境界線上の魔王

読了目安時間:6分

エピソード:72 / 193

6-16 琥珀の瞳の水底に

「――お待たせ、いたしましたわ!」  文字通り、嵐のように現れたクリスが、剣を握る腕を嬉々として突き出した。あまりにも刹那の出来事に、尾を半ばから失った使者たちがわずかに動揺をみせた。  その躊躇いと間隙を傍観するほど、クリスは甘くはなかった。かるい靴音をたてたクリスの体が、放たれた矢のような勢いで使者たちへと斬りかかった。 「ちょっ……ちょっと?!」  遠ざかるクリスの背へと、レベッカが当惑の声を投げかけた。  その動きを窘めるかのように、マリーが小さな腕をすっと伸ばした。 「大丈夫ですよ。クリスは強い子ですから」 「そうじゃなくて――」 「なぜ助けにきた……ですか?」  音もなく振り返ったマリーの紅色の視線が、間近で響きわたる剣閃よりも鋭く、レベッカを射抜いた。 「勘違いしないでください。あなたが信頼に足るかどうかは、今後のあなたの振る舞いひとつです。今は、先んじてあちら側の対処をすべき時、というだけですので」 「…………」  まあ、そうよね。と、レベッカは落胆しながらもどこか安堵していた。  客観的に見れば、ヒトが自分を信頼するに足る材料などどこにもない。この状況だけを見て、一方的に信頼を寄せてくれるような相手なら、味方になったところでむしろ心配になるだけだ。  強硬派として女王派を裏切り、面倒事を避けるためにノインを裏切り、あらわれた使者をも自分自身の判断で裏切った。  今までの自分であれば、力で勝てる相手は蹂躙し、負けた相手には服従する。そうして生きていくことに、なんの疑問もなかった。  ……どうも、ヒトたちに破れてから先、あれこれと余計なことを考える時間が増えた。何より悩ましいのは、その「余計なこと」こそが、じつは正しい手順であったのではないか、と思うようになってしまったことだった。 『――これから唯々諾々とやつらに従うつもりなのか?』  ノインの声が、薄く長く頭のなかで反響する。 「私、どうするべきなのかしらねえ……」  身の振り方を定めること。  それは、龍とはいえ、生を受けて間もないレベッカにとっては、容易に見出すことのできる問いかけではなかった。 …… ………… ……………… ……………………  空を舞うクリスの口元がかすかに、だが確かに綻んだ。  体が、軽い。  手繰る夜風の一筋が、まるで自分の手足のように動いてくれる。  それだけじゃない。相手がどこにいるのか、何を仕掛けてくるのか、視覚より早く風が教えてくれる。私はそれに従って、剣と体を揮うだけでよかった。  戦闘中における些細な躊躇は、とくに私のような風魔法の使い手にとっては大敵だ。一流の使い手は、流れ行く風向きの不自然な変化を鋭敏に感じ取って、その先を読む判断材料にしてしまう。  機動力を武器にする者が、その原動力である風を信頼していないと知られること。相手にとって、これほど有利を意識することはない。 ――だから、躊躇ってはいけない。たとえ尽き果て、魔力が枯れ落ち、心が焼き焦がされようとも。  ふたたび笑みを浮かべたクリスを前に、龍の使者たちは苦々しげに言葉を失っていた。  およそ感情というものは、総じて不要な要素である。と、龍たちはかねてから考えている。  様々な判断を下すにあたって、そのような曖昧な基準が介入してはならない。畏れは動きを鈍らせ、不遜は勝機を取りこぼす。ひたすらに正確なだけの思考が、すべてにおいて正しいのだ、と、目の前の少女の愚直とすらいえる猛攻に姿勢をあらためた。  その思考そのものが、感情の揺れに他ならないということに、彼等は気がついていなかった。  その眼前で、クリスの輪郭がゆらりと揺れて、ひと息のうちに姿を消した。いっせいに視線を転じた使者たちが、闇から溶け出すように現れたクリスの姿をとらえ、展開していた攻撃魔法の照準をさだめる。  と、クリスに先んじて吹き荒れた風が、使者たちの魔力の矛先を狂わせた。  刃のように殺傷力のある風ではない。ただ、通り過ぎる先にあるものを洗い流す、それは精霊の悪戯のような。展開前の魔力はおろか、身を守る魔力すら突き動かしてしまう風だった。  その風の後方からあらわれたクリスが、線上にいた使者へと斬りかかった。肩から突進する姿勢から振り抜かれた、鮮やかな紅色の剣が空を裂いた。爪を持ち上げてそれをいなした使者の視界の隅に、対比するような紺色の白刃がうつりこんだ。  見開かれた瞳孔の内側で、火花と金属音が弾けた。  軌道の異なる二本目の剣閃を受けそこねた使者の体が、ぐらりと平衡を失った。一撃離脱するクリスの後背から、またしても風が吹き荒れて、背を向ける彼女への追撃をしたたかに阻む。  機をのがした使者が、魔力の展開を中断して守勢に転じる。風から身を守るように目を細める使者が、まとう覇気をやらわげた。  当人すら自覚できないほどのわずかな安堵を浮かべる目の色を、クリスは見逃さなかった。瞬間、ぴたりと止んだ風が、凄まじい勢いで逆風に変化した。  その渦の中心に身を乗せて、クリスの剣が腰の引けた使者へと強襲した。  刹那のさなか、使者は確かにそれを垣間見た。邪気の欠片もなく嗤う少女の、その瞳から溢れるどす黒い魔力を。 「……っ!!」  二度の猛攻を受けた使者のもとへと漸く加勢が介入すると、クリスはふわりとその矛先を変えた。地を蹴り宙を舞い、クリスの姿を視認しづらい位置にいたであろう、最後尾の使者へと、息つく間もなく剣を振り下ろす。  流麗とすら形容できるような、息をつく間もない攻勢の前に、使者たちははっきりと手段に窮していた。  その光景を遠巻きに眺めていたマリーとレベッカが、にわかに眉をひそめた。 「ね、ねえ……あの子、なにかおかしくない……?」  震えるレベッカの声が、先程までとは意味の異なる動揺を表していた。 「…………」  無言を貫くマリーの態度と表情が、その問いかけに同調するようにさざめいていた。  邂逅の当初こそ、いつでも介入できるよう身構えていたマリーであったが、クリスが優勢になるにつれ、険しい表情がより鋭く引き締まっていった。クリス自身、覚悟と懸念を重ねていたはずの魔力はむしろ重圧を増し、剣と一体化するような体捌きも、緩むどころか研ぎ澄まされていく。  ……クリスの戦士としての強みは、剣術、風魔法、治癒魔法が高い水準で調和している点にある。  破壊力の高い攻撃魔法や、魔法の応酬による遠距離戦を不得意とする一方、近接戦闘、特に遭遇戦や乱戦では無類の強さを発揮する。  魔力効率の悪い放出系の魔法はほぼ行使せず、身体強化と防護魔法を帯びた体を風に乗せて叩き斬る。単純がゆえの戦術は、能率と効率の両面において凄まじく優秀な水準にあった。  ただし、その単純さゆえ、セイジや緋色級の龍のような、理屈を越えた規格外の能力をもつ相手には通用しない。近接戦闘を主戦場とする以上、どうしても反撃を浴びやすく、薄皮一枚で均衡を保っている防護と回避が一方でも揺らぐと、そのまま敗北に直結しかねない危うさを秘めている。  それが、セイジやマリーが下した、クリスという騎士の評価であった。  実際はどうであろうか。レオンとレフィリアを圧倒した青色級が四体、マリーを追い詰めた緋色級が一体。計五体もの龍族を相手に、単身、互角以上に渡り合っているではないか。  じわりと滲み出るような不安のさなか、マリーは確かに見た。  纏う魔力すら振り切るほどに揺れる、恐ろしい速度で空を駆るクリスの瞳が、見紛いようもない、黒い煙を燻らせていたことを。  それは、誰よりもマリーがよく見知っている黒い魔力。セイジをして使うことを躊躇う『カオス』と呼ばれている力に他ならなかったのだ。

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