時は、少し遡る。 「それ」が訪れたのは、セイジが旅立ってから二ヶ月ほどあとの、風の強い日であった。 黄昏を鈍らせた曇り空は、夜明を霞ませ、今なお陽の光を遮っていた。白と灰と黒、三色の絵の具を無秩序に散りばめたような底なしの曇天に、むろん意思などはない。しかし、その下で暮らすものたちの心境を慮ることもなく、晴天を求めて空を見上げた者たちの瞳に、鈍色の光を映しつづけた。 降り注ぐ陰の影響は、それを仰がぬ王宮のなかにあっても、なお甚大であった。 「――だから、あたしが行くいうてるやん」 「駄目だって言ってんだろ。どこの世界に、亡命してきた国の女王様を戦地に送り込む国があるんだ」 「そんなん言うてても、具体的に戦力が足りてへんねんやろ?」 「駄目だ」 「…………」 反復された応酬は、もはやその回数を数える意味を亡失しつつあった。 ……ある日、レオンの部屋に差し入れをしたマリーの手料理を、いつものように居合わせたレフィリアがいたく気に入り、ある日のクリスとの話題にて持ち出した。それを聞きつけたポーラがヘイゼルを呼び寄せ、呼ばれていないがレベッカもやってきた。 そうしていつしか定着した、昼餉ついでの顔合わせの時間。それぞれの職務に人心地つけ、和気藹々と弾ませる会話の眼下に並ぶ品々は、むろんすべてがマリーのお手製である。寒いなかでも英気をと、暖かいものを中心に並べられた料理の数々が、食卓を代わる代わる彩った。味はもちろんのこと、見目も麗しいその仕事ぶりに、レオンたちの胃袋はたちまち陥落した。 その日も、いつもの時間に、いつもの顔ぶれが揃った。馴染んだ座席で談笑する面々に破顔しながら、マリーが配膳をはじめる、なんら変わりのない光景のはずだった。 ただひとり、レオンだけが鬱屈とした雰囲気を崩すことなく、ひたすらに手元の書類を睨み続けていた。着席したマリーが声をかけるも、返ってくるのは中身のない相槌ばかりである。 「……ちょい、レオン」 見かねたポーラが、手にしていたカップを少し傾けて、苦々しげに口を開いた。 「…………?」 「部屋にまで押しかけといてあれやけど、今は切り替えて食事しようや。こっちまで息詰まってまうで」 諌めるようなその声に、平時であれば淡々と返す。発言者であるポーラ自身も、伝わりさえすれば、との思いであったのだが、返ってきた反応は予想だにしない、有り体に言えばひどいものであった。 「お前には関係ない話だ」 「……あ?」 瞬きと逡巡ののち、放たれた言葉の意味をようやく飲み込んで、ポーラは勢いよく立ち上がった。食器を置く音が高く響いて、穏やかな空気に電撃が走り抜けた。出来たばかりの料理から心地よく立ち昇る湯気が、ふたりの間をさりげなく霞ませたが、開かれた戦端は収まりをみせなかった。 「ラフィアの国境線の戦力の件やろ? 昨日も言うたけど、あたしが抜けたからできた穴や、あたしに関係ないわけないやろ」 「補足しよう。フェルミーナの庇護下に入った今のお前には、関係ない話だと言ってるんだ」 「他のフェルミーナの騎士は派遣されてるやん。あたしが行くのもおかしい話やないやろ?」 「…………」 返答がわりに放たれた溜め息が、ポーラの眉をいっそう険しく顰ませた。レオンの隣に座るレフィリアも、ポーラの隣に座るヘイゼルも、それぞれ口を挟む時機を見計らいつつ、好機を見いだせないでいた。 「はい、はい。ふたりとも、まずは冷めないうちにお食べなさいな。マリーに失礼でしょ?」 唯一、割って入ったのは、それこそ事態と無関係であろうレベッカであった。長音の似合う抑揚に反して、紅色の瞳をぎらりと光らせて、ふたりを一瞥した。 剣呑な雰囲気は、既のところで破裂を逃れた。ようやく始まりを告げた食事の時間は、だが、会話によって彩られることはなかった。生まれた沈黙の端々を、食器の音が重々しくも冷たく埋めた。 ……セイジの旅立ちは電撃的ではあったものの、目的は事前に、かつ明瞭に定められていた。 それに対して、フェルミーナの王宮に残された面々の目的は、その筆頭が『龍への対抗』という、ひどく曖昧なものであった。 めくるめく戦闘を乗り越えた面々は、それぞれ燃えるものを抱いて修練に励んだ。『いつか訪れる強大な敵に対抗する』という命題に、当初は各々真剣に取り掛かったものの、真剣が深刻に変貌するまで、さほどの期間すらも要することはなかった。 心意気も新たに、と言えば華麗に聞こえるが、心意気以外については、今までの日常となんら代わり映えのないものであることに、みながそれぞれ悟ったのだ。 同時に、そういった時にはいち早く方針を転換させ、指示を飛ばすべきであるレオンの動きが、今回に限ってはひどく凡庸であることにも気がついた。 理由は明快にして簡潔であった。 何ということはない、ただレオンが多忙を極めた、というだけのことである。 史書のページをめくるかのように、ぱたぱたと舞い込んだ事件や事故、それに巻き込まれるうえで『しかたがない』と諦めていた仕事の山々に、レオンは久方ぶりに向き合っていた。国王ジーンが吐血してからというもの、父の執務室から書類を奪うかのように持ち出して捌きはじめ、傍目にも献身を飛び越え、常軌すら逸脱する様相をちらつかせていた。 そんな折、ルーレインから文が舞い込んだ。旧ラフィア領から侵入する魔物の数が日々増加傾向にあるという、報告の体裁で飾られた実質の救援要請であった。 ルーレインには、ポーラが魔物を討伐していたということを報告しなかった。居合わせたレフィリアもまた沈黙を保っていたので、そこに対する追及まではなされなかった。罪悪感を微震させつつも、これ以上、ポーラ個人の責務に国の事情を絡めたくない、という思いが、当初の意思を貫徹させた。 ひとまず筆をとったものの、ルーレインにとっての主題であろう援軍については、即日の断言を避ける内容にとどまった。 そもそも、レフィリアをけしかけたルーレインのやり口に、かねてより報いをとらせようと画策していたのだ。憂き目に立ち向かう悲鳴をかたどった文面を見下ろす瞳に、嘲るような仄暗い色が宿るのも、無理からぬことであった。 むろん、感情論だけの名分ではない。『龍の襲撃に備え、主要な戦力は手元に置いておきたい』という、深刻な理由を抱えていることも事実である。しかし、言い出せない。伝わるはずもない。 もとを正せば、隠すことを選んだのはこちら側である点、誰を責めるわけもいかなかった。 正答を求めて逡巡を繰り返し、そのたびに挫折した。高い理性によって押し止められていた感情が、打破しえない現状と向き合ううちに、満を持して沸騰をはじめた。それが露出しなかったのは、山積する書類によって、ただ隠されていたにすぎなかった。 庇い続けたポーラに対して感情をぶつける矛盾にさえ気づかないほど強く、レオンは自分を喪失していた。 優秀であるがゆえ燻る葛藤は、気の置けない仲間たちを前に、その日、静かに決壊した。それだけのことであった。 一同の食事が無言のままに終わりを迎えると、張り詰めた空気に揺蕩う音が、いよいよゼロに等しくなった。 誰しもが何かを言い出そうとして、しかし閉口する。空模様を鏡映した室内、俯く一同の目線が、いっせいに跳ね上がった。蹴り飛ばさんばかりの勢いで押し倒された椅子が、絨毯とぶつかって鈍い悲鳴をあげたのだ。 「……兄貴?」 立ち上がったヘイゼルが、ポーラの呼び声むなしく窓際へ駆けていった。尋常ならざる気配を感じ取った一同は、重い空気の余韻を振り払って、それにつづいた。 「結界に、何かが掛かりました」 白雲に向けた呟きが、しがみついた窓にぶつかって、すぐに結露した。それが喫緊の事態であることは、蒼白とした横顔が明晰に物語っていた。ヘイゼルはひとつ大きく息をのむと、揺れる視線をレオンにうつした。 「……魔力の、反応です」
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……くくく、えっ?
ぐう……ヤバイ。PC落とさねば(汁)また夜にでも来まする。
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……くくく、えっ?
2022年5月9日 12時18分
羽山一明
2022年5月9日 17時56分
すまーとふぉん活用術! UMPCでもよかですよ。
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羽山一明
2022年5月9日 17時56分
くにざゎゆぅ
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くにざゎゆぅ
2022年8月26日 19時45分
羽山一明
2022年8月26日 22時49分
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羽山一明
2022年8月26日 22時49分
うさみしん
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うさみしん
2023年2月15日 4時50分
羽山一明
2023年2月15日 7時32分
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羽山一明
2023年2月15日 7時32分
うさみしん
ポーラたん、妹思いのいい兄貴が居て良かったであります。拙者にはこんなピュアピュアな関係は掛けないので、色んな意味で羨ましいでありますぞ押忍。
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うさみしん
2022年7月19日 3時46分
羽山一明
2022年7月19日 8時03分
見ようによっちゃかなり危ない兄妹なので、なかなか。種違いですし。
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羽山一明
2022年7月19日 8時03分
御団子あいす(活動休止中)
レオンの奔走っぷりは後々、無理がたたり他の急務に支障が出そうですね。有能な文官がいればよいのですが。 不穏さが音を立てて、飛び込んでくる気配。次話も注視いたします。
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御団子あいす(活動休止中)
2023年1月8日 12時37分
羽山一明
2023年1月8日 19時24分
有能な文官とは華やかな立ち位置ではありませんので、仮に不在となれば、その抜けた穴は計り知れませんね。家族経営じみたところもある国なので、代替は難しそうです。
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羽山一明
2023年1月8日 19時24分
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