第三話:秋

 彼の好きな所を数えたら、日が暮れると思う。  結論から言うと、私とキースさんは友人として非常に親密になった。何故なら彼は私の帰り道に大抵現れて、無邪気に話しかけて来たからだ。しかしそれを拒めない時点で、私も一因と言えるかもしれない。私達は夕刻にほんの少しだけ話して、私の門限が近くなるとすぐに帰宅した。互いの両親の目を忍んでの交流はいつもほんの刹那だが、毎日積み重ねればそれは膨大な時間になる。その中で彼がお雇い外国人の息子である事や、英国から来た事、今年十七歳になる事等を知った。随分背が高いし顔立ちの落ち着きからもっと年上だと思ったのだが、私と同い年だとは予想外である。そうしたやり取りの中で、私は彼に日本語を教え彼は私に外国語を教えた。互いに語学を学び合い、非常に気安い関係になった自覚がある。実際の所、学校の同級生達より彼との会話の方が楽しかった。  キースさんの父は大学の講師で、お雇い外国人だ。対して私は大名華族の一人娘。もしかしたら、いつか私達の関係は明るみになるかもしれない。いつか非難されるかもしれない。そう考えると尚の事、関係を解消する気にならなくなった。いずれ引き裂かれるかもしれないなら、後悔はしたくなかった。まだ彼と一緒にいたかった。  そして彼と出会ってから、夏を越え秋に至った頃。私はあろう事か、キースさんの家にお邪魔していた。それも互いの両親に内密で。彼のご両親は今二人で街に出かけており、女中さん達も今日は休みらしいので見つかる事は無いはず。私の両親が知ったら、婚前の男女のする事ではないと激怒するであろう。でも弁明させてほしい。私が彼の部屋に招かれたのは、邪な気持ち故ではない。純粋な知識欲なのだ。 「これがタイプライター……!」 「……触る?」 「え、いいんですか?」 「凛子さんは、特別」  彼の微睡みを含んだ目が柔和に細くなって、ふふっと軽い息遣いで微笑まれる。私は若干興奮気味にありがとうと返して、目の前のタイプライターの文字盤にそっと触れた。温かみのある赤みがかった木の机の上に、黒と金の色調が鮮やかなタイプライターが鎮座している。昼の明るい陽が窓から射しこんで、一目で緻密な作りだと分かった。選択科目で外国語を習っているので基本的なアルファベットは理解できる。しかし配列がABCの順ではないので、文字盤を見て少し混乱した。このタイプライターはキースさんの物で、日本に来る前にお父様からお古を譲り受けたらしい。すぐに使えるよう、傍らには紙の束が無造作に置かれていた。  以前キースさんからタイプライターの存在を聞いた時、見てみたいと思った。異国の機械には素直に興味があったし、それを使う彼も見てみたかった。でも彼の持ち物だから、見せてほしいなんて強請ったらきっと困らせてしまう。なのでその気持ちを口に出さずにいたら、全て見透かしたように彼が言ったのだ。「見せてあげる」と。そうして流されるままに、日曜の休日に彼の家にお邪魔していた。 「素敵……」 「使ってるの、見る?」 「! 是非!」  どうやら使う所を見せてくれるらしい。キースさんがタイプライターの目の前の椅子に腰を下ろす仕草すら、いつもより颯爽としている気がする。それくらい私の期待は膨らんでいた。すると彼は近くにある紙を一枚手にとって、慣れた手つきでタイプライターに取り付けた。それから指で文字盤を自然に打ちつけ始めて、入力するたびに堅い音がカシャカシャ響く。興味深くその動作を見ていると、やがて彼の手が止まった。そして紙をタイプライターから取り出して、こちらに見せてくれた。 「本当に書いてある……! 綺麗……」  整った英文がきっちり印刷されていて、その精密さに惚れ惚れしてしまった。キースさんはそんな私を見て、もの柔らかに微笑んでいる。 「これ、どんな意味なんですか?」  私の質問に、彼は少し言葉選びに迷いつつ答えてくれた。『一日に一個のりんごは医者を遠ざける』という、英国のことわざらしい。りんごは栄養価が高いからこそ生まれた言葉だろう。勉強になるなぁと思いつつ、紙に書いてある英文を読み直す。所々分かる単語で解読していると、唐突に彼が問うてきた。 「凛子さん、使う?」 「え」  その発言につい驚いて、目を見開きつつ椅子に座る彼を見下ろす。使うとは、もしやタイプライターの事だろうか。だとしたら恐れ多い事この上ない。 「私、使い方知りません……!」 「ここ、打つだけにする」  キースさんは少し得意げな顔で文字盤を指差して、席を立った。彼の視線が私を座るように促して、咄嗟に首を横に振る。でも彼はくすくす笑うばかりで、どうしたものかと途方に暮れた。彼は私の返事を聞かぬまま紙をタイプライターに仕込み始めた。なんだか私が使う事が確定しているような流れである。 「このタイプライターは、キースさんがお父様から貰った大切な物でしょう? 私が使っていいのですか」 「……凛子さんが壊しても、ゆるす」 「……なら、壊さないよう頑張ります」  そこまで言ってくれるなら、と腹を括る。そして椅子に腰かけて、タイプライターと相対した。しかし、いざ英文を作成するにしても何も浮かばない。まずは一人称のIを入力しよう、そう思い恐る恐る指を伸ばす。……鍵盤の中からIを探して押すと、カシャンという入力音がキースさんの部屋に響く。それがあんまりにも大仰な音響で、思わず肩が跳ねた。見ている分にはとても格好良かったけど、いざ自分が使ってみると動悸が止まらない。助けを請うように傍らに立つ彼を見上げた。すると彼の青藍の虹彩が、仄かな揶揄を含んで笑っていた。よほど私の反応が面白かったのだろう。でも既に私はこの機械を使う気がすっかり失せていて、困り果てながら席を立った。 「やめる?」 「はい……やっぱり、私にはまだ早い気がします……」  彼の厚意を無下にした気まずさに、少し落ち込んだ。でもキースさんは決して気分を害する事無く、一言「わかった」と返事をして微笑んだ。その笑顔に慈しみのような優しさがあって、私は密かに気持ちを持ち直した。彼はIとだけ入力された紙を渡してきて、何気なくそれを受け取った。 「……アルファベットのIと、漢字の愛は読み方が同じなんですよね」 「……?」  ふと思った事を呟くと、意味を理解していない彼が首を傾げてこちらを見た。私はなるべく簡易な単語を選びながら、解説を始めた。 「愛してる、って言葉がありますよね」 「……うん」 「その愛と、英語のIは読み方が同じでしょう。その事が素敵だな、と思ったんです」  これは授業で英語を習った際、すぐに思い浮かんだ感想である。アイは愛とも読み、「私」とも訳せる。全く違う言語故に、その偶然に一人で感心していたのである。 「……なるほど」  私の話を聞いたキースさんは、顎に手を当てて考え込んでいた。あまりにも思案しているものだから、今度は私が首を傾げてしまった。  キースさんのご両親が帰宅する予定の時刻まで、まだ時間があった。だから私は彼に許可を得て、室内にある本棚の洋書を見ていた。見ると言っても中身を読むのではなく、彼にどんな本なのか伺いながら題名を訳す程度だが。しかしその中には所々日本語の本があって、私の知っている森鴎外の『舞姫』もあった。彼曰く、これらの本は日本語の勉強に使った事があるらしい。しかしまだ完全には訳せていないので、未だ結末を知らないと言っていた。ならば内容を知っている私が訳するのを手伝おうと提案すると、明日から頼みたいと言われた。どうして明日からなのだろう。まだ時間があるから、今からでも大丈夫だろうに。そう疑問に思って質問すると、彼が『舞姫』を本棚に戻しながらぽつりと言った。 「凛子さんに、伝えたい事がある」 「? 何でしょう」  私はそう言って隣の彼を見上げた。そしたら、彼の横顔が酷く切なげで目を見開いてしまった。下がった眉尻と沈んだ視線が、変に色っぽくて動揺していた。動けなくなった私に、彼はこちらを見てそろりと囁いた。 「貴女に、恋をしています。愛しています」 「…………え?」  ――一瞬、言葉の意味が理解できなかった。彼が、私を、好いている? 一度その言葉を反芻して、事の重大さに気づいて心臓が高鳴り始める。ひゅっと密かに息を呑んだ私に、畳みかけるようにキースさんが告げた。 「それでも、ゆるしてくれますか。……愛してるけど、凛子さんが平気なら、明日も会いたい、です」  そう囁いてこちらを見下ろすキースさんの青い目は、陽炎のように熱く揺らいでいた。縋ってくる目つきに、思わず体が力む。私は彼から逃げるつもりで俯いて、ぎゅっと拳を握った。真っ白になった思考は、私の本心を露わにする。震えそうな喉を叱咤して声を絞り出す。 「……きっと私達、幸せにはなれません」 「……はい」 「それに私、キースさんが私のどこを好きになったのか全然分かりません」 「ずっと、前から。……貴女が笑った顔を、初めて見た時から、好きです」 「…………こんな醜い娘に、どうしてそんな事言えるんでしょうか」  ……私、醜いあまりに卒業面(そつぎょうづら)と呼ばれているんですよ。そう自虐の言葉を続けようとした。でもキースさんが私の片手を取って、再び言葉を失う。彼の掌が酷く暑くて、本能的に顔を上げて彼の顔を見る。その表情は、何かに焦がれて苦しそうに見えた。私が彼にそんな顔をさせているなんて、未だに信じられなかった。 「凛子さんは、綺麗です」  キースさんのその言葉は、私の中でとてつもない重みを持った。同時に己の中で、何か腑に落ちた気がした。理性や建前が全部かき消されて、私の口を動かすのは心だけだった。 「――私も、キースさんが好きです」  ()されたような昼の光が満ちる部屋に、私の震えた声が冴えた。すると私の手を握る彼の手が一度微かに力を増して、その顔は驚きに染まった。でも彼の顔にはすぐに微笑が浮かんで、私もつられて歪に苦笑いした。  私の掌に彼が接吻を落すのを、沈黙したタイプライターだけが見ていた。

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