第12話 ジプシー

 ホテルの正面入り口からでて裏へ回ると、まず目にはいったのが、聳え立つ裏山とロープウェーの乗り場だった。  近づいてみると、真新しい看板に、冬のあいだの運行時間や元旦のための初日の出運行の文字などが書かれている。  そして、今日はまだ動いていないロープウェーの先を眺めると、小高い森の頂上付近に、対の乗り場があるようだ。  俺は、その場から離れて周りを見渡し、乗り場の近くに作られたハイキングコースの入り口へ向かった。  人工的に整えられているが、土と木の根っこで造られた頂上へ向かう坂と階段がある。  少し歩いてみた俺は、途中で道から逸れ、枯れ葉で地面が覆われた森のなかへと分け入ってみた。  間隔が適度にあいた背の高い樹のあいだを縫って、足場の悪い坂をあがる。  想像していたよりも樹が密集しておらず、森のなかは朝の陽差しが入ってきて明るかった。  澄んだ空気を取りこむように、俺は大きく深呼吸をする。  だが、俺の気分はすっきりしない。  ――おかしい。  体調管理は怠っていないはずなのに、気分の悪さが増し、自分自身、集中力に欠けているのがわかる。  原因はなにか、思い当たることはないか。  なのに、考えるというそれ自体がいまの自分にはきつい。  立ち止まった俺は、近くの樹に手をかけ、思わず大きなため息をついた。  そして。  手を置いた樹の目の高さのところで、小さな赤い点がゆっくりと動くのを見た。  レーザーポイント!  瞬間、俺は一気に横へと駆けだした。  ポイント位置から相手のいる方向がわかる。  背を向けたら狙い撃ちだ。  どこから相手にあとをつけられていたのか考える間もない。  距離にもよるが、敵の枯葉を踏む足音も気配もない。  朝のレストランで、俺の右手首を捻りあげたブロンドの髪の女の姿が、ふっと脳裏をよぎる。  そして同時に、手首に加えられた痛みに、別の違和感があったような気がするのを、鈍い頭で思いだした。  針を刺したような一瞬の感覚。  もしかして、あのときに毒を塗った仕込み針にでもやられたのか。  そう思い当たったとたんに、俺はめまいを起こし、足を取られて坂を滑った。  とっさに両腕で頭を抱えてかばったが、そのぶん勢いを止められず、かなりの距離を転がり落ちる。  ようやく止まった場所は、森から外れた、荒々しい岩肌の露出した地面だった。  身を隠す場所がない。  そればかりか、身体を打った箇所が痛むうえに、ひどくなるめまいとだるさで身動きができなかった。  意識が朦朧としてきた俺に、森のはずれの樹の陰から、そいつはゆっくりと姿を現した。  遠目から見ても背の高い細身の体躯だった。  あのブロンドの髪の女の仲間だろうか。  それとも別の工作員のほうだろうか。  目深にかぶった帽子と太陽を背にした逆光で、顔がまったく見えなかった。  特徴のないハーフコートにジーンズのシルエットの人物は、両手をポケットに入れたまま、俺の様子を遠くから眺めていた。  俺が起きあがれないとわかると、身軽そうに、だがゆっくりと足音なく歩いてくる。  そして、五メートルほどの距離をあけたところで立ち止まった。 「噂だけが先行しているパターンだったのかな。興醒めですよ。もっと手ごたえのある相手だと思ったのですが」  若い男の声。  彼はおもむろにコートの内側から銃を取りだし、自分の銃を眺めまわしながら言葉を続けた。  あのシルエットは――S&WのM659だろうか。 「でも、どう育つかわからない芽は、早めに摘んでおくのが私の主義でして。悪く思わないでくださいね。弱肉強食の世界ですから」  そう告げると男は、ゆっくりと俺に銃口を向けた。  身体の自由がきかない。  いま、俺の目の前で、忘れていたはずの遠い記憶のなかにあった情景が重なる。  あのときは家の中だったが、同じように動けない状態の俺を、ひとりの背の高い細身の男が見つけて、光射す窓を背に銃口を向けた。  光を反射して照星が輝いていたその銃も、たしかS&W・M659。  そしていま、俺の意識が途切れる直前。  十年前に聞いた同じ言葉を、偶然にも目の前の男が、なめらかに口にした。 「Au revoir. Un petit garçon. J'aurai besoin de ne rencontre jamais.」

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