第6話 B.M.D.

 一通りの下準備をこなした私は、廊下に人影がないことを確認してから、静かに部屋へと滑りこんだ。  部屋のなかのベッドのそばには、昨日チェックインしてから運びこんだ、大きなトランクがひとつ。私は近づいて、トランクを開ける。  そこから取りだすのは、華やかな色彩の衣服、小物、化粧品などだ。  私は最初に、いま着ているすべての服を脱いだ。それから、細身の顔の形を変えるために、頬に含み綿をいれ、次に体格矯正のための小物を身につけていく。  しばらく経ってから鏡に映るのは、身長もあり、なかなか良いプロポーションに変換された身体だ。そこで、トランクからとりだした衣服を身にまとう。  ロングフレアースカートの裾にしわが寄らないように、鏡台の前の椅子に腰をおろし、多くの化粧品を使って顔を作りあげる。  慣れた動作で、確実にすばやく。  メイクが終わると、カラーコンタクトを入れた。  かつらや付け爪やアクセサリー、仕上げの香水も忘れない。  そして、どこから見ても完璧な、先ほどとは完全に別人となる、ひとりの大人の女性が仕上がった。  いろんな人物に変装をし、その人物ごとの部屋を、あらかじめいくつも確保する。  いつもの私の、仕事にかかるときの用意だ。  たとえ、そのなかの、どれかの変装が見破られたとしても、その役を切り捨て、ほかの人物になりすませばいいだけだ。  そのまま、任務を続行できる。  用意が整った私は、部屋をあとにした。  目的は、情報収集とターゲット探し。  昨日のチェックインで、すでに顔を見知ったホテルの従業員と廊下ですれ違った私は、自分から朝の挨拶を交わした。 「天気が良くて、爽やかな朝ですわね」  私はブルーアイを細めて微笑み、ブロンドの髪をなびかせて歩く。  目立たないようにすることだけが、隠れることではない。  この役を離れたときに、その印象が残らず消えてしまえば良いのだ。  私は、一階に位置する、ホテルフロントそばの喫茶を兼ねた、二階まで吹き抜けのレストランへと向かった。席につく前に、レストランにいる客の顔を、ざっと見渡す。  ほとんどが、昨日の夜に確認した顔だった。  私は、昨日の夕食前にホテルへ入った人間は、すべて夕べのあいだに把握している。  そして、これからは真夜中以降に、こちらに着いた者の顔を捜すこととなる。  基本的に女性や子どもは対象外。  私のように、性別や見た目の年齢まで変えるエージェントはそういないだろう。  ひとり、見覚えのない若い男がレストラン内にいた。  私は、その男がいるテーブルに、話し声がぎりぎり聞こえるくらいまで近づく。そして、背を向けて、近くの空いている席に座った。この位置と角度なら、新たにこのレストランへ入ってくる客も同時にチェックできる。  それから私は、この背後の見知らぬ男の気配を感じながら、事前に入手したターゲットとなる男の情報と比べた。  ――年格好が似ている気がするが、まだはっきりとはわからない。  ウエイターに珈琲を頼んだあと、ほかの者と交わす彼の会話に、ジッと耳をそばだてる。  だが、話の内容から推測するに、どうやら彼は、一種のナンパのようだった。  このホテルに泊まっている十代の女性グループに、待ち合わせ前の時間をもてあました男が声をかけてきた、という感じだろうか。  会話から、彼はこのホテルの泊り客ではないらしい。  私が探している男の条件には、年恰好以外、不一致のようだ。断定はできないが、このナンパ男は、私のターゲットではないと勘がささやいた。  私が今回ターゲットにしている男は、『東洋のジプシー』と呼ばれている。日本警察の手先として動く、正体不明の男だ。  この業界では矯正することが多いなか、珍しいとされる左撃ちのリボルバー使いで、はっきりとした目印は、首にかけられたロザリオだという。  不思議な能力を合わせ持つという噂を聞いてから、私は彼に興味を持った。神秘的なものが大好きだという、ただそれだけの理由だ。  裏で手を回し、情報を流して日本の情報部を操作して、彼がこの任務にかりだされるように仕向けたつもりだった。腰抜けでなければ、きっと彼は、この場に現れるはずだ。  その彼が目の前に姿を見せたとき、私の勘は、ターゲットだと特定できるだろうか。  そのとき、新たな客がレストランの入り口に姿を現した。  若い男のふたり組で、ふたりとも、いままで見たことがない顔だった。  ひとりはダウンジャケットを着た、背の高い細身の黒髪の男。  もうひとりは身長が低めで、黒いジャケットを羽織った、やはり細身の黒髪の男。  私は、背の低いほうの男の首筋に、視線が惹きつけられた。  服の下に入れているらしくペンダントトップが見えないが、一瞬、首にかけたチェーンらしきものがジャケットの襟からのぞいて光を反射したからだ。  そして、ふたりして、小さな声で身振り手振りをいれながら話をして歩いてくる、その右手首に腕時計。――断定はできないが、左利きの可能性がある。  そう考えると、ジャケットの右脇に、リボルバーを吊っているような膨らみが感じられた。  ついっと視線をあげると、なかなか整った、だが十代半ばに思える幼い顔をしている。  そういえば、ベビーフェースという単語も情報のなかで目にした気もするが、私からすれば東洋人は皆が幼く見えた。事実、連れの背の高い男のほうも、最初に確認した後ろのナンパ男も、私には十代半ばに感じられる。  年齢を偽ることが日常的な私にとって、見た目の年齢は、情報として価値がない。  幸運なことに、レストランへ足を踏みいれた彼らは、私のテーブルの横の通路を歩いてきた。  タイミングをはかり、私は、いかにもうっかり手が当たってしまった振りをして、わざと彼の足もとへ転がるように、テーブルの上に置いていたライターを落とす。  そして、彼は、それに気がついた。  親切心で、拾ってくれようとしたのだろう。彼は、無警戒にライターへ、左手を伸ばす。  そのうつむいた動作のために、ペンダントのトップが服の内側から滑り落ちた。それは、きれいな青い石が真ん中に填めこまれたロザリオ……。  私は何気なさを装い、右手中指にはめた指輪を弄ぶふりをしながら、獲物を見つけたときの湧きあがる喜びを懸命に押し隠す。  そして、熱いまなざしで、彼をじっと見つめた。

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