放恣クトゥルフ神話短編集

読了目安時間:9分

エピソード:92 / 118

歪めた声

 メンタルをやられて休職した。職場から持ち帰った段ボールを片づける気力もない。一応は自宅で多少の仕事はすることになってはいたのだけれど。  ――やりたくねぇ。  渋々と段ボールを開ける。それだけで職場の嫌な思い出が次々と蘇った。上司のこと、同僚のこと、客のこと。フラッシュバックするそれにしばし呼吸も止まるほど。 「なん、だ……?」  自分でも虚ろだとわかっている目だった。そのせいで見間違えたのかと。だが実際に段ボールには見知らぬ何かが入っていた。取り出してもわからない、これは俺の私物でも会社の備品でもない。  壊れた本だった。元は高そうなのだろうか。革で装丁された厚い本だろうと思う。思うとしか言えないのは、半ば表紙は取れかけ、ページも脱落している節があるせい。なぜこんなものが、と怪訝に思いつつぱらぱらとめくってみる。途端に放り投げようかと思った。  眩暈がした。メンタルをやられてただでさえ過敏になっているところに思わせぶりな古物など手に取ったせいか気分まで悪くなってきた。英語の本文と多少の図版と、意味を理解できるほど読んではいないが古い言い回しの多い本だった。  ――休ませて。  ぎょっとした。いま聞こえた声は。なんだ。俺があげた声では当然にしてない。気分の悪さにそんなものを聞いたか、ついに幻聴まで聞こえるようになったか。そう思うと笑うしかなかった。 「俺が言いたいっての」  休ませて。休ませて。休ませて。何度も会社で言いたくて言えなくて、結局は体を壊した。  ――名前、ない。  再び聞こえるぽつんとした響き。いったい何が切っ掛けでこんな幻聴を聞くのか。意味と理由がわかっていれば幻聴とは言わないのだろうが。しみじみと精神的に不安定なのだと感じる。 「まぁ、なんだ」  ほだされるところがないわけではない幻聴だった。休みたい気持ちは嫌というほどよくわかるし。何よりたどたどしい言葉が稚い子供のようで。 「なんなんだ?」  ふと怪訝にもなる。俺は独身で長い間彼女もいない。付き合う暇もなかった。そんな暇があったら体を壊していないだろう。実家の姉もまだ独身で周囲に子供がいる環境ではなかった。なのに、どうして子供の声が聞こえるのか。 「可哀想な、感じなんだよな……」  寄る辺ない幼子、そんな印象があった。ただ、男の子なのか女の子なのかは判然としない。幻聴なのだからそんなものかもしれないが。  その晩夢を見た。ただでさえメンタルをやられている俺の夢だ、毎晩が悪夢のようなものだったのだけれど。その晩の夢はいままでとは違った。会社の夢ではない。  視界が歪んでいた。夢にしては鮮明に。けれど、否、だからなのか。はっきりと歪んでいるとわかる景色。遠近感が狂っているとでも言えばいいのか。それすらはっきりしない。  ――休ませて。  夢の中でも聞こえる声だった。幻聴がまだ耳に残っているせいではあろうけれど、こんな歪んだ夢の中で聞く子供の声にはぞっとさせられなくもない。 「どこから……」  聞こえているのだろう。夢の中の俺は周囲を見回してもいた。この景色の中に子供が存在している、そんな風にも感じている不可解。何か生き物がいるようには見えない景色だった。それでいて何があった、とは言えない。覚えていられない。 「気持ち悪……っ」  目覚めた途端にトイレに駆け込む。夢を見ている間にはそこまでではなかったのに、現実に目覚めてみればとんでもなく気色悪い景色であったと理解してしまう。それでもまだ「何を見た」とは言えない。それがまた気持ち悪かった。  会社に行かなくていいぶん自由はあった。朝食を食べる気にはなれず、いっそ散歩にでも行って気分を変えようと。 「自由、か……」  もう太陽は高く昇っていた。出勤する会社員の姿などどこにもない。みなが働いているのに自分は、そう思えば罪悪感に苛まれる。自由だなどと思ってはいられなかった。  公園で遊ぶ子供にも、その親たちにも不審な目を向けられている気分。こんな時間に真っ当な社会人が歩いているわけはないだろう、責められている気がしてならない。  過敏になっているだけだと頭では理解している、それでも視線を避けつつ散歩を続ける。走り回る子供の歓声がしていた。無邪気なものだな、と苦笑する。そうして笑っていられる時間の短さを思うのかもしれない。 「名前がないって、どういうことだ?」  ふとあの声の言葉を思い出していた。名前をつけられる前に死んだ、そういうことなのだろうか。そんなことを思ってぞっとする。  ――心霊現象なんて信じてないぞ。  内心に呟いて体をさする。鳥肌が立っていて少し笑った。あの声には、どんな響きがあっただろうか。泣いていたのか、寂しがっていたのか。印象がないことに気づいて驚いた。 「……は?」  再度驚く羽目になったのは帰宅後。ちょうどニュースをやっていて、ぼんやりそれを見ていた。そこに流れたニュース。アナウンサーの淡々とした声音。  遺棄された赤ん坊が発見されたニュースだった。生まれたばかりで捨てられた子供。まさに「名前のない」子供だった。偶然だ、わかっていても符合が気味悪い。ただ、哀れは覚えた。赤ん坊にしろ、あの声にしろ。  ――名前ない、休ませて。  それを契機としたかまた聞こえてきた幻聴。本当に幻聴なのかどうか疑わしいが心霊現象というよりは幻聴の方がましだ。  ――欲しいもの、ない?  更に声は続いた。まるで訴えかけるように。なんでも差し出すから願いを叶えて。そんなことを言われたらほだされるではないか。切実にも感じてしまっては。 「……応えてやったら、救われるの、かな」  そんな風にも思うのはニュースのせい。遺棄された赤ん坊が声に重なる。哀れを覚えれば俺を取り巻く気配が変わったような。気のせいにしては顕著で、けれど何が変わったとは言えない。 「わかった。休ませてあげるよ」  口に出した瞬間、さっと風が吹く。窓から吹き抜ける風は偶然とはいえ、妙にぎょっとさせられてそんな自分が嫌になる。  ――欲しいもの? 「そうだな、メンタルの強さが欲しいかなぁ」  幻聴に何を言っているのだ。俺は律儀に幻聴と会話をしている。とうとうここまで狂ったか、笑えばまだそこまでではないとも思う。いずれメンタルがおかしいことに違いはなかったが。  翌朝は爽快だった。近年稀にみる爽快さ。たぶんきっと悪夢も見ていない。会社の夢を見ないなんて何年ぶりか。あまりにすっきりしていてまだ残っていた段ボールを片づける気分にもなれる。てきぱきと片づけた自分に驚いた。まるで嫌な思い出は浮かばなかった。 「メンタル強くなってるじゃん」  約束してみるものだな、ただの幻聴にであっても言ってみるものだ。自分の心持ちが変わっていて、本当に強くなった気分だった。  それから着実に回復していった。幻聴はもう聞こえない。職場に復帰すれば人が変わったようとまで言われた、図太くなったとも。それは精神的に強くなったと同義だろう。 「前にさ、俺が持ち帰った段ボールに革の本が入ってたんだけど」  誰の持ち物だったのだろう。同僚にそれとなく尋ねてみてもみなが首をかしげた。返せと言われると困る俺はなんでもないと笑うだけ。  思い返せばあの本を手にしてからだった、幻聴が聞こえたのは。はじめこそついに俺は壊れたかと思ったものだったけれどあの本を切っ掛けに聞こえた幻聴でここまで強くもなった。それがありがたく誇らしい。  ――眠ったんだろうな。  迷う幼子が眠りについたのだろう。慰めのただ一言で安らいだならいいことをした気分。  そうして数年後には重要な案件を任されるまでになっていた。幼子への善行がいまの俺を作ったと思えば善人にもなる。年寄りの荷物を持ってやったりベビーカーを持ち上げてやったり。積極的に行動すれば更にメンタルは強くなっていく。  ――欲しいものって言われてメンタル強くしてって言ったの正解だったな。  自分で口にしたから今がある。最近では残業続きでも精神的に疲労することはほとんどない。  夜遅くに帰宅してベッドに入るときにも充実していた。なのに。久しぶりに悪夢に襲われた。いつかどこかで見た悪夢。  ――これ。  あのときの夢だった。歪んだ遠近感に覚えがある。あのときには見えなかった、あるいは記憶できなかった景色がいまは不思議とはっきり見える。  木立と湖と月と。塔も見えている。それに吐き気を催した。なんだこれは、自分の唇が動いたのが感じとれる。景色はおかしかった。木立の向こうにある塔が手前に見える。湖は足首を洗っているのに遥か遠い。何より月が木立の「前」をよぎる。あり得ない。 「名づけざられしものに安息所を与えよ」  不意に轟いてきた響きに飛び起きた。夜中だった。あのときと同じ意味の言葉、だがしかしまるで違う言葉。子供のそれでは断じてない。  愕然と震える、卒然と悟る。 「俺の、メンタル……」  たどたどしく感じたのは俺のせいだ。あの圧倒的な響きを俺は受け取りきれなかった。強靭な精神を得てはじめて受け取った真なる声、言葉。悍しく靭い響きにぞっとして自分の体を抱く。  その手に違和感を覚えた。いま自分で触れた自分の腕。感触が違う。恐る恐る見やって絶句した。灰色で緑色だった。人間の肌の色ではなかった。 「なんだこれ!?」  悲鳴が契機となったかのよう。浮かび上がる鱗めいた模様。自分の肌にそんなものが。震える間に痛みに襲われた。否、そんなものではなかった。  火の中に飛び込んだよう熱くて氷漬けになったよう冷たかった。それに留まらず体が軋む。めりめりと音がする、自分の体の中から。骨が砕ける音、痛み。それが再構成されていく。  怯え震え動けない、痛くて熱くて冷たくて。俺はどうなるのか、これはなんなんだ。掲げた腕はぐんにゃりとしていた。骨がないように。本当にないのだろう。軟体だった、蛸のように。それが全身へと及んでいく。それなのに俺は俺だった。狂うこともできないままに俺だった。  ――嫌だ。嫌だ、嫌だ。死なせろ死にたい。  叫ぶ言葉はごぼごぼとくぐもって。粘液めいた何かが喉に絡む。そして唐突に訪れた幻覚。夢の中のあの景色が。木立の前を横切る月、湖が。湖が、その中から現れ這い出る触手の異形が。太い触手を持ち上げ、踏み出す。なのに下がって見えた。次の瞬間には眼前にいた。目が合う。 「名づけざられしものに安息所を与えよ」  触手の塊が囁く。俺に話しかけていたのは、この異形なのか。否、これはそんなものではない。見ているだけで脳が焼き切れる。神だ。これは、神だ。  幻覚は途切れ、俺は目覚める。神の似姿となって触手の塊となって。俺は理解した。俺の肉体こそがあの異形なる神の安息所であるのだと。

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  • ありちゅ

    巽☆

    ♡2,000pt 2022年8月5日 20時56分

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    きゃーーーっ!

    巽☆

    2022年8月5日 20時56分

    ありちゅ
  • クトゥルフ

    浅葱亮

    2022年8月5日 22時08分

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    いえーい!

    浅葱亮

    2022年8月5日 22時08分

    クトゥルフ
  • 女神官

    プチ猫

    ♡1,300pt 2022年8月6日 22時44分

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    見事なお点前で

    プチ猫

    2022年8月6日 22時44分

    女神官
  • クトゥルフ

    浅葱亮

    2022年8月7日 2時58分

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    ありがたき幸せ

    浅葱亮

    2022年8月7日 2時58分

    クトゥルフ
  • 兵馬俑

    飛鳥 瑛滋

    ♡500pt 2022年8月8日 20時33分

    幼児のふりする質の悪い「闇の皇太子」。 主人公の肉体を奪ってから堂々とした口調になるのが何となく可笑しいです。 その巧妙なだまし方は誰かから教えて貰ったのでしょうか?

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    飛鳥 瑛滋

    2022年8月8日 20時33分

    兵馬俑
  • クトゥルフ

    浅葱亮

    2022年8月8日 21時53分

    人間の認識なんてあやふやなものですからねぇ。うまくコミュニケーションできないのを主人公はたどたどしい、幼い、と解釈していただけ、かもしれないのですよ。ですが狡猾であるのもまたあり得るのです。ふふふ☆

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    浅葱亮

    2022年8月8日 21時53分

    クトゥルフ
  • 女魔法使い

    佳穂実利

    ♡300pt 2022年8月13日 0時17分

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    ▼▼

    見事なお点前で

    佳穂実利

    2022年8月13日 0時17分

    女魔法使い
  • クトゥルフ

    浅葱亮

    2022年8月13日 14時07分

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    ▼▼

    圧倒的感謝

    浅葱亮

    2022年8月13日 14時07分

    クトゥルフ
  • 探偵

    坂本 光陽

    ♡200pt 2022年8月6日 13時25分

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    ▼▼

    良き哉 良き哉

    坂本 光陽

    2022年8月6日 13時25分

    探偵
  • クトゥルフ

    浅葱亮

    2022年8月6日 14時16分

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    感謝の極み!!

    浅葱亮

    2022年8月6日 14時16分

    クトゥルフ

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