放恣クトゥルフ神話短編集

読了目安時間:9分

エピソード:54 / 99

マイボトル

 その地質学者と知り合ったのはとある学会でのことだった。以来関係を深めて様々な話を聞かせてもらえるまでになったのだが。教授には不思議な習慣があった。いっそ奇矯と言ってもいいだろう。彼は常に飲まないマイボトルを携えていた。どんなときでもどんな場所でも。それこそ学会での発表の演壇にあっても。 「それは、何が入ってるんです?」  ようやくにそれを聞けたのは知り合ってずいぶん経ってからだった。学会前のホテルの部屋にはやはりボトルが。 「これかい?」  ふふ、と教授は笑う。喉に絡むような、含み笑いのような。その表情にぞっとしなかったと言ったら嘘だ。白々とした眼差し、空々しい声音。教授はいったい。  だが怯むわけにもいかない。記者として同行しているのだ、教授が携えているのならば地質学に関する何かとしか、そのときの俺には思えなかった。 「昔のことだがね」  そう彼は語り出す、本当に聞きたいのかと滲ませながら。無論俺に否やなどあろうはずもなかった。 「鉱物の同定をとのことだったよ」  ゆるりとした声音だった。まるでその日を目の当たりにしているかのような。憧れであり恐怖であり。  ――恐怖?  彼の目に感じ取って俺は怪訝に感じたはず。だがしかし本能とも言える場所が警戒していた、それと知ることなく。自覚もない警戒は単なる悪寒に過ぎなかったが。 「なんだこれは、と思ったね」  未知の鉱物だった、彼は語る。一見は研磨前のオパールのよう、それも黒オパールだ。が、ならば持ち込まれるわけもない。  現に調べてもオパールとはまるで違った。分析器が壊れたのか、思ったほどにおかしな解析結果。正直に言って興奮した、あの日を顧みればそれが間違い。教授は唇を歪めて笑い語り出す。 「なんだこれは」  同定依頼が持ち込まれてから何度そう呟いたかわからない。何度となく日々繰り返す。それほど不可解。これで学会にその人あり、と知られた人物だった。その自負もあった。なのにさっぱりわからない。  ――いったいどこから。  発見場所さえわかっていない、否、知らされなかった。それで同定しろ、というのだからよほどに異質。それだけ重要な発見だったのだろうと思っていたがそれにしても。  偶然だった、その形質を発見したのは。保存に慎重だったせいか、たまたまその日は常温下にあった鉱物だった。しかも居合わせたのは自分ひとり。 「な……!?」  最初は失敗したかと思った。ついで鉱物を紛失したかと思った。眼前にあったのは、黒い液体、軽い粘度があるところを見れば粘体と言うべきか。  ――あるいは!  これは、あの鉱物の形が変化したものなのか、常温で融解するのか。鉱物としては極めて珍しく、かつ融解する既知の鉱物のどれとも性質が合致しない。興奮していた、確かにこれは新発見だと。  ましてそれは、触れると冷たかった。思わず飛び退くほどの冷気。友人が超電動を研究しているけれど、彼に見せたらどんな反応をするか。考えてしまうほどの冷気だった。 「見せるものか」  にんまりと唇が歪んだのを感じる。名誉欲がないなど言わない。同定し、新たな発見者に名を連ねる、どんなに素晴らしいことか、夢想するだけで笑みがこぼれそう。  触れると冷たいその鉱物の変化した物体は、明らかに冷たいだけではなかった。冷たいと感じるとはすなわち熱の移動ではある。自分の体温が冷たい物体に奪われたことで、「冷たさ」を体感する。  だがしかし、物体はそれ以上だった。奪われる温度は通常のそれを遥かに上回る。熱を吸われる、と言っていいほどに。触れ続ければどうなることか予測ができない。  学者として興奮状態にあった。新発見であるという以上に興味が暴走していた。触れ続ければどうなるか、実験を試みてしまうほどに。幸いに同定を行なっているのは自分ひとり、不都合は何もない。 「頼むぞ」  ラットの檻に液化した鉱物を入れた。冷気を感じるのだろうラットは近づかない。このまま一晩置けばどうなるだろう。楽しみにして帰宅した翌朝。 「は……?」  愕然と檻の前に立ち尽くす。ラットが消えていた。そして、物体はひと回り大きくなっていた。  ――食った。  学者としてその感想はいかがなものか。冷静な部分が顔を顰める。しかしもうそう表現するより術がない。頬は赤く、息は荒く。次の実験動物を探しはじめていた。  様々に試した。小さなものばかりではなく、犬まで。そして物体もまた、育ち続けた。それこそ犬ほどまで。これを持ち込んだ人間にも同じものとは思えないだろう、もう。  研磨していないのにオパールのような揺らめきが宿りはじめてもいた。それに魅入られてもいた。そのころだった、夢を見たのは。  はじめはただの夢だった。とろとろとした熱い夢。温度だけを感じたものだった。単に寝苦しいのだとしか思わなかった、当然にして。  それが、誤解であったと知るのは数日後。あれは悪夢のはじまりであったのだと。 「毎晩だ、毎晩」  教授は回想から覚めた目をして俺を見てにんまりと笑った。語る過去のことが現実とは思えない。まして夢とくるならば神経過敏を疑うに足る。 「同じ夢を毎晩、それだけじゃない。進むんだ」 「夢がですか」 「そう夢がだ」  それは鉱物の夢だった、教授は笑う。ぞっと震える手を隠そうとしたか握り込んだがまるで無駄だった、俺には見えていた。 「あれは、鉱物なんかじゃあ、ないんだ」  ひっくと詰まった喉に俺は彼が不安になる。病でも抱えているのではと。それが肉体的なものなのか精神的なものかはおくとして、いずれ病であろうと。 「あれはな、『何か』の一部なんだ、わかるか」 「何か、ですか。なんなんです? たとえばより巨大な岩塊であるだとか?」 「そんな他愛ないものであるものか」  痙攣する笑い声、教授自身の身体。椅子の上で跳ねるよう。それが恐ろしく感じていた。この話題を打ち切ろうかと思うくらいには。けれどまだ記者としての興味が勝る。それを確かめたかのよう教授は更に笑っては続けた。 「一部分である物体は、本体がある。その通りだ。しかし不可解だ。完全に分離した部分であるのに、なぜだ……」 「教授?」 「あれは、な、君。リンクしているんだよ本体とな」  無礼な回答をせずにいるには無言になるしかなかった。その反応は正しい、教授は言うけれど、あるいはこれは狂気なのではないだろうか。狂気に陥った人間は己の狂気を自覚するものなのだろうか。惑乱する俺に教授は気づかないよう更に更にと続け。 「冷たいと言っただろう。冷たさを感じる、すなわち熱の奪取。ならば奪った熱はどうなる。いや、どうしている、と言うべきか。そう、わかるな? 本体だ。あれは本体に熱を送るんだ」  次第に熱狂していく教授の声、エスカレートして叫ぶよう。学会前に喉を傷めるのでは、馬鹿みたいな心配をしているぶん俺も動揺していた。 「熱とはなんだ。エントロピーだ、運動の熱量はすなわち」  興奮しきった彼が語る言葉が正しいのかどうかがわからない。俺はそちらには不案内だ。そして気づく、教授とてそうであると。彼は地質学が専門であって物理は畑違いだ。なのに朗々と、流暢に語られる言葉。 「エネルギー、それはこう言い換えてもいい。生命だと」 「……飛躍しすぎでは」 「どこがだ? 生きているから動く、活動する、そこにエネルギーが生まれる。それをあの物体は奪い本体に送る。送られた本体は自らのものとして蓄える」 「そもそもです。本体ですか、それは奪った熱?で何をするんです。それがエネルギー源ってことですかね」  話を合わせる俺に教授は笑った。ねとりとした粘液質な笑みは、まるで彼が語る物体のよう。思ってしまって寒気がした。 「目論見があるんだよ。あの物体は、熱を奪う。生き物からだけでもなかったんだ。液化している間はすべてから、奪う。わかるか、すべてだ。動物も植物も――鉱物からも」  仰け反って彼は笑った。信じがたいだろう、自分で言ってくれてよかった。信じられるわけがないだろう。もしや彼流の冗談なのか、これは。 「何もかもから熱を奪う。結果どうなる。地球の熱的死だ」  唐突に冷静になった教授だった。真っ直ぐと俺を見る眼差しの強さ。冗談ではない、真実であると語っている目。もう少しで俺も信じるところだったのだけれど。 「そしてな、君。本体が目覚めるんだ。私はそれを毎晩夢に見続けた。あれは……神だ」 「……は?」 「いや神などではない。いいや、神としか言いようがない。邪神が目覚めるんだ。熱を奪い取り続けた末に邪神が目覚める。悍しい触手の塊だったぞ。粘液の塊だった。不定形で鉱物だった。確固とした形があるのに揺らいで定まらなかった。それが目覚めれば」  地球は終わりだ。人類などその時点で生き残っていたとしてもすべてが終わる。地球だけでもない、宇宙の死だ。呟き続ける言葉は最後はぼそぼそと泡のよう。 「そんなものならば捨ててしまえばいいんじゃ?」 「捨てれば熱を奪い続けるだけだろうが、君は馬鹿か」 「あぁいや、その。だったら破壊するとか」 「試さなかったと思うかね。無駄だった。衝撃には極めて強く、そうだな、君にはこう言えばいいか。ダイヤモンドより硬い」  そんな鉱物があるのか。怪訝な俺に教授は気づかないのか「酸をかけてもだめだった、何をしてもだめだった」そう天井を仰いだ。努力はしたのだと語るその姿。正気であるのならば、いいのだが。どこまでが本気でどこからが冗談なのか。俺にはわからない。 「結局な、これだよ」  無造作に持って振ったのは、あのボトルだった。ようやくにその話題であったのだと思い出す始末に飲まれているのを感じては苦笑が漏れる。 「ここにはな、いつも液体窒素が満たしてある。その中にあの物体を保管しているんだ」  常温に置けば即座に液化し、周囲の熱を奪いはじめる、だからだと彼は言う。固化させておけば最低限は問題ないと。ボトルに入るほどなのだろうか。犬ほどに育ったと言っていたのに。 「現在の悩みはな、もし私が死んだらどうしようかということだよ」 「なんです急に」 「信じんだろう、君だって。私の正気を疑っているだろう? 私自身疑っているがね」  だから誰にも託せないのだ、からりと教授は笑った。それはそうだろうと思う反面、あるいはこれはボトルを携えていることに対しての彼なりの皮肉な冗談か。何度も聞かれて面倒になったか。  ――下手な冗談だよなぁ。  研究は面白いけれど話術が得手な人でもない。教授と別れて学会の会場を見に行く道すがら、俺は笑っていた。エキセントリックな冗談を言ってくれるほど信頼してもらえているのだと。真っ青になったのは直後。 「は? 事故?」  俺と別れたあと教授は交通事故で死んだのだと。近隣にいた知人として確認に呼ばれた俺は彼の遺品を預かったのだが。その中にはあのマイボトルが。 「ま、形見だな」  受け取り軽く振ってみる。ちゃぽんと音がした。そして俺はその晩、夢を見た。液体窒素はどこで買えるのだろうか。

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