中庭の海 

読了目安時間:6分

エピソード:2 / 7

本報告書は、ケースXXの詳細を明らかにするため、上級委員F・エリオットによって行われた、港主任研究員および被検体23に対する尋問を記録したものである。

報告書1 港主任研究員に対する尋問

 きっともうご存じでしょう、F・エリオット上級委員。  僕はここで生まれました。  僕はこの施設内で被検体になるべく生を受け、ここから出たことは一度もありません。  この施設は新薬開発プロジェクトのための被検体養育施設として建設されました。  現在、この中庭は無機質な光……ええ、他ならぬ僕が指示した結果ですが……日内変動を統制するために、中庭は人工日光で照らされています。  ですが僕が幼いころ、この中庭の天井は温室のようなガラス張りになっていました。僕は幸運にも、本物の太陽光を浴びながら、他の子供たちと寮で暮らしていました。僕と同時期に暮らした子供は、十人ほどであったと思います。中庭は、隅から隅まで子供に踏みならされていました。  子供はみな揃いの服を着ていました。白色で、詰襟のワンピースでした。検査衣なので、サイズが二種類しかなくてね。僕は背が小さかったので、服がぶかぶかで、すねのあたりまで裾がくる。それがすごく嫌だったのをよく覚えています。膝が丸出しになった、つんつるてんの着こなしに憧れていました。  僕たちはひとりひとり、異なる実験があてがわれていました。食事の種類や量は徹底的に管理され、運動量が定められ、定期的に知能テストを受けます。僕は常に点滴を何本もぶら下げていました。そういう実験に当たっていたのでね。  あの忌々しいスタンドをいつだって引っ張って歩かなきゃいけない。僕はよくぐずって泣きました。  走ってみたかった。花壇に上って飛び降りたり、一輪車を漕いだりするところに混ざりたかった。保母のおばさんがなだめてくれるんだけれど、そんなのどうも思わなかった。  たったひとり。一番仲良しのカンがなぐさめてくれるのを、僕は待っていました。  カンは僕より少し年上で、気のいい兄貴分でした。何をするにもカンにくっついて歩いていました。カンの服の後ろの裾を僕がいつも掴むんで、伸びているくらいでした。  何本も点滴を刺すので、僕の腕は内出血だらけでした。カンはよくさすってくれました。点滴が少ない日に、おぶって走ってくれたこともありました。カンは他の子供に比べて制限が少なく、せいぜいよく食べてよく寝る、くらいでした。それでもみんなに妬まれなかったのは、カンの人柄ゆえです。  ある日、カンが博士に呼ばれました。  珍しいと思って、こっそり後をつけました。  研究所には博士に呼ばれた時しか入ってはいけない決まりでした。あそこにいた子供たちの中で、博士の言うことを破ろうと思う子なんていません。研究所入口は正面にひとつと、寮側の奥まったところにひとつありました。博士に連れられて入るときは、正面の玄関から入って、眩しい廊下を通っていきます。壁と天井は白で、蛍光灯の反射が痛いほどに明るいのです。  その日、カンは裏から入っていきました。  廊下は暗く、非常用電灯がついているだけでした。いつもは消毒液のにおいをぷんぷんさせている床が、あの時は、なんだか気持ち悪いものに見えました。  僕は常に点滴のスタンドを引いています。すぐに見つかりました。車輪の音と金属の反射のせいでね。  僕の肩を捕まえたのは、僕を担当している博士でした。  中庭で遊びまわれない代わりに、博士は暇つぶしに使えと言って、読み物やら知能検査のあまりやらをくれるような、アウトローなユーモアのある人でした。博士はいつもと違って、かがんで目線を合わせてくれません。目だけで僕を見おろしてきました。  僕は怒られると思い、身構えました。  怒りませんでした。 「見ていくといい。きみはきっと、そのうち同僚になるんだよ」  そのあとどうやってあの部屋に行ったかは覚えていません。待ち受けていた光景に比べると、道のりなど些細なことでした。  ガラス張りの小部屋から、広い実験室が見えました。  博士たちが忙しそうにしていました。部屋の真ん中に、天井まで続く、柱のような、円柱状の水槽がエメラルドグリーンに浮かび上がっていました。  僕は、息をするのをわすれて、ガラスに顔を近づけました。  円柱状の水槽の中で、カンは目を大きく開いて、背伸びしていました。カンが精いっぱい首を伸ばして、上を向いていました。  僕の後ろの博士は、何事も起こっていないかのように、無表情でまばたきをしています。  モーターの音が始まって、水が下から上がってきます。  波がないんです。しずかに水が増えていきます。博士たちが動き回っています。水が増えていきます。博士たちは機械を見ています。水が増えていくのが正常なのです。  カンはむせて、そこだけ泡が立って、しぶきが飛び、静かな水面は天井へ達しました。  髪がうようよ揺らぎます。おでこが丸出しになっていました。目は閉じていたけれど、泡が掠ると薄く白目が見えました。      僕から点滴が外されました。まもなく、カンの水槽の脇に部屋を与えられました。  毎日僕は水槽に手をついて、カンに見とれました。水槽は光っていました。話しかけました。僕は水槽に耳をつけました。規則的な音が聞こえました。まろやかに冷えたガラス面が、とろけるように思えました。幸せなんだ、と思いました。泡にはカンがさかさまに映っていました。さかさまのカンをいくつも見送りました。身体は管につながれていました。水の中でゆっくり左右に動きます。かすかに眉を歪めて眠るカンは、うっとりしているみたいに見えました。きれいな水槽の中にいつだってカンはいます。  何年も太陽光から遠ざかることに決まりました。デスクライトとカンの水槽だけが唯一の明かりでした。時間なんて関係ありませんでした。僕はカンの水槽のすべてを管理しました。博士が時折来て質問したり検査結果を持って行ったりしました。カンの明かりに照らされて、僕はずっとそばに座っていました。幸せだなあと、浅く息をして、部屋の暗がりに身を潜めていました。  ふと、太腿が裾から出ているのに気づきました。立ち上がってみると丈はとうに足りなくなって、ずっと憧れていた着こなしになっていました。僕の喉がぎゅうっと痛みました。カンが水に沈んだその瞬間、鼻の奥がきっと、こんなふうにつんとしたんだろうと思いました。  僕は、しあわせなんですよ。  カンが側にいるとき、僕はいつだって幸せだった。  きみがいることが僕の幸福で、僕の幸福はきみなんだ。  きみといる僕は、いつだって幸せだった。きみを見ている僕は、しあわせな僕なんだ。きみがいる、実験が続く限りきみは、僕の側にいる。幸せでいられる。  この実験がなかったら、僕はとても生きていられなかった。  これだけが幸せだった。   紛れもなくこの実験は、僕の唯一の幸福です。  幸せなんです。幸せが、終わるのは誰だって、嫌です。  実験の終了は到底受け入れられない。水に浮かんだ子供はまだしも、生きてる子供に手を下すのは、上級委員会だって気分がよくないでしょう。だから僕は被検体を起こしました。  カンを起こしました。  カンはね、僕を見て、「博士」と呼びました。    僕は、カンが僕に気づかなくったって構わない。  ただ僕はね、しあわせでいたいんです。

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