放恣クトゥルフ神話短編集

読了目安時間:9分

エピソード:68 / 99

父帰る

 俺が中学に入る年に父は失踪した。母のおかげで大学まで進学することもできたし、いい会社に就職することもできた。ようやく楽をさせてやれる、思った矢先に病気で亡くなった母のことだけがやるせない。  本当にどれほど苦労させてしまったことか。高校進学など必要ない、働くと言った俺に勉強はしなさいと微笑んだ母、バイトで家に金を入れようとしたら「たまにはお友達と遊んできなさい、人生は一度だから」と笑った母。  だからこそ、失踪した父が許せない。あの男がいれば母は死ななかった。あんな苦労ばかりで楽しいことなんて何もない人生を送らずに済んだ。  そう思う反面、否、だからなのか。父親という存在に憧れはある。もし父がいたならば俺と母の生活はどんな風であっただろう。会社から帰ってきた父と学校のことを話したりしたのだろうか。母は病気なんかせずに笑っていただろうか。父を思うとき恨みと憧れが相半ばしたなんとも言えない感情にさらされる。  母が亡くなり、ようやく三年が経つ。もう三年かとも思う。まだ三年かとも。自分のことにだけ使う時間というのにまだ慣れない。給料日には「母さんに何か……」呟いてはもういないのだと毎回のように思う。  実家も処分してしまおうか。悩みながら片づけていた。母の遺品は見るのもつらい。こまめな人で日記をつけていたのを知ったのも死後だ。ぱらぱらと読めば俺のことばかり。学校でいい成績を取った、それより楽しそうな顔が嬉しかった。アルバイトでケーキを買ってきてくれた、泣きそうになった。そんな文章の数々。俺の方が泣きそうだ。  まだ他にもあるかもしれない、思って本格的に家の中を探してみる。そうして見つけたのは意外にも父の日記だった。母が処分していないことにこそ驚く。あんな男でも母にはやはり夫だったのだろうか。 「子供じみてるな」  母を取られたような嫉妬にも似た感情にはつい苦笑が。ついでとばかり卑怯な男の日記を瞥見してみる。いったい父親が何を考えて失踪したのか、母も語ったことがなかった。 「は……?」  だがそこに記されていたのは常軌を逸したとしか思えない文章。この世ならざる場所から顕現する神々だの宇宙の中心に坐す無知全能の神だとか。小説家だったのか、俺の父親は。そんな話は聞いたことがない。  それに、と背筋に痺れを覚えていた。これは、小説のアイデアを書き留めたものではないのだと。事実だとは思いたくもないが、信じられもしないが。 「なんだこれ」  日記にはそうして父がいわゆる邪神信仰に陥っていく姿が如実に描かれていた。自分でも深みにはまったと理解していたのだろう父。ゆえに行方をくらます、と。日記はそこで途絶えている。 「馬鹿な」  まるで母と俺のためのようではないか。そんなはずがあるか。父が失踪したことで母はどんな苦労をしたと思っている。詰りたかった、眼前に見据えて詰りたかった。もしいまここにいたら殴っていたかもしれない。  それは偶然なのか、必然なのか。連絡を受けたときには悪寒がした。  酷い状態で行き倒れていた父は保護され、入院しているらしい。本人にも経緯はわからないのか語らないのか、病院も把握できないまま加療はしているものの係累は俺しかなく連絡をしたと困惑する事務員。こちらで面倒をみる気はないと返答したけれど手続きのために来院してくれと言われては仕方ない。  ――まぁ、一度くらい。  会っておくか。入院中の男を殴りつけるわけにはいかないだろうけれど、恨み言くらいはたっぷり聞かせてやるのもいい。  そうして訪れた病院で父は死にかけていた。記憶の中の父は大きかった。けれどいまはシーツに膨らみを感じないほどげっそりと痩せて骨と皮ばかりとはこういうことを言うのだろうと思わせる。 「……来たか」  枕から頭も上がらないらしい。それなのに爛々と目だけが光っていた。気味が悪い、など父親に思う俺は人非人だろうか。 「あんたのせいでどんなに母さんが苦労したと思ってる」 「知ってる。だがな、俺がいたら母さんもお前も死んでたぞ」  にぃと笑った気持ちの悪い唇。ぬたりとぬめってそこだけが別の生き物のよう。あまりの気色悪さに詰る気も失せる。そんな俺に父は目顔でベッドサイドの物入れを示した。 「なんだよ」  文句を言いつつ開けて驚く。そこには更に鍵つきの金庫が。指先で招かれて耳元で暗証番号を囁かれる。周囲には誰もいないというのに。父の警戒ぶりが訝しい。言われるままに開けて拍子抜けした、入っていたのはただの本とあれば。 「俺が書いた本だ――」  それだけ言って父は目を閉じた。精根つき果てた様子にぽかんとする。これを渡すためにわざわざ係累だと明かして呼びつけたとしか思えない。様子を見に来た看護師に促されるまで父の側にいたけれど、目覚めることはなかった。  我ながら人がいいとは思うが母の教育の賜物ということにしておく。結局、俺は父の面倒をみることになっていた。入院費用も馬鹿にならないのだが、とりあえず他人のふりをするのも気分が悪い。  あの本も手元に置いていた。どうにも流通したものではないらしい。奥付があるべき場所には何もない。私家版といえば聞こえはいいが同人誌とも言える。否、同人誌であっても奥付くらいは入れるらしいが。  怪訝な思いが俺の手を動かす。父には恨みしかないが、最初で最後の一冊ならば俺が読んでやるしかないだろう、そんな言い訳をしつつ。憧憬と憎悪がない混ぜになった感情が俺に本を開かせた。 「やっぱな」  失踪前の日記はすでに読んだ俺だ。案の定というべき書物でしかない。そこに記されていたのはあり得ない神々。 「なにやってんだ、あの馬鹿は」  こんなもののために俺たちを捨てたのか。舌打ちをして母の遺影を見る。仏壇は母が「辛気くさくて嫌よ」と言っていたからサイドボードに母自身が気に入っていた写真を飾ってある。写真の中の母は変わらず笑っているばかり。 「母さん、あの男のどこがよかったんだよ」  こんな馬鹿なことに人生をかけて、俺たちを捨てて。あの男のせいでつらい思いばかりして。  いっそ笑ってしまうような話ばかりが描かれている。あの日記にあったよりいっそう鮮明に。だんだんと自分の頬が引きつっていくのが自分でわかる。  馬鹿らしさではなかった。日記を読んだときにも感じた悪寒。全身に鳥肌が立ち止まらない。いつまでも怖気を覚えたまま。  鮮明にすぎる描写はあたかも見てきたかのよう。あの男がか。父はこの邪神を目の当たりにしたのか。あり得ない、思っても想像してしまう。もし父が作家であったのならばとんでもない逸材だったろうに。  気づけば読み進め、気づけば吐いていた。トイレに駆け込んで腹の中身をぶちまけて笑う。何をしているのかと。たかが本を読んで吐くとは。  グロテスクな描写というわけではなかった。触手だの粘液だのと書かれてはいるけれど、それがもたらしたものではない嘔吐感。俺の肉体がこれ以上を読むことを拒絶したとでも言えばいいのだろうか。  眩暈のようだった。優れた、もしかしたら単なる事実を記しただけかもしれない描写のせいで俺まであり得べからざる神々を、悍しい邪なる神々を目にした気分。浮かんだまま戻る気配もない鳥肌が内臓にまで及んだ心地だった。  会社でも心配されるほど窶れてしまっていた。父のことは隠し立てしていたわけではないから、仲のいい同期や上司や。みなが察して気遣ってくれている。  ――違うんだ。  本当は違う。父親そのものより、あの本が。さして厚くもない本なのに読み終えることができない。ひとつ描写を読むたびにトイレに駆け込んでいればそんなものだ。それでも読み続ける己が訝しかった。  ――嫌な気分だな。  こうして父が邪神信仰の深みに堕ちていったのかもしれないと。俺のように止まることもできずに。理解していても帰宅すれば本を手にした。  そんな折、病院から緊急の連絡を受けた。父が消えたと。率直に言えばまたか、と。一度失踪した男ならば不思議は。思ったところで愕然とした。  ――そんなはずない!  あの体で失踪できるものか。面会に行くたびに衰えていく父だった。シーツの膨らみなどもうほとんどないようにも見えていたのに。  病院でも大騒ぎになっているらしい。もしこちらに来たら即座に連絡を、と言われたがあえて言われるまでもない。この家には入れたくない、ここは母と俺の家だ。警察も捜索してくれているらしいけれど、野垂れ死ぬなら勝手にすればいい、最期まで他人に迷惑をかける男だと忌々しかった。  舌打ちをしつつ傍らに携帯を置いては手持ち無沙汰。溜息ひとつ、本を開く。まだまだ記述はいくらでもあった。そこに目が止まったのは偶然にしては気味が悪い。 「知識の守護者……?」  邪なる神々の知識を得ようとした人間が古来どれほどいたことか。それが公になっていない理由を父は書く。真実を残した書物には、守護者が宿るのだと。書き手の意思かどうかは不明ながら、あるいは邪神の意図か。知識を得んとするならば守護者こそ乗り越えるべき障害なのだと。 「こんなんばっかかよ」  悪態をつきつつ、吐き気が止まらない。守護者である魔物、なのだろうか。それに食い殺される人間の姿。挿絵などないのにまざまざと見えてしまう。思わず口許を押さえていた。 「は……?」  ぽかんとした。やっと思い当たった。知識を得ようとした人間。知識の守護者。食い殺される。そして記述は続く、消えると。それは喰われてなくなるという意味ではない、まさに消える、この世から存在を抹消されるに等しいと。 「まさか――」  シーツに埋もれていた父。薄くなっていく男。痩せ細っていただけなのか、あれは。 「――喰われ、た?」  ぞっとした。こんな記述を俺は本当に信じるのか。嘲笑う自分がどこかにいる。これが事実でなくて何が事実だと喚く自分がいる。  物音がしなかったらそのまま混乱していたかもしれない。はっと顔を上げて見やる、もしや父かと。懐かしい自宅に最期に帰りたい、そんな人間らしいことを思ったのだとしたら。 「叩き返してやる」  この家には入れない、強い意志が俺に力を与えたよう。さっと立ち上がり、転んだ。 「え?」  いま、何が起きたのか。つまずくようなものは何も。視線を向けて瞬いた。そこには何もない、つまずくようなものがないのではない、俺の足先がない。  ぞぶり、音がした。自分の肉体の中から聞こえた。足首が消えた。痛みはない、ただ消えていく。 「なんで!?」  俺は知識を得ようなど。叫んで知った、読んでしまったではないかと。何もかもあの男のせいだ、勝手に死んでくれればよかったのに。腿まで消えた、腕は気づいたらなかった。 「母さん」

コメント

もっと見る

コメント投稿

スタンプ投稿


  • ありちゅ

    巽☆

    ♡1,000pt 2022年2月18日 20時56分

    ※ 注意!このコメントには
    ネタバレが含まれています

    タップして表示

    ▼▼

    鳥肌立った・・・

    巽☆

    2022年2月18日 20時56分

    ありちゅ
  • クトゥルフ

    浅葱亮

    2022年2月18日 21時55分

    ※ 注意!この返信には
    ネタバレが含まれています

    タップして表示

    ▼▼

    うれしい!

    浅葱亮

    2022年2月18日 21時55分

    クトゥルフ
  • 兵馬俑

    飛鳥 瑛滋

    ♡500pt 2022年2月20日 3時20分

    父親が「やっぱりあの世で親子3人で仲良く」と考えて、息子に本を渡したのだとしたら、一番怖いのは人間になってしまう。

    ※ 注意!このコメントには
    ネタバレが含まれています

    タップして表示

    ▼▼

    飛鳥 瑛滋

    2022年2月20日 3時20分

    兵馬俑
  • クトゥルフ

    浅葱亮

    2022年2月20日 15時03分

    ありがとうございます。うっかり呼んでしまったのか、それとも理解の上で渡したのか。にやにやしながら楽しんでもらえたら嬉しいです!

    ※ 注意!この返信には
    ネタバレが含まれています

    タップして表示

    ▼▼

    浅葱亮

    2022年2月20日 15時03分

    クトゥルフ
  • 女魔法使い

    佳穂実利

    ♡400pt 2022年2月18日 23時28分

    ※ 注意!このコメントには
    ネタバレが含まれています

    タップして表示

    ▼▼

    見事なお点前で

    佳穂実利

    2022年2月18日 23時28分

    女魔法使い
  • クトゥルフ

    浅葱亮

    2022年2月18日 23時40分

    ※ 注意!この返信には
    ネタバレが含まれています

    タップして表示

    ▼▼

    感謝の極み!!

    浅葱亮

    2022年2月18日 23時40分

    クトゥルフ
  • メタルひよこ

    伝書梟

    ♡100pt 2022年2月23日 15時32分

    ※ 注意!このコメントには
    ネタバレが含まれています

    タップして表示

    ▼▼

    きゃーーーっ!

    伝書梟

    2022年2月23日 15時32分

    メタルひよこ
  • クトゥルフ

    浅葱亮

    2022年2月23日 15時56分

    ※ 注意!この返信には
    ネタバレが含まれています

    タップして表示

    ▼▼

    いえーい!

    浅葱亮

    2022年2月23日 15時56分

    クトゥルフ

同じジャンルの新着・更新作品

もっと見る

読者のおすすめ作品

もっと見る

  • 私の世界。

    貴方と私、同じ部分もあるかも?

    42,180

    120


    2022年2月13日更新

    日頃から思った事を。 少し描こうか? 詩と言うには拙い言葉でも… 誰か僅かに思ってる人へ。 私だけでもない。 誰の為でもない。 何か判らない心すら描こうか。 今のままで良い言葉へ。 全て自由と言う名の言葉の世界へ。 だからこそ、残そうか。

    読了目安時間:13分

    この作品を読む

  • 異世界で非殺生主義を貫くのは無理!?

    彼は誰も殺さない。いや、殺せない。

    7,550

    0


    2022年9月28日更新

    楽しくも平凡な人生を歩んでいる高校生の 赤池 真司(あかいけ しんじ)は、普段通りに登校する。今日もまた日常が始まると思った彼だったが、STの時間に割り込んで来た男の一言で教室は一変する。 「お前ら、異世界行ってこい。」 変化する環境、クラスメイト各々が 力 を手にする中で、真司が得たのは 非殺生主義(ノーキルノーアラート)という、縛りにも近いものだった。 敵を倒すどころかその日の食事を手に入れるのにも難儀するこのチカラで彼はどう生き抜くのか、そもそも何が目的で、異世界送りにされてしまったのか。その理由に、たどり着くことはできるのか? つー感じのやつです。大層な事を言っておりますが あんまり期待せず、暇潰しにゆるーり見て下さい。 投稿ペース不定期で、一年ほどサボってましたが、最近復活しましたので是非是非ご覧下さい。 追記!初期に鈴城出てました、死ぬほど申し訳ないが初期鈴城は田中君になりました。二年サボってた弊害だ。すません。

    • 残酷描写あり
    • 暴力描写あり

    読了目安時間:4時間35分

    この作品を読む