一条兼定(いちじょう・かねさだ)いざ参る! ~無能者と呼ばれた男の逆転劇~

10.5 天国に入りたる、多聞山(たもんやま)城

 兼定とて、戦国の覇者を志す群雄の一人。  織田家を、信長を倒すことを考えたのは一度や二度ではない。  だが、それは都度、実現性のない空絵事に過ぎなかったし、また、信長の目指す世に秩序を敷く思想は兼定の理想から大きく外れたものではなかったため、最終的には織田家との協調路線を選択するに至っている。  その一方で、兼定は対信長への思慮を欠かす事もなかった。  いつ、信長の気変りによって一条家への抑圧が形となるか分からないのだから。周辺の敵が一通り排除されて、いよいよ織田政権の敵対勢力が無くなった時、信長の跡継ぎとなる織田信忠(のぶただ)の為に後顧の憂いを断とうと、織田に拮抗しうるであろう同盟勢力の事前排除、すなわち、一条家や徳川家の弱体化を試みはしないかと。  そのような懸念への備えとして、兼定はかねてより一条家の版図を西へと広げる構想を抱いていた。織田家に無理難題を突きつけられた場合に、それに抗うだけの力を手に入れるため。  しかし、それはこれより未来の事態への備え。  もしも今、この状況下で兼定側から信長に対して同盟破棄を申し立てれば――  まずは義弟の内基(うちもと)を筆頭に公家衆の本家一条家が兼定から離反するだろう。代わって将軍が味方となるが、今となっては室町将軍の権威は形骸化している。実質的な公家衆の後ろ盾を失えば、戦いが長引けば長引くほどに兼定側は徐々に不利となり、武力による短期決戦にて決着を付けざるを得ない。  単一の武力で敵うはずはない。  そこで必要となるのが、公家の多くを失う代わりに得る、反信長武家勢力。  この場合は此度の包囲網に参加している毛利、本願寺、上杉、武田が味方になるが、各勢力の今後予想される動向は兼定が述べた通りであり、ほぼその場で全員が金縛りになるに違いない。そうなると一条家の反対側、東からの攻勢は見込めないのだから、せいぜい、西側で毛利や本願寺と連携が取れるかどうか、といったところ。  おそらくは、ほぼ一条家と宇都宮家と久秀(ひさひで)だけで織田家と正面から当たる事になるだろう。  その時に対峙する織田家の西の面々。  総大将に織田信忠(のぶただ)。  畿内方面軍は明智光秀、細川藤孝、丹羽長秀、筒井順慶(じゅんけい)あたり。  対毛利戦線としては、おそらく羽柴秀吉。  対本願寺の佐久間信盛と、もしかしたらそこに蒲生氏郷(がもううじさと)のような次世代を担う名将達も派遣されるやも。  それに加えて周辺各地の国人衆。  兼定側にも、織田家の支配が浅い丹波国(現・兵庫県東部)の勢力が呼応する可能性はあるが…… 「光秀と秀吉の二人を、同時に相手にするのは辛いな」  せめて、そのうちのどちらか一人だけにしてくれと、兼定は素直にそう思った。 「こちらも簡単に負けはせぬが、それは攻めてくる相手に対しての防戦の場合の話。こちらから叛意(はんい)を宣言して畿内中央の喉元を制圧する戦いとなれば、およそ勝ち目はない」  結局、兼定の到達した結論はいつもと同じ。 「では、一条家はこの包囲網に加わらない、というわけですかな?」久秀(ひさひで)が、じろり、と兼定を(にら)む。 「無論。(はな)から思想上の理由でその気はないが、仮に戦ったとしても多大に不利であれば、尚更だな」 「そうですか……では、これが今生の別れとなりましょうな」  この時の久秀(ひさひで)の言葉の中に。  これより敵となる兼定達をここで討ってやろう、といった様子はなく、何かを決意したような、まるで全てを諦めたような、そんなもの寂しさを兼定は感じ取った。 「さては、死ぬつもりか」 「平蜘蛛(ひらぐも)の釜と、ワシの首、この二つを信長に見せようとは思わぬ」  兼定は男として覚悟を決めた久秀(ひさひで)の瞳の中に、確かに久秀(ひさひで)の意地を見た。やはり久秀(ひさひで)には分かっていたのだと、そう兼定は確信する。  この包囲網は成功しない。  唯一の可能性は、一条家を味方に引き入れることくらい。  だが、それはおそらく兼定の今までの言動からして成しえない。  これら全てを久秀(ひさひで)は理解している上で、それでも尚、信長に反旗を(ひるがえ)すつもりでいる。 「なぜだ」  兼定は問うた。 「一言では、説明できませんな。長年に渡ることゆえに」 「それでもやはり、この時期にそれを決めたきっかけはあろう。それは多聞山(たもんやま)城か」  その言葉に、  久秀(ひさひで)の眉がぴくりと動いた。     多聞山(たもんやま)城とは、大和国の北部につい最近まであった城。    久秀(ひさひで)長慶(ながよし)に命じられて大和の支配に足を踏み入れたが、それより以前は興福寺の支配下にあり、戦国の世となってからは興福寺衆徒の筒井氏が実質的に大和を支配していた。  筒井氏当主・筒井順慶(じゅんけい)と一進一退の攻防を繰り広げた久秀(ひさひで)は、大和の支配を確固たるものとすべく、興福寺や東大寺やらを見下ろせる位置に多聞山(たもんやま)城を築城した。 『予は都に(おい)て美麗なるものを多く見たれども、(ほとん)ど之と比すべからず。世界中、此城の如く善、(かつ)、美なるものはあらざるべし』 (※都で美しいものを多く見てきたが、これとは比べ物にならない。世界中でも、この城ほど素晴らしくて美しいものはない)  これは城に招待された宣教師ルイス・デ・アルメイダによる記録である。  当時、この城は非常に先進的な城だった。  曲輪(くるわ)(区画)の一つ一つに石垣を使用し、城の多くの建物には(かわら)の屋根を採用していたが、それは当時では珍しい事。また、本丸には高矢倉と呼ばれる四層建ての(やぐら)を建てており、さらには庭園、茶室、座敷に様々な建築技術が用いられ、多くの絵画や茶道具なども集められていた。  ――全ての壁が白く、美しく光っている。  ――家及び塔は、今までに見た中で最も良い瓦を用いている。  ――まるで、天国に入りたるの感あり。  それまでの城は防御施設としての役割が主目的としてたが、この城はいわば、『見せる城』として建設された文化的価値の高い城であったと考えられている。  だが、この多聞山(たもんやま)城は久秀(ひさひで)の起こした一度目の謀反、第二次信長包囲網で敗北した折に信長へと明け渡された。それからは『天王寺の戦い』で今は失脚している(ばん)直政が城主を務めていた時期を経て――  長年の間、久秀(ひさひで)と対立していた筒井順慶(じゅんけい)が信長の命により大和の支配者として任命されると、筒井氏の拠点となった筒井城や郡山(こおりやま)城以外の周辺の城は信長の政策によって、多聞山(たもんやま)城も含めて全て廃城となった。  多聞山(たもんやま)城の取り壊しは、今よりおよそ一ヶ月前の1577年の六月に起きた出来事だった。 「城の廃城の知らせが、お前の元に届いた時に――」  ここまで一言も会話に絡んで来なかった長房が、かつて久秀(ひさひで)と共に長慶(ながよし)に使えた男が口を開いた。 「戦国の男でもあり、文化人でもあるがゆえ、心血を注いで築城した多聞山(たもんやま)城の廃城は、とても耐えられるものではなかったのではないかな?」  その長房の言葉に、久秀(ひさひで)は眉を曲げたまま、ただ黙っていた。

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