戸惑われていることと思います。わたしのことについて、あの子、いえ港博士からお聞き及びでしょうが、いくつか補足しなくてはならないと思い、このような勝手を申しました。 わたしは通称カン、軍艦のカンの字をあてられています。被検体番号23にあやかって、23画です。そして、もともとあの子は、ジョウという呼称でした。被検体番号24ですので、難しい譲という漢字、讓です。 ジョウはまさしくわたしの弟分でした。連番の三つ年下。小さくて、かわいくて、かわいそうな子です。 被検体になるべく生を受けたわたしたちは、外のことを知りません。中庭と寮と研究所と博士たちが、わたしたちの世界でした。 博士の仰ることは全部正しいのです。博士のなさることは、とても素晴らしいことです。わたしたちは博士のもとで守られ、素晴らしいものになっていくのです。 それがわたしたちのしあわせのあり方でした。 それ以外知りませんでした。 ほかの子たちは何やらいろいろと制限を設けられ、それに従って暮らしていました。人と自分を比べ、不遇を訴える子には、寮母さんがよく言い含めて我慢させていました。 「一人一人、処遇が違うのは、ひとりひとりが素晴らしいからだ。博士たちはあなたたちにぴったり合った方法を見極めて、素晴らしい大人に育てようとなさっている。あなたには他の子とは違う素晴らしさがあるのに、育て方は同じなんてことがあるわけないでしょう。だからあなたは、ちゃんと幸せなんだ」 外部の方にしてみれば到底理解しがたい文句でしょう。実際わたしたちにもよくわかりませんでした。やさしい声で、背中をさすられながら、寮母さんが滔々と説いてくれます。普段は寮母さんを独り占めできないのですが、そのときは自分だけのために話しかけてくれます。難しくて途中は分かりませんが、最後の一言だけは分かります。 「だからあなたは、ちゃんと幸せなんだ」 そうなのか、と思いました。 唯一、屈しなかったのがジョウです。わがままで困ったところがあるかわいいやつ、甘えん坊なやつ、と思っていました。ジョウはいくつもの点滴とともに暮らしていました。一緒に遊ぼうと、点滴のチューブをかき分けて、わたしはジョウの手を取りました。腕は内出血の痕がひどく、博士たちはこの子を一体どういうふうに育てようとしているんだろうと、泣きじゃくるジョウを撫でながら考えました。 ある日、外遊びの時間になってもジョウが出てきませんでした。うらやましがって泣くくせに、あの子は意地になって中庭に出てきます。いくら待っても来ないので、わたしはジョウの部屋に行きました。わたしたちはひとつの広間で寝ていたのですが、ジョウは点滴の管理があるので、別室があてがわれていました。 その日は曇っていたように思います。布団の白さが淡くにじんで、点滴の雫が規則的に光をよこしていました。 ベッドの上にうつむくジョウの周りにはたくさんの紙が散らばっていました。 声をかけると、嬉しそうに振り向きました。隣に座るのに邪魔だったので紙をどかそうとして、ぎょっとしました。難しい単語がびっしり書かれていました。たまげて、これは何だと聞くと、ジョウはさりげなく「暇つぶしにもらったの」とグラフを引っ張り出して見せてくれました。おびただしい文書は、グラフの読み方やら分析方法について書かれたものだそうです。 外で遊んでいる最中、ジョウの様子を見守っているつもりでした。わたしたちと遊べない日は、寮母さんになだめられたあと、むすっと本を読んでいました。その内容はわたしが思っていたよりはるかに高度なものへと変わっていたようです。今思えば、ジョウの知能は異常でした。 わたしたちは様々な実験に割り振られていました。新薬の開発は国家機密であり、わたしたちは生まれたときから完全に実験の管理下にありました。子供は特定の年齢になるといなくなります。いなくなってから一度も会えないわけではなく、中には博士の助手として働いている子がいました。きっとジョウも将来そうなるのだろうと、漠然と思っていました。 何年か、同じように過ぎていきました。相変わらずジョウは点滴につながれ、わたしは生き生きと遊びまわっていました。ですが、わたしは密かに、博士に呼ばれる回数が少ないことに焦りを感じていました。 周りの子は最低でも一か月に二度は博士に呼ばれて研究所で検査を受けます。テストを受けたり採血したりして、博士に褒めてもらうんだそうです。殊にジョウは毎週、多い時は三日おきくらいの頻度で博士に呼ばれていました。なぜわたしだけ呼んでもらえないのか、ただ不思議に思っていただけだったのに、大きくなるにつれてそれは劣等感へと変わり始めていました。もしかして博士は、わたしには素晴らしくなる見込みがないと思って、見放していらっしゃるんじゃないか。このまま何もされず、博士に必要とされず、どこかに捨てられてしまうんじゃないか。 だからうれしかった。 「艦、おいで」 半年前に会ったきりだった博士が、わたしを呼びました。 「はい博士」 手を引かれてたどり着いたのは、天井の高い、暗い部屋でした。耳に刺さるような高い音が、途切れ途切れにずっと聞こえていました。小さい金属がぶつかるような音も続けざまに鳴っていました。真ん中にガラスの筒がありました。見たこともない不思議なものだったので、もっとそばで見たいと思いました。博士はわたしをその筒のほうへ連れていきます。わたしの気持ちを分かってもらえたんだと思って嬉しくなりました。 博士はわたしに何本か注射を打ちました。それから太い針のついた管をいくつも刺されました。痛かったですが、採血されたという友達の話を思い出して、自分のほうがすごいことをされていると自慢げな気持ちでいっぱいでした。 博士が、筒に入るように言いました。内側も見てみたかったので、わたしはうきうきと梯子を下り、ガラス越しの博士に手を振りました。博士はこちらを見ていません。気づいていないのかな、ともう一度手を振ろうとしたとき、筒の天井が閉まりました。びっくりして端にへばりついていると、博士がやっとこっちを向きました。 「きみは誰よりも素晴しいおとなになるんだよ、選ばれたんだよ。その中で、立派な姿で、私を喜ばせてくれ」 目の前がぱちぱち弾けました。力強く、私は頷きました。博士は誇らしそうに頷き返してくれました。それからは、博士は一度もこちらを見ませんでした。 足元から水が出てきました。筒の底近くから注水されているようでした。どういうことか分からなくて、水が膝のあたりにくるまで自分の足元を見回していました。 呼吸の一回一回が、短くなっていました。お腹の奥がむずがゆく、視線の動きはぎこちなくなって、目が飛ぶように左右しました。唾を飲み込むと、そのつど鼻から息が出ました。 気づかないほうがいいと、分かっていました。つまり、分かっていました、もうすぐ苦しみがくると。 水がどんどん上がってきます。博士のために、立派な姿を見せなければならない。 しあわせなんだ、わたしはちゃんと幸せだ。これは幸せだ。 切羽詰まった興奮が、肋骨の中で暴れていました。 天井は光っていました。ライトが全面に埋め込まれているのでしょう。天井の真ん中のあたりに、黒い細い溝があって、わたしはそれを食い入るように見ていました。足の裏が痺れていました。喉の奥は縮んで、唾なんてとうに出ず、奥歯が震えていました。背骨が水を感じました。それだけでした。へそが水に浸りました。ただそれだけのことです。肘に水面がつきました。頭の奥から痺れが聞こえます。喉が水に覆われました。ふやけた笑い声が鼻の奥からこみ上げてきました。 法悦とでもいうのでしょうか。身体の中にひとつの大きな渦があるように思いました。足元から頭に向かって、竜巻のように渦は轟き上がります。小さな粒がものすごい速さで逆巻いています。砂嵐がざらざらと、背中の内側を、心臓を、喉の奥を、擦っていきます。 頭の中で、火花が飛び散りました。目の前が真っ白になりました。 泡の音とともに、冷たい耳の奥で、確信がささやきました。 これは、しあわせなんかじゃない。
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アルカディア
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アルカディア
2022年10月3日 10時53分
葉山 漉
2022年10月3日 18時38分
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葉山 漉
2022年10月3日 18時38分
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