放恣クトゥルフ神話短編集

読了目安時間:9分

エピソード:17 / 99

組み合わせ

 新型インフルエンザのパンデミックが起きていた。症状としては大差はない、致死率も既知のインフルエンザ並みだ。ただ、酷い幻覚を見るのだけが違った。熱譫妄というのではなく、唐突に訪れる白昼夢にも似た幻覚だと言う。  私があえて幻覚、と言うには理由がある。患者が見た多くは、到底理解し得ないものだった。液体金属の滾る海、円錐状の建物が立ち並ぶ都市。眩暈のするような――ある患者は「非ユークリッド幾何学的な」と言った――曲線で構成された都。月面に蠢く化け物ども。  患者たちはそんな幻覚を目の当たりにしていた。異界を見ている、と言いたいほどに。  それを知っていたのには理由がある。私は医師ではない。遺伝子関係の研究者、と言っておく。私は私が知ったものが信じられないし、信じたくもない。だからこそ、これを発表する気もない。ここに記したことにあえて虚実取り混ぜてもあるのはそのせいだ。  私が知り得たのは、兄のせいだった。兄もまた研究職であって某製薬会社でこの病気のワクチン開発をしていた。ウイルスからDNA解析をしている、と聞いている。インフルエンザならば早晩ワクチンはできるだろう、としかそのときの私は思っていなかった。 「ちょっと見てくれるか」  そう言って兄がやって来たのは深夜と言っていい時間帯。私もまだ研究室にいたから問題はないけれど、こんな時間に兄の訪れとは嫌な予感がしたものだった。まして、ひどく青白い顔の兄であれば。 「いいけど。なに?」 「まず見てくれ」 「いいけどさぁ」  渡されたものにざっと目を通し、顔を顰めた。ずらりと並んだ文字列はDNA解析の文書に違いない。いまここに兄が持ってくる、ということは開発中のそれであり、兄の倫理観を疑う。 「ちょっと……これって」 「あとで聞く。お前の所見を聞かせてくれ」 「はぁ?」  己の所業を認めたも同然の兄に腹を立てながら私は再度書類に目を落とす。ふと、眉根を寄せた。解析されていたものに見覚えがある。インフルエンザならば当然ではあるのだが。  けれど、そこには別のものも。確かにインフルエンザウイルスのDNAも記されてある。それから、ポックスウイルスも、エボラウイルスも。どういうことだ。兄は何を示唆しているのか、何を聞きたいのか。  尋ねてやるのも腹立たしくて、私は書類を精査していた。何かがあるからこそ、持ってきたのだからと。ほどなく理解した。 「なんだ、これ……」  いままでどうして気に留めていなかったのだろうか。それらのウイルスにあるDNAの類似点。それぞれが似ているのではない。  私は、それを見たことがあった。何度も目にした。 「お前もそう思うか」 「これどういう――」 「知るか。俺は、なんか嫌な感じがして、本職の学者ならなんかわかるかと思って持ってきただけだ」 「そう言われても……」 「ヒトDNAはお前の領分だろう」  その通りだった。だが、それとの類似点を、どうしてこんなウイルスに見るのか。 「いや、ヒトDNAの何割かはウイルス由来だから。そんなこともあるかもしれない」 「本当にそう思うか」 「だいたい塩基だぞ。四つの組み合わせでなんでもやってるんだぞ。そりゃ、見たことある組み合わせくらい、出てきて不思議じゃない」  言い募りながら私は自分を疑っていた。口にしたことは事実ながら、これは、違うのでは。そう、疑っていた。単なる組み合わせの類似では済まない何かを。  いま目にしている文書が、もし事実ならば。私が見ているこれは、いったいなんなのだろう。足元が揺らぐような不安感だった、それは。  なんとか兄を言いくるめ、こんな危ない橋を渡るんじゃないと言いさとし、私は自分の研究に励む。その中でもずっとあの書類が頭から離れないでいた。 「おい、開けてくれ!」  またも夜中にやってきた兄だった。が、先日と違って声には緊迫感がある。無言で室内に入れてやった私に礼を言うより先に兄は振り返っては背後を窺う。 「また危ないことしたのか」 「やった。後悔はしてる」 「おい」  呆れた私に兄は黙ってスマートフォンを突き出した。なんのことだ、と眉を顰める私に兄はひとつの動画を見せてきた。 「なんだこれ」  視点も定まらず、ゆらゆらと動くそれは、明らかに盗撮したものだった。室内は研究室と思しい。背景から察するに動物を使った実験設備だろう。  動画の撮影者が、何かを覗き込む。胸ポケットにでもスマホが入れてあるのだろう。ぐらりと画面が揺れた。  そのせい、と思いたかった。撮影者が見たのと同じものを私はいま見ている。率直に言えば、理解ができなかった。これはなんだ、と兄に問いたくなくて観察し、理解する。  マウスだった。おそらくはマウスだったもの、だった。半透明の黒い粘液に塗れた腫瘍の塊、そう言えば少しは実態が伝わる。マウスにしてマウスではないものに成り果てた実験動物の成れの果て。跳ね回るたびに粘液が飛び散った。 「なんだよ、これ。どういうことだ」 「感染してるんだ」 「はい? ちょっと待て。何にだ!?」  聞くのを恐れた私だった。兄がいま開発しているのはなんだったか。この蒼白な顔は何を意味しているのか。まじまじと兄を見つめる。痙攣するよう唇が動いた。 「わかってんだろ。新型インフルエンザだ」 「待て。これ本当にインフルエンザなのか。確定か」 「そういうことになってる」  どういう意味だ。問うより先に「昨日からP4になった」兄は言った。インフルエンザで確定ならばおかしい。逆説的に兄の会社の上層部は「違う」と知っているのでは。ならばこれは、なんだ。 「同じウイルスなんだな?」 「それは間違いない」 「なのに……」 「人間に感染したときと、ウイルスの振る舞いがまったく違う。お前は、何か知らないか」 「振る舞いが違う程度はよくある話ではある」  が、これはそんな問題ではない。そもそも、と私は思う。もし、これが、本来的にこのような振る舞いをするウイルスであるのならば、すでに自然界で発生しているはずだ。動物に広がり、既知のものとなっている。たとえ新型であろうとも。  それなのに、実験環境でだけ。そんなことなどあり得るのだろうか。兄の壮大な冗談であるのならばどれほど。震える兄の手を見ては言えなくなった。 「これ、検体、手に入らないか」 「難しい」 「やってくれよ。ここまで危ない橋渡ったんだろ」 「……お前なら、そう言ってくれると本当は期待してた」  かすかに口許を引き攣らせた兄だった。こんなものはどう考えていいかすらわからない。怖い。兄は呟く。病に対する恐れではなかった、と私は思う。兄はただひたすらに怯えていた。  たぶん、私もだ。あれほどの腫瘍の塊だ、癌化していると考えるのが理に適っているのだが、それにしてはあまりに元気に活動していたマウス。生ける肉塊が脳裏にこびりついていた。  真っ当に研究しているふりをせねばならないほど動揺していた。それほど、あのマウスは悍ましかった。兄が置いていった動画をひとりになってから何度も再生した。せめて、既知の疾病である何かを見つけたいと願ってのこと。  見つかるわけはない、どことなく悟ってもいた。  そして、見つけたのは別のものだった。拡大し、一時停止し、私はマウスであった腫瘍を観察する。見ているだけで吐き気が込み上げてくるなど、珍しい。一般人からは想像もできないようなものを見慣れた目であるというのに。  迫り上がってきた唾液を無理に飲み下し、不意に気づいた。一塊であるように見える腫瘍だったが、けれど違う。盛り上がりは複数あり、下部で繋がっているように見えていた。それが過ちであり、独立した複数の腫瘍はひとつひとつが蠢く。一時停止が解けた瞬間に私はそれを眼前に。よもやと思って再度確かめる。腫瘍は間違いなく蠢いていた。まるでそれ自体が生き物であるかのように。  研究者の恥だと思う。私は水道の下に駆け込んで嘔吐した。酸っぱいものが何度も迫り上がってきては喉が焼ける。吐くものがなくなり、胃液だけになってもまだ嘔吐は止まらなかった。  このまま兄が来なければいい、検体を密かに持ち出すなどあってはならないし、できるものでもない。失敗してくれ。願う私の元に兄が来た。ひどく明るく振る舞って、馬鹿騒ぎをして帰って行った。居合わせた研究者たちが苦笑する。私ひとり空元気とわかっていた。  何も言わずに兄はデスクに小さなものを置いて行った。一人になってから私はそれを解析しはじめる。深夜にひっそりと行なっていたから時間ばかりかかった。 「そんな、馬鹿な」  なんの見間違いだ。否、兄が間違えたのか。そこに示されたのは、間違いなくヒトのDNAだった。ぞっとして、己の錯誤を探すよう、それを凝視した私は息をつく。  私の間違いだった。あまりに類似しているせいで見間違えた。これはヒトではない、酷似しているが、違う。安堵し、それから私は震えた。 「これ、は……。そんな」  酷似しているが別物。つまりこれは、件のウイルスのDNAだ。ならばなぜ、これほどヒトに似ている。ほぼ同一と言って差し支えないほど似ているなど。 「ウイルスだぞ。そんな話があるか」  笑い飛ばすには、真に迫りすぎていた恐怖。違うのに、同じで。私の耳に蘇る病状。新型なのに既知のインフルエンザのような症状、と。それは、人間に感染したからではないのか。このウイルスがヒトに酷似したDNAを持っているからこそ、症状に差異が少ないのでは。  深夜の研究室で私は自分の体を抱いていた。この結果。あのマウス。人間に感染した症状。何度となく自らの妄想を否定する。  ――このウイルスは人間のアーキタイプなのでは。  あの腫瘍の塊が。蠢く異質な化け物のようなあれが。噛み締めた唇に痛みを感じ、口の中に鉄の臭いが満ちる。あの腫瘍も鉄錆びた臭いがするのだろうか。 「疲れてるんだ。ずっと籠もりっぱなしだったし」  兄も錯乱気味になるほど疲れているのだろう。パンデミックが起きながらいまだ有効な治療薬もない。来期に備えたワクチン開発も進んでいないと兄は言っていたではないか。  だがしかし、あれが人間の原型であったのならば。  感染する以前の問題だろう。遠からずこれは収束する、例年のインフルエンザより早く。  強い幻覚が見せる異界のような景色とあの肉塊と。それ自体が神の一手にも感じられる。いずれにせよ過労からの妄想だ。あの悍しい肉塊と人間が同種であるなど。  休憩室で味のしない缶コーヒーを飲みながら冷静さを保とうとする私の耳に消し忘れのテレビのニュースが。 「インフルエンザもほとんど終わってきましたね」  にこやかなアナウンサーの声に私は缶を取り落としていた。

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