放恣クトゥルフ神話短編集

読了目安時間:9分

エピソード:39 / 99

天なる音色

 彼のフルートが好きだった。音大在学中にソロコンサートを成功させた稀代の天才、音楽の神に愛された才能。そしてなにより彼は努力する、ということを知っていた。  そんなあいつがなぜ卒業コンサートの伴奏者に俺を選んでくれたのかは、わからない。彼のような才能はなかったし、よく言えば万能、悪く言えば器用貧乏でしかない俺だった。ピアノは好きだったけれど、卒業後は音楽教師でもしながら町の小さな楽団にでも所属して音楽を続けようかと、その程度でしかないのに。 「僕は君のピアノ、好きだよ」  そう言ってあいつはいつもほんのりと笑った。天才に認められた、など舞い上がるほど馬鹿でもない。俺としてはただただ不思議なだけ。  むしろ、苦痛でもあった。伴奏するのは楽しくはあった。あの素晴らしいフルートを一番近くで聞くことができる。だがしかし、俺のピアノが彼の邪魔をする。不幸にも聞く耳だけは持ってしまった俺だった。  一層の奮起を誓っても、足らない才能ばかりはどうにもできない。彼が楽しく演奏してくれる、それだけが救いでもあった。 「なんだかね、最近ちょっと怖いんだよ」 「何が?」 「音楽、かな」  練習室でのことだった。練習の合間にふと彼がそんなことを言ったのは。いったい何があいつにそれを言わしめたのか。これほどの音色を奏でる彼に怖いものなどあろうとは俺には到底信じられなかった。 「俺にはいつも以上にすごいとしか言えないけど?」 「そう、かな?」 「あぁ」  うなずく俺に彼は少しばかりほっとした様子だった。何か不安はあるらしい。あるいは卒業コンサートに対する緊張なのかもしれない。  思いながらも内心に否定していた。そんなはずはないと。もっとずっと大きなコンサートさえ成功させた彼に、たかがとは俺には言えないけれど卒業コンサート程度、不安があるわけはないだろう。俺にとっては一世一代の大舞台であろうとも。 「自分の音色が自分の音に聞こえない感じなんだよね」 「わかんないな、その感覚は」 「僕も自分で言ってて、なんか違うんだけれどね」  苦笑する彼だった。そしてもう一度、と練習を再開する。相変わらず素晴らしい、ピアノがまずいばかりに彼の音色が穢されているのでは。そんな不安すら塗り潰すかの音楽がここにある。  ヴァイオリンの有名な曲に「悪魔のトリル」というものがある。作曲家が夢の中で悪魔が奏でる音楽を耳にし、目覚めてのちに書き留めたという謂れがあった。技巧も途轍もなく、ゆえに悪魔と称されもする。  もし、あの曲が本当に悪魔のものであるのならば彼の音楽は神のものだった。天上の妙なる音色、天使が彼に音楽の才を授けたに違いない。彼は夢の中で天使に教えを受けるのかもしれない。そうも感じるほどに。  実際そう言ったとしても不思議ではないような男だった。むしろ男、というのさえためらわれる。男女という性を超越した彼という一己の才能。なのにあいつはフルートから唇を離し溜息をつく。 「やっぱり、音が淀んでる気がするんだ」 「そんな風に聞こえないぞ? もしかして、緊張してるからとかか?」 「違う」  そう返ってくると予想しつつ言った俺に、彼の方も苛立ったような断定的な否定。珍しいことだった。己でそれと気づいたのだろう、彼は小さく笑う。 「ごめん、なんだか苛々して」 「お前の音楽は……口に出すの照れるけど、素晴らしいとしか言いようがないと俺は思うんだけどな」 「……そう、かな?」 「俺にとっちゃ大舞台なんだ。才能の欠片しかない俺を導いて欲しいくらいだ」 「君には美しく聞こえてる?」  もちろん、俺は大きくうなずく。それに彼は安堵して息をついた。そう言ってくれる君がいるから頑張れる、そんなことまで呟きながら。  儚く微笑む彼だった。夢見るように演奏する彼だった。フルートの震え透き通る音色。どこまでも透明で魂の奥底まで染み通っていく。いつ聞いてもなんて演奏だろうと思う。聞き惚れてピアノが疎かになりそうだった。  何度も何度も練習室にこもって合わせる日々だった。毎度彼も不安を抱いてばかりでもない。そのはずだった。あるいは顔に出さなかっただけかもしれないが。  だが。毎日のように合わせていると俺の方が不安になる。妙だ、と感じた切っ掛けはわからない。不意に耳に入ってきた音色。  ――気のせいだ。いつもと同じ、こいつの音楽だ。  内心に言い聞かせるよう呟く。ピアノの音の方がおかしいのでは。自分の拙い演奏が彼の音楽を歪ませているのでは。  そちらの方がずっとあり得ることで、そう思うのは苦笑も漏れるけれど現実的だと俺は思う。けれど。 「やっぱり、変だ……」  唐突に演奏をやめた彼だった。まるでフルートに欠陥があるのではないかと疑うよう楽器を見つめる。その眼差しに怯えを見た気がした。 「変に、聞こえない?」 「いや……」 「勘違いかな、思い違いかなって、ずっと思ってたんだけど……」  何度確認しても音が奇妙だ、彼は言う。フルートを持つ手が震えていたのに俺は驚いていた。それほど怖がっていたのかと。俺には変わらない音楽に聞こえて。  違う。確かに違う、と感じてはいた。俺のピアノのせいだと思うのだけれど。彼本来の透き通る音色ではないような気は、しないでもない。 「いつも以上に俺にはすごく綺麗に聞こえるよ」  だからこそ、そんな風に俺は言う。たぶんきっと、俺も怖かったのだと思う。大丈夫だと言うことで、自分自身を叱咤していたのかもしれない。 「そっか……」 「気に病むなんてらしくもない」 「違うように聞こえるのが、ちょっとね。でも」 「うん?」 「君が励ましてくれるから、僕は頑張れるよ」  淡く微笑んだ彼だった。不意に俺は不安になる。励まして、よかったのだろうか。本心を告げるべきではなかったのか。しかし微笑む彼に言えなくなった。  もし、本音を言ったならば。あいつが怯える気がした。そして、やめてしまうのではないか。彼にとっては卒業記念、俺にとっては最初で最後の舞台。天才の名をほしいままにした彼の伴奏者として、人生最大の名誉と思い出が欲しかった。  ――俺はこいつの伴奏したんだって言いたい。それだけでいい。それだけで音楽人生の達成になる。  今後俺の人生にこれ以上のものは現れないだろう。所詮は音大に入ることができた程度の才能。彼は違う。ここから旅立っていく、彼の音楽はまだはじまったばかりだ。神に愛された音楽家の歩みの一歩の中に俺はほんの少し存在する、それだけでいい。  演奏中の彼は佇まいからして美しかった。性を感じさせない、男性でも女性でもない、言わば天使がそこにあるかのような。口にするには羞恥が勝るけれど、俺の目には音楽の天使が降臨しているかのよう。  半ば目を閉じ、音楽に酔うよう奏でる彼だった。普段ならば。いまは、陰った眼差しに恐れが宿る。一心不乱に演奏すればするほど、彼に人としての存在感が現れるかのよう。  ――まるで。  そうして地上に留まらんとしているかのよう。そんな夢みたいなことを感じて俺は小さく苦笑していた。  それでいて、彼の音色は天上の音楽。酔い痴れるのは俺の方こそ。ピアノが止まりかけるのを叱咤せねばならないほど、美しい。いつにも増して、と感じるほどに。そこに。 「なに……」  ピアノのせいかと思った俺は青ざめる。が、違った。突然に耳に届いた異音。フルートでもピアノでもない。どこからともなく聞こえる異様な音。それなのに、フルートだった。 「いまの」  蒼白になった彼だった。俺は素知らぬ顔をする。もしここで怯えを見せれば、彼が怯える、そう嘯いて。けれど彼は俺にも気づかない様子で震えていた。音そのものに衝撃を受けたかのよう。痛みを感じたよう体を震わせる。 「大丈夫か?」  疲れたか、そんな調子で尋ねた俺に彼は無理をしている、とあからさまにわかる笑顔でうなずいた、大丈夫と。 「何かね、見えたんだ」 「見えた?」 「うん。宮廷、かな」 「王様がいて、家臣がいて、みたいな?」 「というより……玉座にある神、かもしれない。周りには神を慰める音楽を奏でる小神がいて……その音色が、聞こえた気がした」 「おい大丈夫か。ちょっと休憩入れるか。な?」 「ううん、平気。もう少し頑張れるよ」  ほろほろと言葉を紡ぐ彼とその笑顔。止めるべき、思ったのだけれど。宮廷を語る、神を語る彼に恐れを抱いたのだけれど。彼のあえかな笑顔に負けた。  そして、鍵盤を叩く。それがもう奇妙だった。自分の音が自分のそれに聞こえない。これはピアノか。そう言いたくなる。しかし彼はすでにフルートを合わせてきていた。止めるべき、まるで本能のよう強く叫ぶ心の声に、俺は従えなかった。手指が勝手に鍵盤に向かうかのよう。彼のフルートに導かれ、音楽を作り出す。  妙なる、そう言っていい音だった。自分の音色がこれほどなど、はじめてだ。それなのに、異音だった。これは音楽ではない。断じて違う。 「呼ばれてる……」  不意に唇を離し彼は遠くを見やった。それが機会であったのに。止め損なった俺を置き去りにして、再び彼は演奏をはじめた。  つられるよう、ピアノが重なる。俺は鍵盤に向かいながら、ぞっとしていた。彼の音楽ではないのに、彼そのものだった。そして、重なるフルートの音色。 「な……いま、なに……」  唖然とした俺の手が止まった。なのに彼は吹き続けていた。彼のフルートだけが練習室に響く。けれど、重なるフルートの音。ピアノの消えた練習室にフルートの二重奏が。 「おい、ちょっとやめろ!」  立ち上がり、肩に手をかけ。動揺していた俺の指が彼の頬に強くあたる。赤い傷になったのに、うっとりと目を閉じ、しかし震えて青くなったまま彼は奏で続けた。 「やめろ!」  大きな声をあげ、彼を揺さぶる。目を開けた彼のその目に薄く張られた涙が。恐怖に囚われたまま、彼は奏でているのだと嫌でも知った。止められないのだと。俺自身、気を抜くと恍惚と聞き惚れそうだった、逃げ出したいほど恐ろしい音楽なのに、これこそが神に愛された音色、神を慰める音色と。  フルートの二重奏に、気づけば太鼓が入り混じる。それは、原始的でありながら前衛の極みだった。あり得ない音楽ながら素晴らしかった。それでいて退廃と汚濁の表出だった。音楽ではないのに、これ以上なく音楽だった。悲鳴が聞こえる。  ついに彼が演奏をやめた、安堵も束の間。悲鳴は俺があげていた。吹き鳴らされるフルートがいつしかひとつに。頼りなく、だが透明な彼のフルート。ぺたりと床に座り込み、正気をなくし彼は奏でる。その体を揺さぶり、俺はいっそ死にたい。止めるのだった、なにをしても止めるのだった。彼は連れて行かれてしまったのだと、どこかで悟る。彼が見た神の玉座へと。かそけきフルートの音色が、太鼓の響きが俺をも手招く。

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