放恣クトゥルフ神話短編集

読了目安時間:9分

エピソード:46 / 99

潮の匂いのする手紙

 練習中に波に飲まれたのは覚えている。まずい、と思ったときには体の制御を失い、あとは何もわからない。目覚めたのは質素な天井の部屋だった。古く懐かしい趣きの和室。 「気がついた?」  覗き込んできた青年は日焼けして浅黒い。細身ながら鍛えた体をぼんやりと見ていたら「漁師なんだよ」と笑われた。 「海に出てたら浮いてたからねー。拾ったんだけど。生きててよかったよ」  明るい青年だった。どうやら本当に俺は溺れたらしい。それを思えば恥でしかないのだけれど、ないとは言い切れない危険な競技でもあった。 「どこか痛いとかない? 大丈夫?」 「あ、あぁ……ありがとう、助かった」 「死ななくてよかったね」  にこりと笑った青年だった。見た目よりは幼げで屈託というものが感じられない。無垢とすらいっていいような態度が奇妙に心和む。まだ体が疲労しているのだろう。  ここは彼の家だということだった。一人暮らしなので気兼ねはいらないといってくれたのに甘える。まだぼんやりとしたままだった。  さすが一人暮らしなのか、食事の支度も掃除も、俺の世話も手早いもの。感嘆しているうちにすべてが済んでしまう。そんな彼の介抱もあって、俺は三日と経たず歩けるところまでは回復した。 「散歩くらいなら行っても大丈夫だと思うよ。ちょっといってみる?」 「うん、体がなまりそうで気になる」 「じゃあ案内しようか?」  それにはありがたくうなずいた。ここはどこなのか、いま一歩わからない。ずっと競技だけにかけてきたから正直頭の方は我ながらお粗末で心許ない。地図で示されてもまったく自信はなかった。 「へぇ、こんな村だったのか」  閑散としている、というのだろうか。あまり人がいない、というより誰も歩いていない、と言いたくなるほどだ。青年は過疎でね、と苦笑する。 「寂れた村なんてこんなもんだと思うよー」 「そうなんだ?」 「もうここ、ほとんど人いないしね」  なのに青年は漁で食べている、という。海が好きだし、ここは故郷だと笑う。いいもの、なのだろうか。子供のころから合宿所生活なのでそもそも故郷を恋うという感覚が薄い。 「そうなの?」  そんな話をしたら興味深そうな彼だった。今更ながら俺はなぜ海に漂う羽目になったのかも語っていないことに気づいて赤面していた。 「オープンウォーターってわかる?」 「全然」 「要するに海で泳ぐ競技、かな。競泳の一種なんだ」  海とは限らないのだけれど、ほとんどは海で行われる競技だった。俺は練習中に波に飲まれたのだと話す。それには驚いた彼だった。 「へぇ、危なくないの?」 「けっこう事故る。だからコーチが一緒にいるんだけどね」  そのコーチが手を伸ばす隙すらなく飲まれたのは俺の責任だ。何かまずいことをやらかしていたに違いない。記憶はぼんやりとしていたけれど、コーチはさぞ後悔しているだろう。  そう思った途端に里心がつく。帰らねば。みなが心配している。コーチはどうしているだろう。突然に湧き上がってくる不安にも似ていた。 「一人で歩けるようになるまでここにいなよ? バスの乗り継ぎ死ぬほど悪いからね。途中で倒れるよ、いまのままじゃ」 「……そっか。そうだよな」 「うんうん。――ねぇ、どれくらい泳ぐの?」 「短いのだと一キロとかだけど、俺は十キロ。オリンピックとかの距離だな」 「そんな!?」 「トップ選手だと二時間くらいで泳ぐよ」  笑ってほら、と手を見せる。そこにはすっかりと水泳選手として成長した手が。 「うわ、水掻きある!」 「な?」 「人間なのにすごいねぇ」 「人間は発達するんだよ」  自慢げになってしまった自分が気恥ずかしい。こんなに素直に驚いてくれると語り甲斐があるというもの。散歩を続けながら色々なことを話し合った。互いの生活がまるで馴染みのないもので面白い。  そうして村の中を歩けば小さなそれだと知った。想像以上に小さいというか、想像したこともないくらいというか。いまの体調でもぐるりと一周できてしまうほど。 「あんまり人、いないんだな」  港には彼の仲間らしい青年たちがいた。みな彼を見ると手を振り、それが死にかけてた客人か、海から拾った男かと笑う。だが、それくらい。あとは見かけなかった。 「過疎だからねぇ」  彼は笑うけれど、何か不思議な気がした。思い込みかもしれないけれど、過疎の村なんていうと年寄りばかりなイメージがあるのに、見たのは青年か子供か。壮年以上の人間を見なかった。  ――働きに行ってるのかな?  漁師だけで食べていかれるとも思えない。きっとそんなところなのだろうと思えば聞くのもためらわれる。 「そうだ、水泳選手なんだったら、お参り行く?」 「うん?」 「海の神社があるよ。こんな村だからね」  豊漁と海の安全を祈るのだと彼はいう。が、海の安全ならば何よりほしい、波に飲まれたのだろう身としては。そんな俺の顔色に彼はからりと笑って神社へと連れていってくれた。  小さな、社といえばいいのか。本当に小さなそれだった。木立ちの中にちんまりと鎮座していて、いっそ可愛い。祠みたいなそれの前に青年は額づいた。意外だな、と思う。敬虔な態度というものが見慣れないせいだろう。が、彼もまた漁で海に出るのならば神に祈るのは当然なのかもしれない。  俺もまた彼の背後で社に手を合わせていた。助けてくれたのかもしれない、不意にそんな風にも思ってありがたみが増す。広い海のこと、もし青年が拾ってくれなければ俺は死んでいた。  ――ありがとうございます。  海の神に祈るのに違和感はなかった。俺も海の民、のように感じることが多々あるせいだろう。陸にいるより海に入っていることが多いような気がするほど。  ――次の試合にどうかご加護をください。  知らずつい、祈っていた。内心に語りかけると同時に彼が立ち上がって驚く。俺の照れくさい顔に彼はにやりと笑っていた。  そうして過ごすのは、人生ではじめてといえるくらいのんびりとした日々だった。引退したらこういうところで暮らすのもいいなと思う。けれどもう帰らねば。  青年は回復を心から喜んでくれた。試合がテレビでやるなら見るのに、と残念そう。マイナー競技だけに滅多に放送はないといえば不満げですらあった。  明日はもう帰る。昼のうちに村をもうひと巡りしてくるつもりだった。青年は用事があるとかで一緒ではない。だからきっと、魔が差した。  神社だった。俺は最後にお参りをするつもりだったのだけれど、改めて社の中を見ていた。御神体、というのか。奇妙な像が納めてあった。半ば崩れた魚のような人のような像、か。気味が悪いけれどその分ご利益はありそうな気もする。  そんなことを考えていたせい。ふと視線が向いたのは御神体の腕の先。鉤爪のような鋭さ。だが、俺が見ていたのは違う。ほんの少し、剥離しそうになっていた、腕の鱗。思わず周囲を見回す。誰もいなかった。悪いことをしている自覚はある。けれど。さっと手を伸ばし、お守り代わりに頂戴した。  どきどきとしたままだった。青年も村の人たちもバスに乗るまで見送ってくれた。笑顔で手を振ってくれた。なのに俺は何をしているのか。  彼が言ったよう繋がりの悪いバスだった。まだ本調子ではないのか、ぼんやりとしたまま何度も乗り継ぐ。帰り着いたときにはぐったりと疲れていた。  けれどそこからがまた大騒ぎ。そんな気はしていたけれど、やはり俺は行方不明ということになっていた様子。なぜ連絡をしなかった、電話くらい。散々に責められたけれどコーチも仲間も無事を喜んでくれた。  すぐに練習を再開する、と言えばコーチは反対したけれど、俺は翌朝には快調だった。押し切って海に入る。信じがたいほど調子がよかった。  これならば試合もいける。確信が湧いて自信も湧く。彼に知らせてやれればな、ふと思ったけれど電話もない村だ。  ――そんなこと。  あるのだろうか。あったのだからそんなものなのだろう。忘れて俺は試合に臨む。絶好調だった。それでも不安があってあの御神体の欠片を水着に忍ばせていたおかげか、自分の泳ぎとも思えないくらい、水が体に添うよう。事実、自己新記録を出していた。 「手紙だよ」  興奮のままに合宿所に戻れば俺宛てに。誰だろうと首をかしげて差出人を見るが書いていない。封を開けて、寒気がした。  ――返せ。  ただ一言。だがそれは、俺には、俺だけには意図がわかる。しかし、手紙の中からこぼれたものにもぞっとしていた。大きなものがはらはらと。鱗だった。  俺の記録は出続け、手紙は届き続けた。何度となく。ふと気づいて見れば、切手さえない。差出人は書いていないのに、住所は。  これは咎めることはしないから返却しろ、という温情なのか。放置するのも気味が悪い。届き続ける手紙に俺は諦めて住所の土地へと向かった。あの村だろうと思いつつ。  乗り継いだはずのバスを逆に乗る。だんだんと少なくなっていく客、最後に降りたのは俺ひとり。まだ記憶に新しい村だった。 「は……?」  意味がわからない。村は、廃墟と化していた。それも昨日今日ではない、遙か昔に。壊れ崩れた家屋の数々、狂ったように走りまわればあの青年の家も廃墟。神社も廃墟。ただ御神体だけが。  あまりのことに逃げ帰った。御神体の欠片を返すのも忘れて。俺は何を見て、何があったのか。あの村は、本当にあの村なのか。  混乱と恐怖とに俺は練習に逃げた。泳いでいれば楽だった。記録は出るし、何も考えないでいい。ずっと泳いでいられたらいいのに。  それくらい海が馴染んでいた。まるで水中で呼吸できるような感覚。魚みたいだな、内心で笑ってぞっとする。あの、御神体を思い出しては。あの欠片はいまは部屋にある。思った瞬間、水着に違和感。手探りで漁ればそこにあの欠片が挟んであった。 「なんで……」  知らず声が出ていて海水を飲んだ。ごぼりと喉に流れ込む水に咳き込む。気づけばコーチもいない。立ち泳ぎのまま胸を叩いて、ふと己の手を見る。  水掻きは、水泳選手の誇り。だけれど、しかし。これは。まじまじと見てしまった。大きく広がっては、いないだろうか。 「人間じゃないみたいだ……」  呟いて、はじめて聞く言葉ではないと気づく。あの青年が口にしていた。人間なのに、と。あれはどういう意味なのか。むしろ問いたいのは別のこと。彼は、あの村は、何者だったのか。  恐怖に強張った体がひどく痛む。あっと思ったときには足が攣っていた。もがけばもがくほど痛くて、しかも沈んでいく。水中から見上げる頭上は青い。  はっとして下を見た。痙攣にしては痛みが違う。俺は何を見ているのか。足首を掴むあれは何か。まるで御神体のような。あれが生きて動いているかのような。 「返せ」  どうして水の中で声が聞こえるのか。緑めく鱗と獰猛な牙と鉤爪と。引き裂かれた水着。俺が覚えているのはそこまでだった。

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