気にするな、しょうがない、そういうこともある。 そんな言葉ばかりが浮かんだ。飛びかかるように殴りかかろうとすらしない自分が、愛川は不思議だった。どうしてこんなに冷静な頭をしているのか、よくわからなかった。 「なんでノーマークなんだよアホ野郎、ふざけんな、ぶん殴るぞ」 冷静なはずなのに、口からは罵声しか出てこない。こんなにクールなのに。少し怯えている東の表情から、鼻頭に光る汗の粒までよく見えているのに。 「答えろカス野郎。早くしないと試合始まるだろボケ」 こんなに頭はクリアなのに、口からは言いたい放題だった。まるで止まる予感がしない。そんな本音をだだ洩れさせちゃ駄目だ、と思っているのに、言葉がまるで止まらない。 どうやらこれが、混乱している、ということのようだ。 我慢する、という常識がまったく機能していない。遠慮や配慮という機能も停止している。 震えた小動物顔になっている東が、口をひらく。 「ディフェンスはしてただろ、おまえがファウルしてんだろ」 「打ったら入るんだよあいつは。完全に振り切られて、ボール持たせて、ノープレッシャーでシュート体勢にまで入られた。打つ瞬間にチェックしたっていうのか? そんなディフェンス側の思い上がりだ。そんなシュート直前にちょっと手を伸ばされたからって、シューターにとっては関係ない。分かるだろ、そんなのディフェンス側の自己満足だ。俺はボールを持たせるな、持たせてもビタっと張り付け、ディナイしっぱなしでやれ、そう言ったんだよ、言っていたよね? 言わなかったか? 言っていただろが! どうしてあんな適当なマークなんだよ」 東は答えない。 答えないから愛川の唇と声帯は止まらない。 「スクリーンプレーなんだから、すぐにマークいけない、ある程度はマーク外れる瞬間がある。でもすぐに追いかければ、ワイドオープンにはならない。なんで追いかけない。なんでスクリーンに引っかかったところで足を止めているんだよ。足とめんなよ。ついさっきは情報なかったけど、今はあるだろ。しかも直前と同じプレーだ。なんで追わないんだよ」 「愛川」 見かねたように神山が肩を掴んできた。 なんで肩を掴むんだ、と思った。 制止させようとしているのだろうか。まだ東は被害者面して何も言っていないのに? 有り得なかった。 愛川は肩を掴んでくる手を引きはがすと、東の目の前まで顔を近づけた。 「いい加減にわかれ! なんでわからない! 馬鹿なのか? そんなに負けたいのか?」 「んなわけねえだろ」 「だったらなんなんだよ。お前がそこまで十五番に対して、適当なのはなんでなんだよ。ご両親が人質にとられて、適当にディフェンスしないと殺されるって脅されているのか? そうか、それならしゃあない。沢村ならそれくらいするだろ、そうなんだな、東、お前はご両親か妹様が人質にとられて逆らったら妹が犯されるから、仕方がなく全力で全然全くプレイ出来ないんだなっっ!!」 「おまえがそんなに怒ってる理由わからない」 これだけ顔を近づけていないと聞こえないような小声だった。 「あいつはほんとうに巧いのか? スリーだぞ? 真横だぞ、そうそう入らないに決まってんだろ。それよりデブマークするか、リバウンドか」 東の言い訳が、ひどく遠い距離から、喋っているように聞こえた。 そんな言葉を。と、思った。そんな底の浅い言葉を聞かせてくれるな、と愛川の脳味噌が拒否しているようだった。 そういう理由であることは、何となく察していた。 そんな理由である、だなんて信じたくはなかった。 そんな低い次元で東がバスケやっていたなんて思いもしなかった。 三年間一緒にミニバスやっていたチームメイトが、そんな理解しかできずにバスケやっていたことが恥ずかしかった。 そんな理解しかしていない奴だと気付けなかった自分の目を、恥じた。 ここまで理解の齟齬があるとは思わなかった。思おうともしなかった。それは自分の罪だった。この罪を罰する人はどこにもいない。自分で律するしかない。 止まらないと分かった。もうこの口から飛び出る不満は止まらない。 止める気もなくなっていた。 「意味ない言い訳するな。振り切られたこと認めたくないだけだろふざけんな。デブは神山が完璧に押さえてる。お前の仕事は意味の薄いヘルプじゃなくて、十五番を掴んででも押さえることだ。なんでそれが一つ前と同じプレーで振り切られてんだよ。お前がよっぽど下手くそになったのか、お前があいつを舐めきっているか、どっちかだ」 「だからお前がそこまであのひょろ野郎を大好きアピールする理由がわかんねえだよ!」 わからない? わからない、というのだ。 何が解らない。自分がそこまで十五番にこだわる理由が、わからない。理解できない? 笑ってしまそうだった。 あれだけのシュートフォームを同じコートの視点から見ても、東は何も感じていないのか。感じていないという体でいないと耐えられないのか。感じていたとしても、ノーマークで打たせても、外からのシュートなんだから外れる確率の方が高いだろう、と思う程度の感じ方しかしていないというのだろうか。 フォーメーションプレーのラストシュートとして、十五番を使っていることが明確なのに。あの沢村がラストショットを託しているのに。 それすらも東は判らないのか。もうなにがなんだか判らなくなっているのか。 頭と顔が熱い。 そうすることが当たり前のように、東の胸を、手のひらで突いていた。 頭に血がのぼるとは、こんな感覚なのかもしれない。 東が数歩のけ反る。倒れろよ、と思った。 胸ぐらを掴んでいた。胸ぐらを掴んだ拳が、東の顎を殴る寸前のように押し込んでいた。 くしゃくしゃの顔になって泣き叫びたくすらあった。悔しくて哀しくてむかついてイラついて、何もかも押さえられなかった。 でもそれらを耐えて、我慢して、理性的な言葉を咽からひねり出した。 「ふざけんなよっっっ。あのシュートを見てよお、んな悠長なこと思うならよお、もうバスケなんてやってんじゃねえよぉ」 東の決断は早かった。 愛川に掴まれていた胸ぐらを力任せに引きはがすと、上半身のユニフォームを脱いだ。 「そっすか。ならいいよ。もう辞める」「おい」 白い生地に八の文字が張り付けられたユニフォームが、コートの上に落ちた。 沢村はそして目をみはった。 肉体に目をみはった。 筋肉と腹筋に、目をみはった。 早かった決断の理由は、誰よりも東がバスケ部を辞めたくなかったから、と分かった。 このまま勝負しても勝ちの薄い闘いからの放棄。 捨てるのは、プライドだけ。東はそのプライドをあっさり捨てたのだ。 東の上半身の筋肉がそれを補強する。バスケ部を辞めたくない、という意思を補強する。 筋肉は一朝一夕では身に付かない。腹筋や肩幅、胸板。普通の中学一年が普通に生活しているだけでは絶対につかない筋肉が、割れた腹筋が、厚い胸板を、出来上がった身体を、東は持っていた。東はずいぶん着痩せするタイプのようだ。肩筋に盛り上がりでもあれば、誰かは気付いていたかもしれない。 しかしその筋肉は、証明だった。中学一年だからといって、一切手を抜いてバスケをやっていなかった証拠だった。勝利のために、己を鍛え上げていたという言葉を発さぬ証拠が、裸の上半身に、くっきり刻まれていた。 中学一年生は身体が出来ていないから、筋トレをするべきではない。 そんな常識を真っ向から無視するような、鍛え上げられた筋肉と割れた腹筋と、厚い胸板。 そしてそんな証拠があったからといって、バスケを理解できたわけでなかったのだ。 そこまでの証明を肉体に刻みながらも、東はバスケが判っていなかった。 だから沢村は弱点として東を攻め、攻めた結果、愛川がキレた。 そんな東は、おそらくこのコート上の誰よりも、出来上がった筋肉と肉体を持っている。 誰よりも腕立てをして、腹筋をして、器具を使ってトレーニングをしてきた、ということだった。 東は体育館の隅にまとめられていたリュックなどを背負い、上半身裸の背中に、タオルをかけた。 退部届を一枚取ると、握りつぶした。 「おれ試合放棄だから。おれは逃げたんだからな。だから負けてないから。だからバスケ部辞めないから」 東は沢村をみていた。愛川や在屋ではなく。 沢村は声をあげなかった。代わりに小さく頷いた。それを確認するように、東は睨みを深くしてから、握りつぶした退部届を体育館脇の水飲み場のゴミ箱へ投げ捨てた。 そのまま東は体育館から出て行った。誰も、声をかけることもしなかった。 出来やしなかった。 あくなき向上心は、一時の矜持ではなく、未来へ続く泥臭い道を選んだ。それは、負け犬と呼ばれてしまう退場だった。事情を知らない普通の観客が周囲を囲っていたのなら、自分だけ助かりやがった、卑怯者という罵声が飛んでいるかもしれない。 でもしかし、コートに立っている男子らは、誰も東を負け犬なんて思うことのできない退場だった。 東の肉体を、努力の証明を、勝ちへの思いを、バスケへの情熱を、才能ないプレーヤーであるがゆえに刻み込んだ行動を、目前してしまったから。 南江別中学校は、ああいう奴を生み出したミニバスチームが土台であり主力になっているチームなのだ。 ただの天才である愛川を追い出すことに変わりはない。 愛川の代わりなどはいやしない。 でもしかし東はいる。神山もいるのだ。愛川や東や神山が所属していたミニバスチームが根本にあるチームなのだ。 愛川が百だとしても、今は五十、六十でしかない男子らでも、三ヶ月も経てば九十五、九十九になる男子らの宝庫かもしれなかった。たとえ百という領域に達することがないとしても、限りなくそれに近しい存在なら、いるのかもしれない。なってくれるのかもしれない。 沢村の内から、勝利することへのためらいが消えていく。将来の南別中の戦力という利害の意味からも愛川を追い出さないことへの、わずかに残っていたわだかまりが、なくなっていった。
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