第16話 我龍

 俺は、ホテルの部屋に取りつけられていた電話の受話器を置いた。  いまの電話にでた相手は、普段から奴と行動をともにしている茶髪の友人だろう。  これまでの印象では、かなり勘がいい男だ。  世話焼きでもあるはず。  当面上すぐには、俺を警戒しているB.M.D.も行動を起こさないだろうし、あとはそいつに任せていて大丈夫だろう。  俺は、内線を使うためだけに無断で入っていた他人の部屋から、気配を残さず外へ滑りでて後ろ手にドアを閉めた。  カードキー用の鍵がかかる感触を確かめる。  そのとき、俺の上着の内ポケットが音もなく振動した。  夏樹から、なかば無理やり持たされている携帯電話だ。  タイミングとして、そろそろかかってくるだろうと予想していた俺は、廊下を歩きながら嫌々取りだした。  案の定、液晶画面に夏樹の名前が表示されている。  俺は、受信のためのボタンを押した。 『我龍、やはりそこにいたので……』  夏樹の言葉を全部聞く前に、すぐに切るボタンを押して切ってやった。  意味はない。  夏樹に対する単なる嫌がらせだ。  さすがに十年来の付き合いだ。  俺の力を感じたときに、夏樹はすぐにピンポイントで俺の位置を把握したとみえる。  だが、俺が力を使うときは、当然なにかをしているときだとわかっているので、必ず夏樹は邪魔をしないように時間をずらして連絡をしてくる。  そして思った通り、いつもと同じように、すぐに携帯が振動した。  受信のボタンを押すと、夏樹の声が聞こえた。 『ひどいなぁ、我龍』  夏樹が話を続けようとする前に、俺は言葉をさえぎって居丈高に声をだす。 「貴様、B.M.D.の情報を仄めかしておきながら、今回の件、なぜ俺に黙っていた」 『――だってあなた、日本の諜報機関との追いかけっこで忙しそうでしたし。今回かなりの数のエージェントが、あなたひとりを捕まえるために投入されたと聞きましたよ。その追っ手、全部まいてきたのですか?』 「そんなことは、どうでもいい」 『それに今回の件、――例のあなたのお知り合いの方が参戦されると』  夏樹の言葉の途中で、また通話を切ってやった。  そしてさらに、丁寧に携帯の電源まで切ってみた。  夏樹の存在は、時々思考の邪魔となる。  用事があれば、向こうから俺のところまで会いにくるだろう。  無意識に行われた抑圧(よくあつ)というものは、ただ単に記憶を心の奥底に自分でしまいこんで、思いださないという抑制(よくせい)ではない。  これからを生きていくために、奴は十年前の事件のことを自分の意思とは関係なく意識下に封印して、触れないようにいままで生きてきた。  記憶から排除しきれず心の奥底で眠っている辛い過去は、結果として精神を不安定にさせ崩壊させかねない。  じつをいえば、奴が俺の忠告通りに一切過去に関わらず生きていくのであれば、事件に関しての記憶が無になるくらいの深い催眠術をかけてやろうかと、俺は考えていた。  思いだすきっかけとは無縁の日常を過ごすという条件であれば、事件の記憶がなくても差支えがない。  記憶がよみがえるきっかけは、それを経験した過去の状態や気分の再現がほとんどであるからだ。  だが、奴は過去と関わる可能性のある生き方を選んだ。  そして今回、本当に奴のなかで、フラッシュバックによって埋もれていた恐怖と痛みの記憶が呼び覚まされ、一気にあふれだしてパニックを起こしている。  奴は、過去にこだわって生きる道を選んだ。  そうなると、いつかは自らの意思でこの過去の記憶を越えないといけない時がくる。  そして、自分自身の力で納得しなければ解決しない。  事件当時六歳といえば、まったく記憶がないわけではない。  さらに、原因が十年前の事件だということが、はっきりとわかっている。  覚えていない記憶から原因を探るという工程の必要がないのだが、今回はそのタイミングが悪すぎるように思えた。  記憶がよみがえったあと、ゆっくり時間をかけて向き合い、ショックを吸収する時間があれば良かったのだが。  ショックをまともに食らった奴の精神が壊れないように祈るしかない。  ちょっと肩をすくめた俺は、さて、とつぶやいた。  廊下を歩きながら、このホテルについて事前にチェックした、カラフルな写真付きのパンフレットの内容を思いだす。  たしか、眺めの良い露天風呂という売り文句を見た気がする。  ガラにもないといわれそうだが、じつは俺は、大の風呂好きだったりするのだ。  大きく伸びをしながら、俺はウキウキとした口調でつぶやいた。 「――フロントのそばに、建物内の案内図があったな」

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