第二話:夏/弐

 キース・エイベル。それが彼の名前だった。  女学校からの帰り道、昨日彼と会った河原付近に差し掛かる頃。私は彼の名前を脳内で反芻して、昨日の事に思いを馳せた。綺麗な人は名前も綺麗なのね、それにしても一体どんな字の名前なのだろう。結局あの後は名乗り合ってすぐにお別れしたので、私は彼がどこの国の人なのか知らなかった。そもそも、外国(とつくに)の血をひく彼が日本にいる理由すら知らない。知っているのは漬物用の重石を持って帰っていた事くらいで、……そこまで考えて、口元がゆるゆると笑みを含んだ。何故かそこだけは未だに、思い出すと笑ってしまうのだ。なんだか嬉しいような、驚きのような、言いようのない面白さだった。この記憶でしばらく元気を保てそうだと微笑みつつ、堤防の上で歩を進める。――それにしても、何故彼は私の名前等問うたのだろう。 「凛子さん」  すると遠くの方で、誰かが私の名を呼んだ。我に返りながら足を止める。夏の暑さに霞みそうな遠さだったけど、聞き覚えのある声だったのでなんとか届いた。驚きつつ声のする方を見やると、下の河川敷から男性がこちらへ上って来ていた。目立つ茶髪と、上品な質感の襯衣(シャツ)。そして長い脚に細身の洋袴(ズボン)と革靴を纏ったその姿は、まさしく昨日の彼だった。確かこの河原を散歩するのが日課だと昨日言っていたので、彼がここにいるのはごく自然な事である。沈む夕日の逆光であまり表情は見えなかったが、見目の特徴ですぐに分かった。相手が知っている人物だった事に安心していたら、あっという間に彼は私の目の前に来ていた。 「こんばんは。どうしました?」 「……謝りに来た、……来ました」  彼は堅い声色で、言葉を若干訂正しながらそう呟いた。きゅっと引き結ばれた口元と、朧げな中に真剣さがある眼差し。それらが西日の元に露わになった。何故か左手を後ろ手に回しているが、右手の方は強く拳が握られていた。一目で彼が緊張していると悟る。  私は一瞬「謝るとは何の事だろう」と思った。しかしすぐに思い出したのは、昨日私の頭を石で強打したあの一幕。しかし帰って見てみたら、結局たんこぶ一つ出来てなかった。それに彼の行動は善意故だ。昨日の時点で彼は謝っていたし、私もそれをゆるしたはず。 「でも、昨日謝っていただきましたから」 「……貴女の名前を、聞くのが必死だった。だから、正しく謝っていない」  彼の言葉に面食らって、思わず黙り込んだ。すると彼は思いつめたように囁いた。 「日本では、謝る時に頭を下げる。父が教えてくれた」  そこまで言うと、彼は水飲み鳥のように迷いなく頭を下げたのだ。呆然とする私に、彼は不器用な語調で「すみませんでした」と告げた。姿勢は尚も謝罪したままである。 「っ私は大丈夫ですから! 今はもうどこも痛くないです、なのでどうか頭を上げてください……!」 「……ゆるして、ますか」 「ゆるしてます! 昨日からゆるしてます!」  私の焦った声色が効いたのか、彼はゆっくりと頭を上げた。しかしその視線はこちらを伺ったままで、なんだか妙に居心地が悪い。そんなに気難しい女だと思われているのだろうか。  私は変に続く無言すら苦になって、話題の転換を試みた。 「あの。……重石は、どうでしたか。使いづらくないですか」 「! とても良い。母とメイド……女中? が、喜んでいた」 「あぁ、それを聞いて安心しました」  どうやら、満足のいく品だったようである。内心胸を撫で下ろしながら微笑んだ。にしても、彼の家には女中さんがいるらしい。洋装を身につけているし、きっと家が裕福なのだろう。  そんな事を私が推測していると、彼がふと何かを差し出してきた。 「……これを、贈りたい。凛子さんに……感謝を、伝えたい」  それは――飴細工だった。老いた飴職人が辻の隅に出店を下ろして、子供達に細工を実演しながら売るのを何度か見た。そういえば両親の子供の頃は、専ら飴の鳥と呼ばれていたと聞く。かつては細工の形が鳥に限定されていたが故の呼び名だ。彼が私に差し出す飴細工も、静かに佇む白い鶴が形作られていた。ぼんやりした夕映えの光が、飴の鶴の滑らかな輪郭を華やかにしていた。食紅で色付けられた鶴の目元が、細く涼やかである。恐らく彼が左手を隠していたのは、これを見せないようにする意図があったからだ。にしても私にお礼の品など、なんて律儀なのだろうか。私は通りすがりに漬物石の助言をしただけだというのに。日本人ではない彼は、きっと買い物をするのも一苦労だろう。  彼の顔を見ると、深い青の瞳と視線が交わる。夕日で赤らんでいる頬との対照が際立つ。その真剣な顔つきが美しくて、言葉に詰まったままそうっと受け取った。すると彼は分かりやすく表情を緩めて、肩の力を抜いた。微かに笑んだ口元と和らいだ目元が、安堵と歓喜を語っていた。  男性にこんな顔で見つめられるのは初めてだった。と言うより、よくよく考えてみればこれ程沢山会話をした男性もキースさんが初めてだ。贈り物だって、まさか婚前の自分が男性に贈り物をされるなんて全くの予想外である。私は自他共に認める醜女で、女学校の卒業が目前に迫っている事がそれを証明している。こんな事されたら、嬉しくなってしまうのだって仕方無い。あくまで彼の誠意が嬉しいのであって、私は決して―― 「凛子さん」 「っは、はい」  思考がまとまらなくなってきた所で、彼に名前を呼ばれて咄嗟に顔を上げた。 「次に会ったら、また話して、いいですか」  ふわりと綻んだ彼の笑顔は、落日の中で何よりも眩しかった。あぁこの人はこんな風に穏やかに笑うのだと、そっと感嘆する。そうして胸の底でちりちりと熱が燻るのを、私は静かに自覚した。 「――はい」  気づいたら、首を縦に振っていた。  その後、私は門限が近いからと理由をつけて走り去ってしまった。無意識とはいえ、失礼な事をしてしまった。次に会ったら謝ろう。――でもきっと私は、もう二度と彼と会わない方がいい。会ったらもっと惹かれれしまうと、根拠のない確信があった。  恐らく私は、キースさんを好きになり始めてしまっている。彼の事、私は何も知らないのに。彼と会っている所を家の者に見つかったら、それこそ一大事である。……どうしよう。私は華族の娘なのに、不良になってしまった。  悩ましくて、思わず飴細工の柄を握り締めた。

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