放恣クトゥルフ神話短編集

読了目安時間:8分

エピソード:41 / 99

魔薬

 苦痛に苛まれていた。自分の肉体が己のものではないような、いっそそうであったらならばどんなに楽か。朦朧とした苦痛の中で俺は感じている、殺してくれと。  真実を知ったのは偶然だった。この世には人々が知らない、知ってはならない神なるものが在ると。古来から敬われてきたいかなる神とも違う、宇宙の彼方より我々を蹂躙せんと襲いくる邪なるものが、あるのだと。  これは知ったものの義務だと思った。あれらを駆逐せんとするのは、俺たちの成すべきことだと。俺の他にも数人、知らない方がずっといいことを知ってしまった連中がいて、俺は彼らと共に奴らを追い続けていた。  まして日本に、更に我が街に邪神を信仰するものどもが神を降臨させようとしているとなればなおのこと。  そうして俺はチベットの山奥へと潜入を果たした。いまはまだ奴らも準備段階、邪神の像さえ壊せば滅ぼすことはできなくとも時間は稼げる。その間になんらかの策を施そうと日本に残った親友は苦慮しているはずだった。  洞窟めいた穴に入り込み、奴らの気配をたどる。薄暗い中に響くかそけき物音、それは人の声ではなく生物のそれでもなかった。だからといって油断などしていなかったはずなのに。  俺は捕らえられていた。  いったい何が起こったのかまるでわからない。潜入したのを察知されていたのかと思うほど鮮やかに無力化されていた。洞窟の床に後ろ手に拘束されたまま転がされ、なんとか周囲を見まわす。愕然としていた。  俺を捕らえたのは、人間ではなかった。形は人間、だがしかし人ではない、断じて。一見は総じて髪の薄い小柄な人間ではある。が、違う。これは違う。この悍ましさは決して人間が持つことのできない異常だった。その小柄さが俺の有利になれば、とまだそのときには思っていた。拘束されてもこちらの方が体格は上、と。 「ミろ」  片言のような言葉だった。こちらが日本人と知っているから合わせたのか、それとも端からこういう抑揚なのか。奴らの一人に髪を掴まれ、頭を持ち上げられる。自然と上がった視線が洞窟の奥を捉えた。  硬直する、とはこのことか。俺は自分の目が見ているものが信じられなかった。巨大な像があった。台座の上に鎮座するそれは歪んだ象のよう。はためく耳と長い鼻と。けれどそれを象と言うものはいないに違いない。  人が見る悪夢の顕現、そうとしか言いようのない異様なものがそこに。それもだが、チャンスだと。彫像破壊のために潜入したと奴らは気づいていないのか。 「……っ!?」  甘かった。俺の読みなど甘すぎた。あれは、いったい。小柄な人外の化け物どもが去っていった夜だった。  俺はこの隙に拘束を緩め像の破壊に動こうと。なのに、動いたのは俺ではなく像。あり得ない、叫びたかった。のそりと像が動き俺を見る眼差しの色のなさ。喰われる、咄嗟に感じた。這いまわり逃げ惑う俺を生ける像は興味深げに見ていた。  わかっている。このような異常があるのだと。それを駆逐するために苦闘している我々だと。それでも、否、だからこそ、眼前にあれば恐怖は強い。知っているがゆえにいっそう。  狂ったように這って逃げ続ける俺は幸いにもその晩は無事だった。本当に、無事と言えたのか。人外どもが俺を連れ出しに来たときには、すでに像は動かず台座の上に。にやにやとする化け物の忌まわしさ。  そして別の場所へと監禁された。洞窟内にある窪みのような小部屋だった。これから何をされるのか。あの像の生贄に。思うだけでいますぐ死にたい。それも叶わない俺を化け物は嘲笑う。  それでいて、何もされない日々。粗末ながら食事も出たし眠る邪魔をされることもない。あの動く像を見たのは悪夢だったのでは、幻覚でも見たのでは。疑うほど平穏だった。 「試ス」  にんまりとした人外がやってくるまで数日は経っていた。奴らは俺を縛りつけたまま、その周囲に香炉を置く。何が、と思う間もない、たなびく淡い煙。すぐさま呼吸を止めたけれど果敢無い。麻薬と悟ったときには遅かった。五つもの香炉に囲まれ、拘束されたままの俺に逃げ場などなかった。  ――麻薬漬けにでもする気か。  抵抗の目はあるだろうか。耐え切れるだろうか。仲間たち、別けても親友のことは決して語るまいと心する。奴らが知りたいのはこちらの情報だろうからして。  馥郁として、卑俗な香りだった。いかなる麻薬とも違う、と感じる。これは本当に麻薬か。疑うも一瞬。こんな薬も香もない。あっていいはずはない。これは、奴らの麻薬に相違ないと断じたときには意識は薄れていた。  それから悪夢を見続けている。  あれ以来何度麻薬を投じられたのか。俺の周囲に香炉は転がったまま。あの像の鼻が伸びてきて、吸盤のように開いた先端が朝顔みたいに俺の頭に吸いついて。そして、吸われる。人としての生命力、それ以前の尊厳。吸い取られる悍ましさ、それを感じる忌まわしさ。  他にも。夢は続く。吸い取られるのは俺だけではなかった。チベットの人々が、日本の人々が。像と奴らの赴くところすべてで人が死んでいく。吸い殺されていく。そのたびに像は生き生きと息づきはじめる。まるで塵芥のようだった、人間がごみのようだった。生贄ですらない。ただただ殺されていく。  やめろ、殺してくれ。悪夢と知りつつ何度叫んだことか。すでに声は嗄れ掠れて出ない。叫ぶたびに喉が破れて血を吐いた。目覚められない麻薬の悪夢が俺を捕らえて離さない。 「やめテ欲しイか?」  香炉に麻薬を足しにきた化け物だった。楽しそうに俺を見やる目の忌々しさ。けれど、もう耐え切れなかった。あのような悪夢を見続けるなど、到底。泣いてやめてくれと希う俺を化け物は笑う、まだ足りないようだ、と。  そんなはずはあるか。もう耐えられない。これ以上人が死ぬのなど見たくない、俺が殺されるのなど見たくない。のたうちまわる俺が香炉を蹴ろうとしても体に力など入らなかった。そしてまた夢がはじまる。  朦朧とした途端に頬に感じた血飛沫。びしゃりと音がしたのをまざまざと感じる。温かいぬめりをも。鉄錆びた臭いをも。  俺の眼前で像が、あの神が蠢いていた。触手めいた鼻を振るい、人間を捕らえる、振り回す、引きちぎる。そのすべてが戯れだった。意味などなかった。  かぽり、と開いた触手の先が人間の頭を包み込む。嗄れた絶叫と共に走り込んだ俺はその人を引き剥がそうと。だが。そんな、はずは、ない。吸い殺されなんとしている人は、うっとりと夢見る口許。喉からは恍惚とした呻き声が。  ――気持ちいい、のか?  一瞬でもそんなことを考えた己を殴りたい。あり得ない話ではないか。けれど、快楽を得ているような痙攣が。そんなはずはない。  目の前でひくんひくんと動いた人の身体が地面に落ちる。神から放り出された肉体は、その顔は、想像通り快さそうに笑みを浮かべていた。その動かない体を神は踏みにじる、否、そこにあるとすら気づいていないのか。  当然だと思った。神なのだから。塵芥のごとき人間など目に入るわけもない。神御自ら捧げ物を受け取ってくださったのならば感謝すべきなのでは。生贄となれた、一時の慰めとなれた我が身を誇るべきでは。  次々と殺されていく数多の人間。ぼぅっとするほどの腥さが俺を酔わせる。血の臭いのしない場所はなかった。赤くない大地はなかった。どこからでも悲鳴が聞こえる。 「助けて――」  唐突にすがりつかれた。俺と同年代だろうか、彼は血塗れで顔形も定かではない。腕など半ばもげてだらりとしていた。 「助けて欲しいのはこっちだ!」  血の臭い、漂う香炉の麻薬。ないまぜになったそれのせい。俺は彼を突き飛ばす。もう帰りたかった。何も知らなかったあのころに。正義感に突き動かされるその前に。 「な……」  そう思った瞬間、わずかに正気が戻る。俺はいま何をした。無辜の人を突き飛ばすなど。何度となく鼻先に迫る麻薬の匂い、甘くてしつこい、しかし爽やかで醜悪な。  それらが俺の思考を狂わせる。立ち戻る疑念、なぜ俺が他人のために苦労をせねばならないのか。正義感はなんて愚かなのか。  気づけば唇から哄笑が。血みどろの景色の中に俺の笑い声と神の蠢きだけが響き轟く。いままで何を耐えていたのか。どうせ死ぬのだ。あの神の前には。いま突き飛ばした彼が殺されていくように。感謝すればいい、そう、彼を見やった。 「お前……そんな……」  あり得ない、あっていいはずはない、これは夢だ。なのに、真に迫った景色が。いま殺されたのは、俺が突き飛ばしたのは。  日本で対策を練っているはずの親友が。俺が突き飛ばしたばかりに神に殺された。甘い麻薬の匂いがする。夢だ、悪夢だ、現実では。 「いま、死んダよ」  どこからともなく声がした。背後からか、前からか。神の声か化け物のそれか。嘘だ。言うたびに親友は殺された。俺の手が勝手に、否、望んで動く。何度も何度も繰り返し繰り返し、親友は死ぬ。俺のせいで。  悲鳴も上がらなかった。俺の愚かさが招いた。何を考え違いをしていたのか。この世にあってはならないものを駆逐するなど。  あってはならないのは、人間だ。この俺だ。俺が人間である限り生きるべきではない。せめてもの贖罪は神に仕えることのみ。 「解放ヲ願うカ?」  のろりと顔を上げた。夢も現もなかった。俺の前に化け物がいた。小柄で異様な奴らがにまにまと笑っている。俺の体には麻薬の匂いが染みついているかのよう。 「願う」  そうして、手を差し伸べた。人外どもの手は、人のそれと似て非なるもの。体温というべきものを俺は感じたのかどうか。知らず唇が笑みを刻む。 「何かラの?」 「人間の世界からの解放を願う」  互いに握り合わせた手と手。握手などという俗なものではなかった。これは祈りだった。人間など屑だ。屑がただ一つ役に立つのは我が神の娯楽にのみ。  吸い殺されよう、無駄に引きちぎられよう、踏み潰されよう、放置されよう。禍々しく変わり果てようとも我が神の興のためならばなんの悔いがあろうものか。  早速にも俺は日本に戻らなければ。我が神をお連れし、同志を入国させる手筈を整えねばならない。日本にある人間という人間、そして世界中の人間という人間を神の供物にするのは贖罪だ。  この世に生まれてしまった、そして人間こそが支配者だとの誤った認識を持ったすべての人が悔い改めますように。さぁ偉大なる我が神をお連れせねば。

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