アクア・デイズ

帰りたがっていないように見えていました

 いつものように放課後が来ようとしている。 「――ああもう静粛に、セーシュクにぃっ! ……以上で本日のホームルームを終わりますっ。ほらほらキミたち解散! 用のない人はさっさと帰るようにっ!」  小清水の所属する一年B組の担任、佐瀬(させ)瑞穂(みずほ)(二十八歳独身)に教師として足りないものを挙げるとすれば、何はなくとも「威厳」の一言に尽きるだろう。ちょっとしたことでムキになりがちな性格が災いしてか、言葉を選んで表現すれば「生徒から親しみを持たれている」し、もっと実態に即した言い方をするなら「入学してひと月の新入生にすらナメられている」ということになる。クラスのお調子者連中にしてみればホームルームなどは彼女と戯れる絶好の機会であり、そのことがために、B組の下校時刻は他のクラスのそれよりも遅くなる傾向が生まれつつあるのだった。  瑞穂先生が教室から出て行くなり、小清水は帰り支度をはじめる。置き勉しない派である小清水の通学鞄は自然、教科書やノートがぎゅうぎゅうに詰まっていて重い。 「――あら? 小清水さん、今日も早いんですね」  と、その動きに目を丸くした者がいた。  小清水が後ろを振り向くと、そこに艶やかな黒髪の少女が立っていた。 「あっ、委員長」 「翠園寺(すいおんじ)で構いませんよ」  フレームレスのメガネの奥で目を細め、少女――翠園寺莉緒(りお)は上品に微笑む。 「今からですと、次の電車が来るまでけっこう待つことになるのでは?」 「あはは。ホームルーム長引いちゃったもんね」 「わたくしがもっと皆を引き締められればいいのですが……正直、あまり得意ではないもので。佐瀬先生にもお手間を取らせてしまっているでしょうね」 「いやいや、委員ちょ……翠園寺さんのせいだなんて思ってないよ?」  とんでもない、とばかりに小清水はパタパタと両手を振る。  初日のホームルームを思い出す。学級委員を選ぶ段になって、立候補者の不在に業を煮やした瑞穂先生によって指名されたのが莉緒であった。  小清水の見たところ莉緒は充分しっかりしているし、立ち居振る舞いから独特のオーラも漂う。だが本人が「自ら音頭を取るタイプではない」と考えているのならそうなのだろうし、瑞穂先生の苦労についても半分くらいは先生が自分で蒔いた種と言える。ニンメイセキニンというやつだ。  莉緒は困ったように眉尻を下げ、肩をすくめてみせた。このお話はこれで終わりということだ。彼女は声のトーンを上げた。 「とにかく。もし大事なご用事などでしたら、遠慮なくご相談くださいね。わたくしにも協力できることがあるかもしれませんし」 「大事な用事って……たとえば?」 「ご家族とお会いになる予定とか。お急ぎならうちの車でお送りさせますよ」  そういえば一人暮らしをしていることは翠園寺さんにも言ったっけな、と小清水は思う。もともと隠すつもりもないので、家族のことに話題が及んだときはだいたい話すはめになっている。  ――それにしても、車、ときたか。  人づてに聞いたことだが、かく言う莉緒の家は、市内ではそれなりに名の通った富豪なのだという。直接会話したときに明かされなかったのは、彼女なりに気を遣ってくれた結果なのかもしれない。 「んと。そういうのじゃないの。だからわたし、平気だよ」 「そうですか? 実はわたくし今まで、小清水さんが放課後になっても帰りたがっていないように見えていましたの。それが昨日から突然変わったので、もしかしてと思ったのですが……」 「あー……うん、それはたしかにそんな感じだったかも」  図星だ。  誰もいない部屋に帰るより、授業が終わっても部活の生徒で賑わっている学校に残るほうが寂しさを感じずに済んでいたから。  しかし、今の小清水には別の楽しみがある。 「実はこの前、隣のクラスにお友達ができて。その子たちとお喋りするのが、今は楽しいんだ」  まあ、と莉緒が口元を押さえた。 「すみません。わたくし、お邪魔をしてしまいましたね」 「ううん、気にしてくれたんだよね? やっぱりわたし、翠園寺さんが委員長でよかったって思うかな~」  任命責任などと考えていたのは何処(どこ)のどいつであったか。鞄に荷物を詰め終えるが早いか、小清水は調子のいいセリフを口にする。  琴音や千尋と話しているときと同じ、頭の芯が疼くような感覚。  心のままに顔を緩めて、小清水はくるりと踵を返す。 「それじゃあ翠園寺さん、また明日ね!」 「ええ、お気をつけて」  誰かが開けっぱなしにしていった扉を潜り、小清水は教室を後にした。  残された莉緒がいつになく嬉しそうな表情を浮かべていることなど、もちろん小清水が知るよしはない。 「二人とも、お待たせ!」  そして小清水は、A組の扉を開ける。  とっくにホームルームの終わったA組の教室から担任は既に去っており、居残っている生徒も(まば)らだ。その数少ないうちの二人である琴音と千尋が、小清水の声というよりは扉の音に反応して顔を上げる。 「なかなか騒がしかったな。こっちまで声聞こえてたぞ」 「まぁ瑞穂センセー、からかい甲斐ありそうだもんなー」 「……わたしがからかってるワケじゃないよ?」  小清水は苦笑したが、その瑞穂先生は「用のない人はさっさと帰るように」と言っていたので、こうやって駄弁っているのもお達しに反することとは言える。  が、電車が来る時刻まではまだ猶予があるのだから、もう少しこうしていても罰は当たるまいと思う。 「さて。けっこう時間空いちゃったな」 「三〇分くらいだな。ま、ちょうどいいだろ」  琴音と千尋も、考えていることは一緒らしかった。 「昼休みはパロットファイヤーを紹介したから――」  琴音が机に雑誌を広げる。 「次は、こいつだな」  開かれたページには、さながらアフロヘアーのような瘤を頭の上にくっつけた、紫がかった鱗を煌めかせる魚が大写しになっている。

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