、駅前の待ち合わせ場所で雅敏さんを待つ。気合を入れて精一杯のおめかしをした私は、まるで映画の主人公になったような気分で道行く人々を眺めている。いや、今の私は確かに私の人生で最も楽しい時間を描く物語の主人公なのだ。  約束の時間より五分早く、雅敏さんはおしゃれなスーツを着てやってきた。彼とはこれまでにも何度か会っているけど、いつになくフォーマルなファッションに身を包んだ雅敏さんはなんだか王子様のよう。  スマホにお魚さんがメッセージを持ってくる。 『お待たせ! 今日はちょっと行きたいお店があるんだ』  雅敏さんからのメッセージ。手話もできるけど、私はこの魚が持ってくるメッセージのやり取りが好きだ。雅敏さんは気を利かせてこのメッセージ機能で会話をしてくれる。私と雅敏さん、そして魚の三者で交わす言葉の応酬が楽しくて、目の前で顔を合わせているのになんだか普段と変わらない会話をしながら、雅敏さんが予約していたレストランへ。  通常のレストランでは食事中にスマホを見ながら文字を打つのは無理なので無言で食べる事しか出来ないのだけど、ここは個室で私達二人だけしかいないからと、食事中もスマホを取り出しお魚さんをせわしなく働かせてしまった。  楽しい時間を過ごした最後に、雅敏さんは真剣な顔でスマホを操作する。魚が画面で元気に跳ねた。 『これからもずっと君と一緒にいたい』  簡単だけど、気持ちのこもったプロポーズの言葉。私は笑顔で頷いた。  その時、不思議な事が起こった。スマホの画面から魚が飛び出して空中を泳ぎ回ったのだ。私は驚いて、ただ部屋中を楽しそうに泳ぎ回る魚を目で追う。雅敏さんは不思議そうに私の視線の先を追うけど、どうやら魚が見えていないみたい。  しばらく空中を踊っていた魚は急に向きを変えて私に向かってきて、顔にぶつかるところで私は目を閉じる。 「きゃっ!」  小さな悲鳴が私の口から漏れた。 「聡子ちゃん!?」  優しいバリトンボイスが耳に届く。 ――この日から、魚は私の画面に現れなくなった。  私と雅敏さんの出会いは、病院の待合室。私の耳が聞こえなくなった日に、不安と恐怖で泣いていた私に手を差し伸べてくれたのが彼だった。耳が聞こえないと分かると、すぐに筆談を始めてくれて、落ち着いた私とメッセージを送るためのアドレスを交換した。  家に帰ってパソコンを開くと、そこに魚が泳いでいた。私がそれを不思議に思いつつも雅敏さんにメッセージを送ると、魚がメッセージを運んでいくのが見えてそういう機能なのだと納得したのだった。そんなソフトをインストールした覚えもないのに。 「あの子は何だったのかな?」  結婚式の当日、ウェディングドレスに身を包んだ私は誰にともなく呟いた。  私が聴覚を失っていたのは、精神的な負荷の影響によるものだったらしい。確かにあの頃私は仕事で毎日残業ばかりしていて、精神的にかなりまいっていた。素敵な出会いのおかげで楽しい日々を過ごし、プロポーズをきっかけに聴力を取り戻したのだろうというお医者さんの説明は辻褄(つじつま)があっていて疑問を差しはさむ余地はないのだが、その間ずっと私にメッセージを届けてくれたお魚さんの存在は説明がつかないままだった。  雅敏さんに聞いたら、あちらの画面に魚なんていなかったという。私の話を聞いた彼はニッコリと笑って、 「そのお魚さんね、一度だけ見た事があるよ。あの時病院で検診を終えて帰ろうとした僕の目に、一瞬だけ空中を泳ぐ魚が見えたんだ。何だろうと思って目で追ったらすぐ消えたんだけど、そこに君が座って泣いていたんだ」  と教えてくれた。  二人で住み始めた新居で、私はカタログとにらめっこしていた。 「アクアリウム? 魚を飼いたいんだね」 「ええ、魚の泳ぐ姿が好きだから」 「ちゃんと快適な生活をさせてあげないとね」  二人で笑い合うと、私達は新たな家族を迎えるための準備を始めたのだった。

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