水の底

 公園に紫陽花が咲き乱れている。  今、灰色の空の代わりに辺りを照らしている彼らもあと数日もすれば、その亜麻色に染まる花弁の骸だけ残して見頃を終えてしまうのだろう。  足を止めたのは、歌が聞こえてきたからだ。  控えめで囁くような、みんなに向かって歌っているようで、秘密ごとを誰にも聞かれたくないような声。  ――僕の歌だ。  誰も知らないはずの、名波が自身の世界のためだけに作った歌。  あの日、水族館で口遊んでいた歌。  歌っていたのは、呪いのように名波を惹きつけていた声。――「彼女」の声だった。  歩を速める。砂利一粒一粒に、一歩を邪魔されているように感じる。  知りたい、知りたくない。  越えたい。嫌だ、留まっていたい。    花影に遮られていた風景が突然開けた。  その瞬間、名波は嫉妬も羨望も期待も絶望もないところに立っていた。 「不思議だな。君だって、初めて会った時から知っていた。だけどまるで今まで知らなかったみたいなんだ」  かなたは、ギターの代わりにスケッチブックを抱えてベンチに座っている。  スケッチブックはそこに在ることが当たり前のように、かなたに抱えられ、誇らしささえ滲ませている。 「ずっと、答えを探していたの」 「何の?」 「わかんない」 「……それは見つかった?」 「言葉にしようとした途端、逃げていくの。心のなかには確かに在るのに。あなたに伝えようと思っていたのに。ただ、つかめたのはこれだけ。  『今日は変わっていく。だから、失っていくことに、今あることが無くなって全部意味のないように感じてしまうこともあるけれど、怖がらなくて良いんだよ』きっと」  頼りなさげにかなたは微笑んだ。  どうしてこんなに寂しそうなのだろう。 「僕はいつも君に与えられてばかりだ」  勝手に引いていた境界線の向こうは、太陽にも照明にも照らされていないのに死にゆく鮮やかな紫陽花がかなたを守っているようだ。この色たちも名前を探せば「青」や「紫」だけではなく色んな呼び方があるのだろうか。  名波は一歩、かなたに歩み寄る。 「知っていた? 似てるんだよ、私たち」  生きていくのが怖くて音楽を辞めた  生きていくのが怖くて音楽に縋った 「臆病なんだね、僕たちは」 「そう、臆病なの」  雨が降ってきた。名波は持っていたビニール傘をベンチに座っているかなたに差した。  震える唇で、 「好きだよ、君の歌が」。  それが今言える精一杯。  本当はそれさえ包む想いがあるかもしれないけれど。今は紫陽花に邪魔されたくない。  かなたは微笑むだけで、スケッチブックを名波に差し出した。  白いページが沢山続いて、でもその先に彼女が名波に見せたい絵があると、彼は確信していた。  最終ページには二人の居る公園、紫陽花が一面に描かれていた。  上手いとは決して言えないが、確かに刻まれた、「今」の色。  利益を探り合う出会いしか、この世界には無いと思っていた。  今、名波は、かなたとただ、一緒に居たいと思っている。たとえそれが有限でも。  雨が絵の上に一粒、二粒、零れ落ちた。 「この絵は、雨に濡れて、初めて完成するの」  スケッチブックが淡く滲んでいく。青が、水の華が、広がっていく。  あの日、名波とかなたが出会った、揺らぐ水中の青だ。  小さな苦い絶望を飴玉のように口の中で転がした。  できることならこの苦さも含めて、今を留めておきたい。  涙か、雨か分からなかったから、名波は笑った。  かなたも泣いているみたいに笑った。  二人とも泣いていた。そして笑っていた。  姿はアクリルガラス越しのように、ぼやけて見えない。  それでも確かに在るのは、互いの波形。    ここはきっと水の底なのだろう。

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