ヤドリギの娘

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18.犬とにおい

 エスス祭司長は、旧知の巨鳥に心配事を一つ押し付けたことにより、“愛する神樹”との時間を安定して捻出することに成功した。  しかし、先の逢引きの瀬と同様、神樹は未だに彼の問いかけには答えないままであった。  多くの場合、神樹やご神体などは、神託など迷信を使って術者が人を操るための道具のひとつに過ぎなかったが、エススとこの神樹の場合はそうではない。  彼は「本当の意味」で神樹と交信を行っていた。  神樹は祭司の才を持つ者にだけ聞こえる声を使い、語りかけていたのだ。  そしてエススの声や思考も同様に神樹へと届けられていた。  過去にも数度、神樹が話さなくなったことはあったが、今回はその期間が長すぎた。  不審に思ったエススは、神樹を注意深く観察した。すると、枝葉の先から神樹の色が変わっていることに気が付いた。枝もいやに垂れ下がっている。  ……小枝を折ると乾いた音が響く。  季節は実りへ向かっており、楢の木である神樹が色を変えるのは当然のことに思われたが、それは秋の色付きでなく、「枯れ」だった。  つまり、樹木の死の始まり。そして変色は神樹だけに留まらず、国を囲う森にも広がっていた。これらも当然、一足早い紅葉などではない。  神樹の根は国土いっぱいに広がっている。しかし、それは土の養分をむやみに吸い尽くさず、ときには土へ養分を返し、土地の均衡を保っていた。  つまり木々や作物に栄養を分け与える血管の役目を持っていたのだ。  この役目が不十分になったことにより、森の木は弱り、カシナガに侵され、畑ではミミズが死に土が力を失い、水脈は狂い、ハエの孵化と共に井戸を枯れさせ始めていた。  それに気づいたエスス祭司長は、兵や部下の祭司に命じて、国土を調査させた。  案の定、そこかしこの農場では不作の気配が感じられ、城下でも多くの国民が首を傾げながら、歪んだ地面を板の付いた棒で押し固めていた。  そしてこの調査は、国民に神樹がいよいよ死んだことを確信させるに至った。  エススは考えた。  ――神樹の寿命か? いや、そんなはずはない。  これまでの交信では“彼女”はそんな気配すら見せなかった。  管理に問題が? それも違うだろう。大楢そのものには大きな損傷も、病気の跡も見当たらなかった。そうなると考えられる可能性はひとつ。  神樹はただの巨大な楢の木ではない。楢の木を神樹たらしめるのは大きさではなく、それに宿る“意思”である。  神樹に埋まわった種、あるいは卵。そういった核となる物体があるのだ。  つまり、それが失われたのだ。その存在を知るものはエスス祭司長を置いて他には居ない。  “核”は神樹の上方にあったはずだ。神樹に登る不届き者が国民にいるはずはないし、神樹の威光が失われる前に立ち入り禁止の令は敷いてある。  ……ならば、存在を知ることができる者のは限られている。 「あの小娘めえええ!」  エススは中庭の大地を踏み荒らした。うしろにまとめた髪は乱れ解け、隈と皴の形相が彼を名実共に妖鬼に変えた。 「よくもおお! よくも私の“テウタテス”を盗みおったなあああ!」  呪詛は庭の外まで響き、たまたま扉の前を通りがかった兵士を驚かせた。兵士は何事かと扉を見つめる。   すると扉がひとりでに開き、中から植物の蔓のようなものが這い出してきた。  それは百匹のヘビに見えた。ヘビ達は兵士の足を捕まえると、中庭のへと引きずり込もうとした。  兵士は地面に爪を立てるが、百の力には及ばず、庭の地面に十の筋を作った。 「貴様ああ! 見ぃぃぃぃてぇいぃぃたぁなぁぁあっ!?」  ヘビの巣には魔物の姿。  ――もはやこれまで。俺も結婚くらいしたかった。今生を振り返る兵士。  しかし、妖鬼は兵士の顔を目に映すと、ヘビを離し兵士を解放してやった。 「……ヤンキスではないか。ちょうどよいところに来た。貴様、あの小娘。コニアの世話係をしていたな?」  兵士ヤンキスは妖鬼の顔を茫然と眺めた。……これは魔物じゃない。人間だ。 「エ、エスス祭司長?」 「お前たちも知っての通り、神樹は枯れ果てたのだ。  これは秘密だったのだが、神樹にはそのいのちたる“種”がある。  “種”さえあればまた神樹を蘇らすことができるのだが……あの神樹の世話係をしていた小娘が、それを盗んで逃げたのだ」  エスス祭司長はいつもの疲れた顔に戻っていた。  だがヤンキスはまだ悪夢から醒め切っていなかった。祭司長の言ったことのほとんどが耳を素通りしていた。 「あ、あの。さっきのは……」 「おお、すまぬ。恐ろしいものを見せてしまったな。あれは真の祭司の持つ植物を操る力だ。てっきり盗人がおったのかと早合点してな」  “にっこり”笑い謝る祭司長。  当然、そんなもので誤魔化せやしない。長く祭司長と付き合ってきたヤンキスであったが、そんな力があるなんて初めて知ったのだった。 「お主、コニアの世話係をしていたであろう? あの毒霧騒ぎに乗じて逃げてしまったあの娘の?」  ヤンキスは押し黙った。彼女は死んだ筈だ。それが“種”を盗んで逃げただって?  ありえない。自分が彼女の死を何度も確認し、“根の穴”に葬ってやったのだ。  だが、祭司長はそれを知らない。このことは来世まで持っていくつもりだ。仮にそれを今白状してみろ、間違いなく殺される。 「あの小娘が“種”を盗んだのだ。奴隷の出の癖しおって、野望だけは帝王と見える。神樹はこの国において、精神的にも物質的にも基盤となっておるもの。これが失われることは国が滅びることを意味するのだ」  祭司長は、ずいとヤンキスに顔を近づけた。 「私の言いたいことが、分かるね?」 “にっこり”。 「わ、私に、娘を見つけて来いと?」  祭司長の手がヤンキスの肩に置かれる。  彼はそれを見ることはできなかったが、首が何か縄のようなもので力強く締め付けられるような感覚があった。 「その通り。さすが私と仕事を共にした男よな? 物分かりが良い。当然、“種”は必ず取り返さねばならん。娘のほうも、罰を受けさせねば。最悪、生死は問わぬ。必ずその身を私の前に引きずり出すのだ!」  最後に肩を強く握り締め上げると、祭司長は手を離した。  あとはまた「あの顔」をしてヤンキスの顔を見つめるばかりだ。ヤンキスは振り返り、中庭を走ってあとにした。  彼は祭司長にちゃんと返事をしたかどうか思い出せなかった。  ヤンキスは中庭を出ると、扉を閉め、大きく息を吐いた。  心臓が早鐘を打ち、身体の穴という穴から冷たい汗が噴き出している。  あれは一体なんだったんだ? エスス祭司長は、祭司の力というのはあんな人知を超えたものなのか?  疑問は残る。もっとも超常の事だ、城内の雑務に使う程度の頭で答えは出せはしない。  ただ一つ、はっきりとしていることがあるとするなら、この任務に失敗すれば自身のいのちは無いということだ。  さいわい、「娘の生死は問わない」と言った。今からでも“根の穴”に行けば、彼女の死体が見つかるだろう。  その肉体の原型はとどめていないかもしれないが。  流れるような銀髪、健康的な肌、それに似合わぬ物憂げな表情。  穴へ放った時点ではまだ遺体は“彼女”だった。今やもう、小鳥や獣の骨ともそう違いはないだろう。だが、服を見つければ彼女と判るだろう。  “種”とやらも一緒に見つかるはずだ。  兵士は城の裏手へ回り、墓地となっている根の穴へ向かった。  神樹が枯れ始めたとはいえ、ここの根はまだ生気を保っている。樹の幹に近いためか、それとも穴の中に養分が潤沢にあるためか。  ヤンキスがこの場所へ用事をこなしに来るのは、これで三度目だ。  一度目は、悲しみに暮れて娘を葬りに。二度目は、小鳥を捨てに。  そして三度目は、娘が掘り返されてしまわないように気を遣ってこの場所を選んだというのに、自らの手で……。  墓場の口は酷い口臭を辺り一面に漂わせている。  ヤンキスは鼻をつまみ、縦穴を覗き込んだ。日が出ているとはいえ底のほうは仄暗い。  あれから幾つかの遺体が投げ込まれていたためか、上からではそれと判るものは見つけられなかった。  ヤンキスは布切れを顔の下半分に巻くと、生きたまま死の穴へ降りて行った。布は気休めにもならなかった。  結論から言うと、彼の仕事は完了しなかった。  “種”は疎か、娘の遺体もまとっていたはずの裾のすり切れた法衣も見つからなかった。  彼の中で娘の死は確信的であったために、穴の中を探索する時間は長きに渡った。  横穴を照らすのに一度松明を取りに戻ったし、転がるはずのない場所までも隈なく調べた。  結果として、彼は娘の蘇生を確信する。墓荒しに遭ったと考えるほうがはるかに現実的だが、先ほどの中庭の一件と、娘の生存を望む心がどこかに残っていたため、この答えを出させたのだった。  兵士ヤンキスは生きた娘を探す任務に取り掛かる。  当然、その前に身体の洗浄と着替えを行った。それを済ませるまでに何人もの同僚に嫌味を言われた。  国は広い。当てなく探しても、娘一人を見つけることはできないだろう。彼女は遠くへ逃げたか、隠れているかに違いなかった。  ヤンキスには逃亡人探しの経験は乏しい。そのうえ国家機密を含むだけに、露骨に人手を募ることはできない。  彼は城の職務に就いてからの一番の難題に直面した。彼は今まで、祭司長の小間使いばかりこなしてきた。  ……命令された通り。まるで犬の様に。  彼は仕事中、自分を犬のようだと度々嘲笑してきた。しかし今度は彼は犬ではない。  確かに命令は下された。脅されたようなものだが。彼には生きた娘をぜひ見つけ出したいという気持ちがあった。  それはごくごく個人的な理由であるが……。 「そうだ、犬だ!」  ヤンキスは閃いた。  彼は兵舎棟の隣に建つ、軍用犬を集めた建物に向かった。  この国では、とある犬種の繁殖が積極的に行われていた。鼻筋が通っており、豊かな体毛と、短い手足と三角に尖った耳が特徴的な犬種だ。  元々は遥か北東の島国で牧羊犬として使われていたものらしい。大楢の国では元々の牧羊犬としてはもちろん、軍用や愛玩動物としても活躍していた。  ヤンキスは犬舎に詰める顔見知りに頼み込み、一匹の犬を借りた。  顔見知りの兵は気軽に応じてくれたが、ヤンキスが犬舎に近寄ると、中で休んで居た犬たちが一斉に彼に吠え掛かった。  檻の戸がきちんと施錠されていなければ、彼は噛み殺されていたかもしれない。  なぜならば、犬の嗅覚は人間よりも遥かに優れ、墓荒しの真似事をした男の臭いを敏感に嗅ぎ取ることができたからだ。  犬たちにしてみれば、悪人か、もしくは生きた屍に見えたのだろう。  ヤンキスは少々ビビりはしたものの、犬の反応はむしろ心強いといえた。  ところが、借りてきた犬は元墓荒しへ特に敵意を向けることは無かった。  これにはヤンキスも少々不安を覚えたが、実績の良い犬は出払っていたか休息中だった為に借りられなかったのだから仕方がない。休息ももちろん職務である。 「よろしくな、“ケムギ”」  ヤンキスは犬につけられていた名前を呼んでやった。 「わん!」  犬は元気よく返事をした。  ヤンキスはかつて娘が使っていた部屋の鍵を借り、犬を伴い中へと入った。部屋は娘が使っていたときのままにされていた。  試しに部屋の隅に置かれた履物を手に取り、ケムギの鼻に近づけてみる。  犬は鼻をしきりに鳴らして、臭いを嗅いでいたが、特に反応は示さなかった。ヤンキスも試しに嗅いでみたが、埃っぽい臭いがするだけである。  そういえば、娘は履物を履いていなかった。すり切れた裾から時折、小麦色の素足が覗いていたのを思い出す。  となれば、一番においの染み付いていそうなのは寝床だ。ヤンキスは寝床の藁に被せてある布を引きはがしに掛かる。  引きはがした際に詰めてあった藁の塊が飛び出した。ケムギは塊が床に転がったのを見つけると、それにじゃれ付き藁を部屋中にまき散らし始めた。 「こら! ケムギ!」  叱るヤンキス。 「わん!」  元気よく返事をするケムギ。手足の動きこそ止めてはいたが、豊かな尾はまだ遊んでいる。  ヤンキスはナイフを使い、掛け布の一番においの染み付いてそうなところを切り取り、拝借した。  彼は試しに嗅いでみた。なんだかくさいような、悪くないようなにおいがする。 「これなら判るだろう?」  犬の鼻へ布を近づける。ケムギはにおいを嗅ぐとまた元気よく返事をした。……それだけだった。  時間が経ちすぎてにおいが薄れてしまっているのか、それともこの犬の鼻……いや脳みそが仕事をしていないだけなのか。  ヤンキスはもう一度、布のにおいを嗅いだ。やはり娘のにおいがする……気がした。少なくとも人のにおいは染み付いているように思えた。  ひとつだけでは駄目なのかもしれない。そう考えたヤンキスは中庭の小屋へ向かうことにした。  娘は最後にはあそこで生活をしていたはずだ。それならば彼女の残り香があるかもしれない。  神樹が枯れ始めてから、中庭の施錠は行われていなかった。毒の霧についても例の騒ぎ以降、ぱったりと無くなっている。  ただ、今朝の出来事はヤンキスの頭に焦げ付いていたので、祭司長が居ないことを扉の前で祈るのは忘れなかった。  中庭へ入り、小走りで小屋へ向かうヤンキス。ケムギはそれを嬉しそうに追いかける。  先ほどと同じようにして布を手早く手に入れる。ヤンキスは背中を押されるように中庭を後にした。  ヤンキスは城の外に出て犬に二枚の布のにおいを嗅がせる。  するとケムギはようやく反応を示し、毎度の通り一声あげると城下町へと駆けだした。    犬は主人である兵士に気遣うことなく走った。ヤンキスは弾む毛玉を見失わないために、すっかり息を上げてしまわなければならなかった。  ケムギは大きな屋敷の前でようやく止まった。 「ここにコニアが居るのか?」  息を整えながら敷地を覗き込むヤンキス。  屋敷はとにかく立派だった。多くの家屋は一階建てなのに対し、この家には二階が存在しているらしい。……と言っても多分物置だろうが。  土塗りの壁は少し古くなっているようだが、それはかえって家に威厳を与え、花壇の彩りとの対照がお互いを引き立てている。  庭の一角には手狭ながらも農家顔負けの家庭菜園があり、茎を赤くしたビーツの葉や、パースニップの白い花の群れが咲き誇っている。  これを管理している人物は、裕福なだけでなく、几帳面で働き者のようだ。 「あら、お城のかた?」  屋内から上品な声を持った女性が現れた。  ヤンキスは姿勢を正し、女性に会釈した。  彼にはこの女性と顔を合わせた記憶があった。コニアを祭司会へ引き渡した女性だ。 「ちょっとお尋ねしたいことがありまして」 「あら、とうとううちの人が……?」  女性は頬に手を当てる。とうとう? 「ええと、以前こちらのお宅からご寄付いただいた娘についてなんですが」 「娘……。ああ、あの愛想の悪い。あの娘が何か粗相を?」  女性の発言はどちらも対象を疑うものであったが、こちらのほうが少し温度が低く感じられた。  彼女の態度に嘘が無いのなら、娘はここで匿われている線は薄いだろう。 「彼女、行方不明になっていまして」 「まあ! やっぱり逃げたのね。これだから奴隷は。あの娘はここには来ておりません。あがって確かめてくださいまし」  どうやら犬は、娘がずっと前にここに居たときの残り香を嗅ぎ当てていたらしい。嗅覚だけは信用できるようだ。 「ああいや、そこまでは必要ありません」 「そうですか? では、お昼でも召し上がっていきませんか? わたくしの育てたとれたての野菜を是非召し上がって……」 「折角ですが、任務がありますので」  ヤンキスは形式上は屋内を見ておくべきだと考えた。  だが、この豪奢な家の境界と、夫人の娘への態度がそれを拒否してるように思えた。  そして夫人の目は、コニアを野菜の葉を齧る虫と同じに見ているに違いないと感じた。  兵士は再び会釈をするとケムギを呼び、屋敷をあとにした。  当てがひとつ外れてしまい、勢いを失ったひとりと一匹は、街の広場へと足を運んだ。  広場では多くの人が行き交っている。広場では様々な露店が出されていた。  食べ物屋、薬屋、縫物屋、宝飾品を扱う店もある。  食事どきなので、食べ物屋以外の大抵は店じまいをしたり、番をしながらパンや果物を齧っている姿が見られる。  城内の食堂は朝夕しか開かれていなかったので、兵士や祭司にもここを利用するものも多い。  屋内で腰を落ち着け温かい食事が食べられる豪華な店もあったが、昼間は持ち運びの利く食事を多く扱う露店のほうに軍配があがった。  広場で行われるのは商売だけではない。  知り合いとの世間話、情報や鬱憤の交換も盛んにおこなわれる。  ヤンキスは逃げた娘に関する情報はないかと、飛び交うおしゃべりに耳を澄ませたり、あるいは自分も加わってみたが、有益なものはさっぱりだった。  ここ最近は「城の上空を巨大な鳥が飛んでいるのを見た話」で持ち切りであった。  それは一度ならず、毎日のように目撃されているらしかったが、残念なことに彼はまだ目撃者に加わってはいない。  ヤンキスは慣れた様子で人の流れを避け、ある露店に近づいて行く。  ケムギは彼にくっついて行こうとしたが、通行人の足に巻き込まれ、蹴られてしまった。  仕返しに脛に噛みついてやろうと考えたが、柱が乱立する中では犯人を見つけることができなかったようだ。  とある露店でひとりの娘が店番をしていた。娘はせっせと火にかけた肉を裏返している。  ヤンキスは彼女に親しげに声を掛け、肉の串焼きを一本買った。  娘は串焼きを渡すさいに「たまには野菜も食べてください」と注意した。  彼はこのまま日課の油屋を開きたいところであったが、日が暮れるまでに街を調査しておきたかった。  もっとも、尋ね人は先程の家以外に城下に伝手を持っていないだろうから、明日以降、町外へ探索の足を延ばさねばならないことは決まっているも同然なのだが。  広場の外れへ移動し、串焼きを口に近づける。  途端、人ごみのほうでちょっとした悲鳴や驚きが起こった。それは人の波を伝ってヤンキスへと近づいてきた。 「わんわん!」  ケムギだった。彼はこいつの事を少しばかり忘れていた。  犬は足元へ近づくと抗議の声を上げた。毛玉に足をくすぐられた人達からの視線が痛い。  彼はけっきょく、広場からは退散し、路地で食事をとることにした。 「わん!」  犬の視線の先にはヤンキスの持った串焼き。 「お前は、犬舎でで飯がでるだろうに」  軽くあしらい、冷め始めた肉を口に入れようとする。 「くぅん……」  犬は瞳に水気をたっぷり含ませ、情けない声をあげた。 「しょうがねえなあ。一口だけだぞ」  ヤンキスはしゃがみ込み、串の先を犬の鼻先へと近づけた。  犬はにおいを嗅ぐと、嬉しそうに二度息を吐き、串を持つ「手」へかぶり付いた。 「痛え!」  堪らず串を取り落とすヤンキス。ケムギはすぐに口を離すと、地面に落ちた肉にかじりついた。  昼食を奪われた兵士。腹いせに蹴飛ばすわけにもいかず、旨そうに肉を串から齧り取る犬を、ただ見つめるばかりであった。  ヤンキスはケムギが食べ終わるのを待ち、聞き込みへ行こうと考えた。  噂がだめなら、郊外で尋ねたほうが良いだろう。  街の外れへ行くにはもう一度広場を横切らなければならない。犬は周りの迷惑を考えて、抱きかかえておくことにした。  広場に充満する匂いが胃につらい。  もう一度、露店の娘に会う口実ができたとも言えるが、彼はちょっとばかり意地を張ることにした。  気立ての良い娘の目に映らないよう露店には近づかず、相対的な売り上げのためにほかで食事を買うのも控えておいた。  郊外のほうには、大規模な農場が点在している。ここ数日は彼らには余分の仕事が飛び込んできているように見える。  皆一様に、沈下した地面へ土嚢を放り込んだり、盛り上がった土を板付きの棒で均す仕事に打ち込んでいた。  もはや、農業以前の様相である。ここで聞き込みをしたが、得られたのは国への苦言くらいのものだった。  さらに先へ行けば、草原に出てしまう。緑の絨毯には羊のものと思われる白い模様ができている。  羊飼いの少年が犬に羊の踵を噛ませているのが見える。  日中にたっぷりと草を腹にため込んだ羊たちにとっては、犬の仕事に付き合うのは良い腹ごなしになるだろう。  ケムギも興味があるのか、じっと同類の仕事を見つめていた。  今日はこのくらいにしておこうかと、街へと踵を返すヤンキス。 「痛え!」  本日二度目の悲鳴。連れの犬が彼の踵にかじり付いていた。 「俺は羊じゃねえよ!」  犬に向かって怒鳴って見るが、叱られた本人は目を丸くし、首を傾げるばかりだ。  ヤンキスは溜め息を吐くと、力なく笑い、犬の頭を撫でてやった。 「明日もまた頼むよ」  けっきょく、兵士ヤンキスはくたびればかりを手土産に、疲れた足とすきっ腹を引きずり兵舎へと引き返した。  翌日、再びケムギを連れて街へ出る。まだ空は白み始めたところで、朝の空気は新鮮なままだ。  その空気を吸い込んでも、ヤンキスの気分は優れなかった。  悪夢を見たのだ。  毒騒ぎのあの日の、娘の死を確認したときの再現。  ひとつだけ実際と違ったのは、娘の遺体は綺麗なままでは無く、根の穴で見た多くの亡骸を繋ぎ合わせたような姿をしていたことだ。  そして服は法衣ではなく、“肉の串を売る娘”のものだった。  遠出をする予定だったので、広場で弁当を買おうと考えていた。  だが、いつもの娘はまだ店を開いていなかった。少し残念に思った反面、安心した。  娘の顔を思い出したとき、夢の顔がまだ頭にちらついていたからだ。  露店の娘も似たような年頃だ。実際の彼女のほうは尋ね人より“おとな”だし、愛想もずっと良かったが。顔を合わせて夢と重ねてしまわずに済んだのは幸運だった。  別の露店でそのまま齧れそうな野菜と果物を買う。  野菜売りは朝が早い。彼から「最近はさらに早いのだ」と愚痴を聞かされた。  ここのところ不作続きで値段が高騰している。その為、少しでも利益を上げるために長く店を開けねばならないらしい。  だのに広場で最後に店じまいをすることもあるとか。  店主は珍しい早朝の客へ礼と勤めへの労いを述べたが、いつものあの娘の店とは違い、それはただのお追従だった。  昨日、郊外の農場で聞き込みをしたときも、似たような話を聞かされた。  どこも不景気らしい。秋の収穫祭を前にして、この状況は芳しくない。  農場からの税や献上品も乏しくなり、城内で出される食事にも影響してくるだろう。  神樹の死がこれを招いているのなら、ヤンキスの働き次第で国の生き死にが掛かっていると言っても過言ではないだろうか?  ――やめだやめだ。そんな重たい話は。  ともあれ準備が整う。これから当てのない探索が始まるのだ。  ヤンキスは広場をあとにしようとした足を止める。  目の端に知り合いの兵士が映った。兵士は御触れを出す役目を担っている者だった。  彼が朝からここで立ちんぼをしているということは、祭司会から何か御触れが出されるということだ。  御触れは人通りの多い場所で、日に数度、口頭で述べられる。それだけでいとも簡単に噂となり、国中を駆け巡るのだった。  彼は知り合いに御触れの内容を尋ねた。それは朝の空気をさらに冷たく感じさせた。 『銀髪の砂漠の民の娘はすべて祭司会へ出頭せよ。逃走は火炙り。逃走者を逮捕した者には金貨十枚を進ずる』  理由は明かされていなかった。だが、国内でこの条件に当てはまる者はそう多くはない。  実質、コニアのことを言っているに違いなかった。人里の調査はもう無意味だろう。  しかし、この御触れが出されたということは、エスス祭司長がたった一日で痺れを切らしたことを意味していた。  ヤンキスは必ず彼女を見つけ出したいと考えた。この手で、誰よりも早く。  彼はまだ死にたくなかった。そして、願わくば……娘を祭司長の前へ連行したくなかった。  説得して“種”だけ返してもらえばいい。隠したり植えたりしたのなら、場所を聞きだせさえすればいい。  彼女の事情は知らないが、それがお互いの首と胴が離れずに済む唯一の手段だ。  とはいえ、手がかりは途絶えている。娘が行きそうな場所、頼れそうな場所に心当たりなどはない。  このまま街を出たとして、彼女を見つけることなどできるのだろうか?  もう一度、彼女を寄付した夫人のところへ行くべきだろうか?  そもそも、あれから何日が経過していると思っているのだ。娘は遥か遠くへ去っているのではないのか?  つまり、心配すべきはお互いの首ではなく、俺ひとりの首では……?   ――いや、ひとりで済めばいいが……。  彼はいまだ開かぬ肉串屋の露天の定位置を見つめた。  広場でぐずついていると、彼の前へ厄介なものが逢着した。 「やぁやぁ、ヤンキス君! こんな朝早くから職務に熱心で感心!  私もちょうど、今朝から一仕事終えてきたところだよ!  朝の空気は清々しい! 我々は我々で我々に対して賛辞を送っても良いかもしれない!  だが、しかし! 我らが師エスス祭司長は夜通し国務に打ち込んでいらっしゃる!  昨晩も、神樹の枯れと農場の不作の関連の調査、その結果による祭司会からの補填について頭を悩ませてる御様子!  日々、国の為、国民の為、粉骨砕身、力戦奮闘、ああ素晴らし! 私もそんな彼の力になれているだろうか?  いや、気にすることは無い! ただ精進するのみ! やや!? ヤンキス君! 顔色が優れない様子!  さては仕事が上手くいっておらぬね? 大丈夫! 努力すれば必ず報われる!  見兎放犬、努力は遅すぎるということは無い! 今からでも私に相談してみてはいかがかな?  何か力になれるやもしれぬ! してヤンキス君は、今現在、何の任務に身を捧げているのかな?」  モルティヌス教育長だ。悪夢と仕事の行き詰まり、失敗からの死の連想。そこへきてモルティヌス教育長。 「あの、教育長。私はただ朝の散歩に……」  ヤンキスはごまかして退散しようと考えた。  こんなのと付き合っていると、遠出の為の体力はすべて吸い尽くされてしまうだろう。  あるいは気力を全て吹き飛ばされるだろう。 「これは失敬! 散歩だったか! 朝の運動は気持ちが良い!  つまるところ一日の労働への最高の準備体操! やはり熱心感心!  私も祭司見習いだった時分は毎朝、  我が師の前日の教えを復習、反芻、思い起こして胸に刻むための日課の時間として散歩を活用していた!  夢によって鈍らされた神経の曇りを清め吹き飛ばすには朝の空気は……」  兵士ヤンキスは駆け出していた。それに気付かず話し続けるモルティヌス。  ――ははは。「朝の運動は気持ちが良い」だ。ほら、犬も嬉しそうに追ってきているじゃないか!    ヤンキスは城へと逆走すると、正門の前を曲がり、城の裏側へと周った。街の正面から出るつもりだったが、まあいい。  早々に仕事に取り掛かろうと、ケムギの鼻先へ娘のにおいの付いた布を近づけてやる。すると犬はすぐに反応を示し、“根の穴”のほうへ駆けて行った。  ヤンキスは額を押さえた。どうしてこんな簡単なことに気付かなかったんだ。娘は穴から出たのだから、そこからにおいを辿れば良かったのだ。  これについては間抜けなしくじりであったが、日が経ってるとはいえ、犬の鼻が彼女のにおいを嗅ぎつけたところを見ると、希望の残滓はまだ暖かいことを示している。  ヤンキスは先ほどの燃える信奉者の言った「見兎放犬」がよぎり、声を出して笑った。 「待ってろよ兎ちゃん。必ず見つけてやるからな」  ケムギはにおいのしるべを手繰りながら駆けて行く。  城の敷地を出て森の茂みへと飛び込む。ヤンキスも犬のあとに続いて茂みへ飛び込んだ。  軍犬は低い背丈を利用して低木を楽々と潜り抜ける。兵士のほうは一応持ち出してきた槍でかきわけ、先導者の揺らす枝葉を追いかけ続けた。  近づいている。確実に。娘のもとへと。  茂みを抜けると、祭司が儀式に使う広場へと出た。兵士達は普段、ここへは立ち寄らない。  生贄の儀式の場合のみ、生贄が暴れないように見張りとして同伴することはあったが、広場も儀式も祭司の聖域であったから、兵士はこの手前でお役目御免となるのである。  彼らの聖域は、ただの森の拓かれた土地であるはずだったが、どうも生暖かいような、どこか“根の穴”で嗅いだものを思い出すような気配が漂っていた。  ケムギも場の変化に気付き、一度足を止めあたりのにおいを嗅ぎ始めた。  何度か地面のにおいを嗅ぐと、尖った耳を震わせた。ケムギは今度は茂みには飛び込まず、街道へつながる道へと向かった。  犬は街道へ出ると、地面を嗅いでひと吠えした。  そして、そこがただ自分の為にあると言わんばかりに、ど真ん中を駆けた。  この流れで行くと、コニアは街道を通って森を出たという事だろう。  ヤンキスはいよいよ面倒なことになって来たと思った。  この先の海までは大楢の国の主張する領土であったが、ある程度砂浜を進めば、他国の領域となってしまうのだ。  彼女がそこの人々となんらかの関わりを持っていた場合、連行はおろか、接触にも難が生じる可能性があった。  ともかく、娘への糸が切れてしまわない事だけが祈られる。  ケムギは真っ直ぐの街道を進んで行く。  いくら丈夫な獣とはいえ、森を抜ける頃には、立ち止まっては息を吐いての行軍に切り替わっていた。  草原へでてからも犬は迷わなかった。潮風で娘のにおいを流される可能性は十分に考えられたのだが。  つまり、娘は最近ここを通ったか、近くに留まっている可能性があるということだ。 「お前、結構やるじゃないか」  ヤンキスは犬を褒めてやり、秘蔵の干し肉を与えてやった。  彼は本当は弁当の野菜をほんの少しだけわけてやるだけのつもりだった。タマネギかなんかでも。  砂浜で少し休憩を挟み、露店で買ったビーツをかじる。  口の中で甘辛さを楽しんでいると、そこにひとりの男が通りがかった。身なりと荷物からして、漁師のようだった。 「やあ、兵隊さん。何かあったのかい? まさか戦争じゃないね?」  彼も何かをもぐもぐやりながら話しかけてきた。ケムギが男に近寄り、足元でしきりににおいを嗅いでいる。 「いや、ちょっと人を探しててね」  ヤンキスは犬をちらと見やったが、すぐに男に視線を戻した。 「お尋ね者かい? 物騒だね。ちゃんと捕まえてくれよ。あんた、大楢の国から来た兵士かい?」 「そうです」  ヤンキスが返事をすると男はこれ見よがしに溜め息を吐いた。 「ただでさえ、このあたりは領土でもめてるからな。いつ戦争になるか冷や冷やしてるんだ。悪党を野放しにされちゃ、たまらんよ」  この嫌味な男は、髭面でがっしりした体つきで、網籠を担いでいた。  この近辺に居を構える漁師だろうか。竿や銛などの道具は持ってないあたり、街へ海産物を売りに行く途中なのだろう。 「この付近で、珍しい髪色をした娘を見ませんでしたか?」 「わん!」 「珍しい髪色、うーん……。探してるのは娘かい。てっきりごつい男かと思ったぜ。兵士さんが探すなんて、たいていが悪人だしな」 「わんわん!」 「……それで、その娘は何をやったんだい?」 「いやなに、逃亡奴隷ですよ。ただ、持ちぬしが偉い人でして」 「金持ちはいいねえ。娘の奴隷なら俺も欲しいよ。いや、でも飯を作って待ってくれる美人の嫁さんでも良いな。逃げられるなんてだせえぜ。俺なら奴隷でも居つきたくなるような、優しい扱いをしてやるよ」  男はぺらぺらと話す。 「嫁さんは欲しいですね」  同意するヤンキス。 「わんわんわん!」 「うるさいな! ケムギ!」  叱るヤンキス。 「このわんちゃんは俺が奴隷にでも見えてるのか?」 「わんわんわんわん!」 「さては……俺が娘に見えてるんだな! 俺もそうだったら良いなって思ってたところよ!」  男はしなを作り腰をくねらせた。 「くぅん……」 「すみません」  ヤンキスはかがみ込み、ケムギの毛を撫でて落ち着かせてやった。 「悪いね、力になれなくて。まあ、ここの近所は人が住んでねえからな。娘がうろうろしてたらすぐに気づく。それも銀髪の珍しいやつとなりゃ、なおさらな」 「そうですか。ご協力、感謝します。これはお礼です」  ヤンキスは男にタマネギをくれてやった。 「おう。ありがとよ! それじゃ、わんちゃんも、あばよ」  男は別れぎわに、ヤンキスとケムギに向かって口をすぼめ水っぽい音を鳴らした。  そして急ぎ足で街道のほうへ去って行った。  だが、彼は待ちのほうではなく、砂浜のほうへと足を向けた。  ヤンキスは追う。  男が砂丘の陰で見えなくなると、疾風のごとく歩調を早める。  兵士は槍の握りを確かめると、男を隠した丘の先へと飛び出した。  しかし、そこには何も居なかった。砂に足跡も無し。逃げ足の速い奴だ。  男を追うのを諦め、娘の探索へと戻る。  ヤンキスは考えた。あの男は何か知っている。  少なくとも、コニアに接触したに違いない。犬が示していた。  コニアが“種”を使って何かを企んでするとしたら、それの協力者だろうか。  だが、あの娘が他人を害するような、大それたことを考えるとは思えない。  ……仲間でも無く、接触を隠す必要がある人物。  その場ですぐに取り押さえなかったのは失策かもしれない。  あの男の体格や逃げ足から察するに、何らか荒事に覚えのある男のようにも思えた。素直に正面から争わなかったのもその為だ。  兵士は腕に覚えがないわけではない。単に優先順位の問題だった。  ……大丈夫だ。男を捕らえなくとも、コニアを見つければ良いだけだって。見兎放犬、見兎放犬……。  ヤンキスの思考を引き裂いたのは、連れの悲痛な声だった。 「きゃいん!」  彼が振り返ると、ケムギが砂の上で苦しそうにじたばたと暴れまわっていた。  兵士は槍を構えると、守るように犬の前に立ち、あたりを見回した。  しかし、奴の気配は感じられない。  砂浜が太陽を照り返し、じわじわと額に汗が滲む。兵士は呼吸を整える。雲が太陽を隠し、砂浜を少しだけ暗くした。  ヤンキスは騒ぎ続ける犬にちらと目をやった。鼻先に何か赤いものが引っかかっているのが見えた。  カニだった。 「アホかな?」  カニを外してやると、犬は復讐の炎を燃やし敵を追いかけ始めた。  だが、敵は波の中へと逃げ込んでしまい、それを追った炎は水に揉まれてあっという間に鎮火した。  とぼとぼと海から戻って来た犬は、あるじを潤んだ目で見つめ、喉を鳴らした。  ヤンキスは犬を撫でてやろうと身をかがめたが、犬はそれを待たず、水を吸った毛を乾かすために身体をたっぷりと振るわせた。  ……。  砂浜の探索は楽ではなかった。景色は開けており、視界は悪くなかったが、熱気と湿気、それに大量の砂が兵士の履く革の長靴にはつらい。  普段は、動きやすいよう、足裏と止め革だけの突っ掛けを使っていたが、昨日の犬の粗相と長距離の移動を考慮して、頑丈な長靴に履き替えていたのだった。  靴の中に砂が入り込み、ヤンキスに不快感を与えていた。犬にも砂の大地はかなりつらいらしく、先ほどからずっと舌を出して喘いでいる。  浜から離れ、涼しい草原から探索する手も考えたが、犬はどうやらまだにおいのたずなを手放してはいないらしく、頑として波打ちぎわを進み続けた。  蒸し焼きの兵士がこのままでは野垂れ死んでしまうのではないかと考え始めた頃、視界に一軒の小屋が現れた。  小屋を認めたケムギも吠える。先ほどの男の小屋か、娘の隠れ家か。  どちらにせよ、あのおんぼろの箱には手掛かりか答えかが入っているだろう。  兵士はそっと小屋へ近づき、壁に耳を当ててみた。何も聞こえない。あの男が幾ら逸足の持ちぬしだろうと、小屋へ戻っていることは考え難い。  つまり、この中には誰も居ないか、息をひそめた娘がいるか。  ヤンキスは意を決し、小屋へと踏み込んだ。誰も居ない。日光にさらされていない空気が、緊張を反転させる。ケムギも無遠慮に中へと入って行く。 「おーい、コニア? 俺だ。ヤンキスだ。居ないのか?」  隠さず堂々と呼ぶも返事はない。  ヤンキスは小屋の中のにおいが鼻についた。人の鼻を持つ彼にも、火を使って間がないことが判別できた。  彼は土間に置いてある水瓶を見つけた。彼はそれを少し失敬すると、犬にも分けてやった。  瓶の口には埃も砂も付いていなかった。誰かがここで生活をしているのだ。  ケムギは好き勝手に小屋のあちらこちらに鼻先を突っ込んでいた。木箱の中に鼻を突っ込むと、あるじを呼ぶ声をあげた。  箱の中には法衣が入っていた。娘が着るには大きすぎる、裾のすり切れた法衣。  しかしそれは、最後に目にしたときとは変わり果てていた。  広げてみるとあちらこちらに黒い染みが模様を作っていた。血の痕だ。  兵士の心に居座っていた追跡者は去った。代わりに、毒の霧の黒や紫が入り込む。  ――そうだ、あの子は死んでいなかったとしても、無事ではなかったはずだ。  法衣の収めてあった箱の横には、別の木箱があった。その中には何かの塊がごみと一緒に入っている。  ヤンキスはそれを摘まみ上げて見た。彼女に関係のある物だろうか。  “それ”もやはり、全く変わり果てていたが、間違いなく“娘の一部だった”ものだった。 『娘の奴隷なら俺も欲しいよ』  男が言葉だけヤンキスの前へと戻る。 「コニア!」  彼は大声で叫ぶと小屋から飛び出した。 ***

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