第30話 京一郎

 俺は、生徒会長からの電話を受けたジプシーが、洗面台のほうへ移動する後ろ姿を見ていた。  インカムをつけっ放しで行ったから、通して奴と会長の会話が聞こえる。  本来なら、おそらくプライベートの会話だから回線を切るべきなのだろう。  だが、いまのジプシーの精神状態に、どう会長の言葉が影響してくるか、わからない。  俺は、黙ったまま眼をつぶって、個人情報が会長の口から漏れないようにと祈りながら、ふたりの言葉を聞いた。  電話が終わり、そのあともなにも聞こえない状態が続き、すぐに戻ってこない奴のところへ駆けこみたくなる衝動を抑えていると、なんと止める間もなく、ほーりゅうが洗面所のドアを開けて、あっさりと入ってしまった。  まさか俺まで飛びこんで、ほーりゅうを引っ張りだすわけにはいかない。  呆然と成り行きを見ていたトラと俺はふたりで、ほーりゅうが消えたドアを、ただ無言で眺めていた。  インカムからは、ほーりゅうの奴への呼びかけの声と水道の音。奴の声。  そして――ふたたびドアが開いた。  俺とトラは顔をあげて、奴の表情を見る。  意外なことにジプシーは、真っ直ぐに俺の瞳を見つめ返してきた。  ――たった一日だけなのに、俺は長いあいだ忘れていたような錯覚を起こす。  そうだ。  こいつはいつも、迷いなく他人の眼を真正面から見つめてくる奴だ。  俺は慌ててインカムを指差し、奴の様子を探りながら口にした。 「悪い。回線開いたままだ。さっきの電話――先輩か?」 「ああ、かまわない」  奴は、無表情のままうなずく。  そして、濡れた髪を手櫛でかきあげながら、意外と穏やかに告げた。 「前回の一件が終わったら、携帯のアドレスや電話番号を変更しておこうかと考えていたんだが、すっかり忘れていた。もうしばらく、このままでもいいかな……」  訝しげに見た俺とトラに、ジプシーは、いつもの見慣れた無表情の中に、揺るぎのない自信を瞳の奥に光らせ、俺に言った。 「京一郎。一日遅れになって悪かった。もう大丈夫だ。いける」 「いけるって、身体とか、本当に大丈夫か?」  慌てて聞き返したトラへ、奴は不敵に言い放った。 「俺の精神力を甘く見るな」 「しかし、そうは言っても、おまえ……」  トラは困惑したようにつぶやく。  だが、どういう形なのかはわからないが、俺はジプシーが、奴の心の中の樹海を抜けたことを確信した。  俺の勘では、たぶん間違いがない。  いける。 「いや、トラ、大丈夫だ。これからはジプシー中心で作戦を展開しよう」  俺の言葉に、ジプシーは無言でうなずき返してくる。  そして、ドアを開けて洗面所からコップを手に戻ってきたほーりゅうを目の端にとらえると、ジプシーは盆の上の錠剤を指差しながら彼女に訊ねた。 「このビタミン剤、どこから手にいれてきた?」  ほーりゅうは、ジプシーにコップを手渡しながら答える。 「えっと。フロント係の水城さんていう女の人。自分のロッカーから出してくるのを見たよ」  俺は、昨日、調べ物で最初に対応してくれた相手が、たしか、水城という今年の三月に短大を卒業したばかりの女性だったと思いだす。  まさか、予測不可能なほーりゅうの行動を先回りして、毒物を直前に仕込むなんて真似は、慣れたエージェントでもできないだろう。  ジプシーも納得したのか、ちょっと嫌そうな顔で、錠剤を口に含んで水を飲んだ。  そしてコップを置くと、次に盆の上の、ほーりゅうが調理場から持ってきたミックスジュースを手にする。  そのジュースを目の高さにあげて眺めながら、ジプシーはほーりゅうに続けて訊いた。 「おまえ、危険もなにも関係なくなったって、部屋に入ってきたときに言っただろ。どういう意味だ?」  そうだ。  ほーりゅうはたしかに、そのようなことを口にした。  ほーりゅうは言いにくそうにしながらも、ジプシーに見つめられて、仕方がなさそうに小さな声で言った。 「わたし、もうすでに誘拐、されちゃったから」  はぁ? という顔をした俺たちを前に、ほーりゅうは照れ笑いのような表情を浮かべた。 「で、どうやって逃げだせた?」  ジプシーの問いに、ほーりゅうはしばらく考えて言葉にだした。  一応彼女なりに個人名を口にしないよう、この部屋の盗聴器を気にしたらしい。 「それは、――その、過去二回と同じ経路で」  俺とジプシーは、その言葉で察した。  我龍か!  奴がまた、ほーりゅうを助けたのか? 「そのさ、――奴って今回の件を合わすと、助けてくれたのが彼女だけで三回目になるだろう? いままでの行動を思い返すと、こちら側の人間じゃねぇ?」  言いにくそうに発した俺の言葉を、あっさりジプシーは却下した。 「いや。奴が敵方の工作員だという可能性がないわけじゃない。または、なにかほかに目的があるのかもしれないし、奴の単なる気まぐれかもしれない。こちら側の戦力と考えないほうがいい」 「でもおかしいなぁ。奴がきみを助けだしたとき、俺の網にかからなかった。俺、能力落ちてんのかなぁ」  トラが不安そうにつぶやくと、ほーりゅうが慌てたように声をあげた。 「今回は特殊な方法だったせいよ。結局暴発って感じになっちゃったし」 「あ、あの部屋の爆発! あれって、おまえだったのか!」  俺は思わず叫んでいた。 「おまえがくる直前まで、ホテル側からの要請で、さっきまで爆発事故があったらしい部屋を調べに行っていたんだ。地元警察がきた時点で入れ替わりに戻ってきたが」 「ありゃ。ごめんね。皆の仕事を増やしちゃったよ。あとで瑠璃にも謝んないと」  ほーりゅうは申しわけなさそうに頭を掻いた。  そしてすぐに、不安そうな表情を浮かべて、俺へ訊ねてくる。 「それで、――怪我をした人は……?」 「いや、あの場には誰も残っていなかったし、宿泊予約も偽名だった」  俺の言葉に、ほーりゅうは、たちまち安心した顔となる。  その様子を見ながら、俺は考えた。  そうか、あの部屋、敵方のひとりが泊まっていた部屋だったのか。  怪我人がいないということは、うまく敵も逃げだしたってことになるし。  ならば、時間をとってもう一度、調べに行ったほうが良いかもしれねぇな。

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