前編:明治日本

プロローグ:冬/壱

 嫌な事は見たくない。例えば、今生の別れで泣いている想い人の顔、とか。本当は彼の笑った顔が見たかったのだが、やはり仕方ない事もある。だから私も、涙で視界が潤むのは丁度よかった。……そう内心で強がるしかなかった。しばらくはお互い黙り込んで、ひたすら悲しみに耐えた。でもそのうち私は、彼の涙を拭いたいと思った。どうにかして、笑ってほしいと。  私は着物の袖で滲む涙をそっと拭って、それから彼の顔を見た。俯いた彼の濃紺の瞳から、はらはらと雫が零れていく。潤んだ虹彩が空の夕映えを吸い込んできらきらしていて、泉を思わせた。落ちていく大粒のそれを人差し指で掬うと、温かさが指先を伝う。寒空の下では、彼の涙だけが唯一の温度だった。 「泣かないでください、キースさん」 「……凛子さん、……」  彼の呼び声は、凍てつく疾風にかき消される程小さかった。びゅうびゅうと吹きすさぶ風に、胡桃色の柔らかな髪がなびいている。 「私、貴方の笑った顔が見たいです」 「……ごめん。……ごめん、本当に、ごめん……」 「……お互い様ですよ、私達」  私も彼も、無謀な恋をしている自覚はあったと思う。だから彼ばかり謝るのはおかしい。というか、謝る事自体野暮だ。ずっと共にいる事は出来ないと、頭のどこかで分かっていたのだから。私は華族令嬢、彼はお雇い外国人の息子。巡り会いだけで奇跡だったはず。  慰めるつもりで、彼の頬を撫でた。すると不意に彼の顔が上がって、涙ぐんでいる目が私を捉えた。その真っ直ぐな瞳に息を呑むのと、彼が私を抱きすくめるのが同時だった。  彼はとても身長が高いので、小さな私を抱きしめるために酷く背を丸めていた。その背の曲線がなんだか酷く愛おしくて、どうしようもなく離れ難い。こんなに彼と密着するのは始めてで、緊張故か心臓は早鐘を奏でている。でもそれ以上に、彼をこの場に繋ぎ止めたい気持ちが勝る。彼の背に両の掌を添えて、どうしたのか問うた。すると彼の掠れた声が、ぽつりと返事をした。 「……渡したい物が、ある」 「……何をくださるんですか?」 「手紙と、あとは――」  彼が渡したいと言う物。手紙は、なんとなく想像がついていた。彼にとって日本語とは、話すよりも書く方が得意な言語だったから。でもそれに続いたもう一つの物は、少し予想外で。でも彼が言わんとしている事は、なんとなく理解出来る。だから私は、ほんの一瞬目を見開いたのだ。  ――タイプライターのIのキーを、君に。彼は確かに、そう言った。私達にとって、アルファベットのIは特別な文字だったから。

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