第3話 ほーりゅう

 しばらくそのまま、眼下に広がる風景を展望台から眺めていた。  いままで空を覆っていた雲が流れるように動き、雲の隙間から光が射しはじめる。  良かった。  天気は悪くなるんじゃなくて、いまから晴れてくるんだ。  そう思って眺めていたら、ふいにジプシーが腕を解いて、わたしから離れた。  とたんに、温かかったぶんだけ、外気の冷たさが背中に感じられる。  ジプシーは黙ったまま、展望台の階段を降りはじめた。 「いまからどこへ行くの? 今度は山登り? ずっと外は寒いんだけれどなぁ」 「動けば温かくなる」  振り返らずに告げるジプシーのあとを、わたしは仕方なくついて降りる。  予想通り、次は頂上へと続くらしい小道に入っていった。  歩いてみると、土がむきだしで足場が悪く、かなりブーツは辛い。  さっさと前をいくジプシーに遅れまいと一生懸命歩くと、たしかに暑くなってきたんだけれど……。  なんだかなぁ。  かなり先のほうで頂上に辿り着いたらしいジプシーは、立ち止まって遠くの景色を眺めているようだ。  その後ろ姿を見ながら歩いていたわたしの足が、ふと止まった。  ジプシーの向こう側に広がる空は、雲の隙間から射しこむ光が増えていて、不思議なくらいに神々しい。  その空間の中で。  時によっては強烈な印象を与える奴なのに、いま目の前にある後ろ姿は、その不安定で崩れ落ちてきそうな空をひとり支えて、そのままその空に溶けこみ消えてしまいそうな儚さを持っているように感じられた。  なぜだかわたしには、いまのジプシーが、そこにいるという現実感を持てなかった。  急にわきあがる焦燥感に、思わずわたしはジプシーへ向かって、大きな声をかける。 「あんたの好きな食べ物って、なに?」 「は?」  唐突な質問に、ジプシーは振り返って、訝しげにわたしを見た。  でも、わたしには意味のある質問だ。  いま、ジプシーに対して現実感が持てないのは、きっとわたしが彼のことをあまり知らないせいだ。  現実に存在する人間だと確認したくなって訊いたのだ。  ジプシーのことをもっと知れば、彼の存在感が増すような気がするから。 「前にトラに訊ねられて思ったのよ。わたし、あんたのこと、あんまり知らないなって」  その言葉に納得したのかどうかわからないけれど、ジプシーは少し考えてから口を開いた。 「特に嫌いなものはない」  わたしは、頂上までの残りの距離を歩きだしながら続けた。 「あんたにしちゃ、珍しく意味を取り違えてるよ。わたしは嫌いな食べ物を訊いたんじゃなくて、好きな食べ物を訊いたの!」  それを聞いたジプシーは目を見開いて、ちょっと驚いたような表情となる。 「わざわざ訊くってことは、なに? 俺の好きな物、おまえが作ってくれるわけ?」 「――ものによる」  わたしが不器用で料理が苦手なことを知っていて、わざと言ってる。  やっぱり、意地悪だ。 「――そうだね。ハンバーグが好きだね」  やっとわたしが頂上まで辿りついたとき、ジプシーがぽつりと告げた。 「へぇ。なんだか意外。子どもが一番にあげそうな料理が好きなんだ」  そう返したわたしへ、ジプシーはチラリと流し目を寄こしてから、無表情で続けた。 「母親が作ってくれた物の中で、一番記憶に残っているから」  その言葉に、一瞬ハッとなる。  そうだった。  ジプシーにとって、お母さんの記憶は六歳までだったっけ。  いまのジプシーに、この会話は良いのかなと思ったけれど。  考えたら事件そのものの話でもないから、続けても大丈夫なのかな。 「わたしがハンバーグを作ったら下手過ぎて、お母さんの思い出が壊れるかもよ」  笑顔でわたしが言うと、珍しくジプシーも、口もとへ少し笑みを浮かべた。 「おまえと同じくらい料理が苦手な人だったから、大丈夫だろ。ハンバーグも何度か生焼け黒焦げを繰り返したあげく、最後は煮込みにすることで一応作れるようになっていたから」  それを聞いたわたしは驚いた。  意外だなぁ。  この完璧主義のジプシーからは想像できないけれど、お母さんは意外と不器用な人だったんだ。  そして、ふたたび歩きだしたジプシーのあとに続いて、わたしも歩きだした。  頂上は小さな広場になっていた。  中央に身長ほどの高さを吹きあげる円形の噴水があり、いくつかのベンチが周りを囲むように置かれてある。  ほかには特に、なにがあるというわけでもなさそう。  その噴水の周りを歩き続けるジプシーについていくと、ある地点で急に立ち止まった。  不思議そうに彼を見たわたしへ、噴水を見ろと目で促してくる。 「あ、虹だぁ!」  そうか、背中を太陽に向けて噴水を見ると、虹が見えるんだ。  最近は、そういえば噴水も虹も見ていなかった。  わたしはしばらく噴水が造りだす虹を眺めていたけれど。  またジプシーが歩きはじめたことに気がついて、慌ててあとについていく。  そのまま歩き続けたジプシーは、頂上へあがってきた道とは正反対の場所に作られた道を、今度はくだりはじめた。  次は、どこへ行く気なんだろう?  噴水と虹のような素敵な風景を見せてもらったわたしは、機嫌良く黙ってついていった。  くだり道も足場が悪いため、のぼりよりも気をつけてゆっくり歩く。  そうやって進んでいくと、小道の途中で小さな建物が見えてきた。  なにかのチケット売り場のような、無人の小さな小屋だ。  ジプシーは近寄って、その出窓のようなところに置かれている箱の中の紙を一枚、手に取った。  追いついたわたしも、彼に倣って同じように、その中の紙を一枚、手に取る。  えっと?  利用は中学生以上アスレチック・20。  ――なんだ、これ?  勝手がわかっているような感じで、さらに歩いていくジプシーのあとを追いながら、わたしは紙に書かれた内容の先を読んでいく。  そして、目の前の山の傾斜に沿って設置された、自然の木を利用した様々な形のアスレチックへ、おそるおそる視線を向けて絶句した。  わたしの考えを肯定するかのように、振り返ったジプシーは、にっこりと微笑む。  そして、無情に告げた。 「ここに二十あるアスレチック、すべてクリアーしたら連れて帰ってやる。できなきゃ置き去り」  この男!  そうだ、こういう奴なんだ!  優しく浮かべる満面の笑みが、逆に怖い。 「ちょっと待って! わたし、スカートにブーツなんだけれ……」 「ほら、時間がなくなる。さっさと行け」  有無を言わせずジプシーは、わたしを最初のアスレチックへと追いたてる。  やっぱりジプシー、笑顔で怒っているんだ!  わたしは本当に我龍のこと、黙っていたわけじゃないのに!  それでも、どう考えてもこの状態から逃げられないわたしは、仕方なく一本だけぶらぶらと張っている手すり代わりのロープをつかんで、平均台のような丸太の上に、そろそろと足を乗せた。

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