多分私達は、この恋の行く末から目を逸らしていた。
恋仲になっても、私達の関係はあまり変わる事は無かった。約束通り地道に『舞姫』の翻訳をしたり、その日あった出来事をあの河原で話し合ったり。でもそれで幸せだった。私には充分すぎるほどの幸福は、徐々に己の感覚を麻痺させていった。明日もその明日も、また会えると勘違いしていた。
私はキースさんに、『舞姫』の結末を教える事が出来なかった。だってその前に、彼は英国に帰ってしまったから。
初冬のある日、「父の任期が終わった」とキースさんに告げられた。それは即ち、彼の一家が帰国する事を示している。大抵のお雇い外国人は、任期は終われば祖国に帰るのが常である。彼の家もまた、その通りになった。日本に留まれないかと家族に説得を試みたらしいが、親の庇護下にいる彼の話は受け入れられなかったそうだ。
それを告げられた時の私は、自分でも驚くほど冷静だった。しかしそれは表面だけで、私は彼との離別を本当の意味では理解していなかったと思う。ただ理屈の上で仕方ないと考えただけで、気持ちは置き去りだった。愚かだった。でもそれからというもの、別れる日を想像しては背筋が粟立った。彼の帰国という現実を、私は徐々に受け入れていった。故にここ最近は、彼の目の前で何度か泣いた。
明日、キースさんはこの国を発つ船に乗るそうだ。あの河原で会うのは今日が最後。私は学校が終わるなり、駆け足で帰り道を辿った。一目散にあの河原を目指した。すると川べりの方に、着丈の長い外套を着込んだ彼が背を向けて待っているのが見えた。周りに人がいないのをいい事に、枯れた喉で彼の名を呼んだ。こちらを振り返った彼の顔は、今の空模様のように曇っていた。相対した私は彼に、ぎこちない別れの言葉を吐いた。「ごきげんよう」や「お元気で」等、建前ばかり言った気がする。でも「行かないで」なんて、言えるわけが無かったから。
するとキースさんが不意に私の頬に触れて、自然な所作でキスをしてきた。彼は寒空の下ずっとここで待っていたらしく、その唇は酷く冷たかった。雪を食むような口吸いで、私の熱が彼に移っていく。唇が離れた後、私はあまりに突然の事で茫然としてしまった。すると彼が私の前で初めて泣きだして、どうにか宥めて。初めてキスをした後は、抱きしめあったりもした。別れ難さが私達を大胆にさせていた。
「……渡したい物が、ある」
「……何をくださるんですか?」
「手紙と、あとは――」
彼が渡したいと言って、外套の懐から差し出してきた物。それは封筒に入った一通の手紙と、タイプライターのIのキーだった。
彼が私に想いを告げようと思い立った原因。それが、タイプライターのIだった。私が「愛とIは読みが同じ」と話した時、彼は私の口から「愛している」という言葉を聞いた。それは私にとって何気ない例文だったが、彼にとっては少し思う所があったらしく。気づいたら、思いの丈を話していたらしい。晩秋の頃その話を聞いた時、そんな真相とは思いもよらず驚愕した。
渡されたIのキーを見てみると、文字の裏に細い金属の棒がついていた。しかしそれは不自然な風に切れていて、鋭いそこで私が怪我をしないよう先に蝋がつけられていた。詳しく聞くと、どうやら彼はIのキーを取り出すためにタイプライターを壊したらしい。文字盤からIのキーだけを工具で切って取ってきたのだと。本来文字盤とは外れる物ではなく、私に渡すため工具で切り離したそうだ。つまりあのタイプライターは、既に欠陥品という事。彼曰く、それでも渡さなければ後悔すると思ったらしい。
それを聞いて、なんだか久しぶりに愉快な気持になった。文化人のキースさんにもこんな無理やりな一面があるのかと、少々意外だったのだ。私はおかしくなって、つい声をあげて笑った。別れを宣告されてから、いつも碌に笑えていなかった。それは彼の目の前でも例外ではなく。しばらくぶりに笑ったら、笑いすぎて涙が零れた。彼はそんな私を、きつくきつく抱きしめていた。
――遠くで、陽が沈んだ。
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