楽しげに響く部屋の中の喧噪が、遠く後背から滲んで聞こえる。 王宮の一郭から突き出るように建てられたテラスを、ひやりとした夜の風が通り抜けた。欄干のそばに立ち尽くしていたマリーが、巻き上がった銀の髪を気にもとめず、朧雲に消えては浮かぶ月の光をじっと見つめていた。 「隣、お邪魔しても?」 横合いからあらわれた声に、マリーは天空に向けていた視線をゆっくりと下ろした。きらびやかな無礼講のさなか、ひときわ目を引く黒と白の軍服に身を包んだレフィリアが、手に持っていた二脚のグラスを掲げてみせた。 「ええ、どうぞ」 「感謝する」 ひとつ微笑んだレフィリアが、卓上に据えられていた葡萄酒の瓶をあれこれと吟味して、そのうちのひとつを手際よく開栓した。並べたグラスに鮮やかな紫色を注ぎこむと、脚をマリーのほうへとそっと押し出した。無理に勧めるわけでもなく、手のひらでグラスをさししめす仕草だけみせて、おもむろに自分のグラスを傾ける。 細く長い吐息につづいて、夜の下によく似合う静寂が、場をそっと包み込んだ。 「騒がしいのが苦手なのか?」 「そうですね。それもありますが、私の知らない方たちばかりですので……」 「ふむ……」 溜め息のような返答を返して、レフィリアはグラスを傾けた。吹き抜ける風だけが、うつろう時を示すような。 面識から間もなく、直接の会話をすることはまるで初めてのふたりであったが、不思議と馴染むような雰囲気がそこにあった。 「……あの。レフィリアさん」 何かを思い詰めたかのように、欄干を見つめていたマリーが声をあげた。 「レフィリアでいいよ。なんだ?」 「私のこと……怖くはありませんか?」 直後、ひときわ強く吹き抜けた風が淡い雲を押し出して、揺れるマリーの銀髪と灼眼を月光のもとに照らし出した。燃えるように力強く美しい瞳の奥が、思いの行き先を求めているかのように、どこか力なくさざめいていた。 欄干に置き去りにされたグラスの隣で、レフィリアはおもむろに軍帽を外すと、思考のリズムをとるように胸のあたりではためかせた。オレンジ色の照明にさらされた前髪が、ぱたぱたと扇がれる軍帽に煽られてゆらゆらと揺れている。やがて動きをとめた手のひらが、軍帽を掴んだまま髪をくしゃくしゃに掻き回した。 「ううむ……それはなんとも、騎士のような言葉だな」 「騎士……?」 無言で佇むふたりの視線が重なり合った。なにかを言いかけたマリーの機先を、レフィリアの言葉が制した。 「その悩みは、私たち騎士にとっては特別ではないのだ」 「……すみません、どういうことですか?」 「時に私たちは、魔法を使えない市民の目の前で、大規模な魔法を使うこともある。人命のため致し方ないことではあるのだが、怖がらせることはしょっちゅうだ。返り血など浴びた日には、化け物より化け物を見る目で怯えられることもある」 「…………」 「しかたのないことだ。恐怖心まで守ることができればよりよいのは当然だが、なにより優先するのは安全だ。強者ほど抗うことのできない、さながら魔物のようなものだ」 「そう……ですね……」 レフィリアの言葉は、遠回りながらマリーが恐れた解答を明示していた。視線を沈めたマリーに向けて、レフィリアが静かな憂いを浮かべた。 「しかし……だからこそ、守られた身として述べておく言葉がある」 軍帽を胸に押しつけて、レフィリアは深々と頭を下げた。 マリーの表情を窺うより先に、マリーの力に恐れる前に、表明しておく感情があると思ったのだ。 「……私と私の友人たちを守ってくれて、感謝する」 「そんな……とんでもないです。私も反省すべきところがありました。もう少し到着が早ければ、被害はもっと抑えられていましたし……」 「被害者が、被害の程度に自責の念を抱く必要はないさ」 薄く笑って、レフィリアは顔をあげた。喉の具合を確かめるようにグラスを手にとると、残されていた葡萄酒をついっと飲み干した。 「それにしても、本当に騎士のような考え方だな。セイジどのの薫陶か?」 「……わからないです。そもそも、他の騎士の方々とお話したことがないので……」 「それは幸運と言うべきだろうな。先の話はさて置いて、あの人は英雄だよ。騎士とはいささか自己の命を投げ捨てることに美学を見出す傾向にあるが、正しいはずのその理念は、死の瞬間に無価値に変わる。セイジどのほどの実力が伴えば、その理想論を現実にできるだろう」 「セイジはとても英雄の器なんかじゃないですよ」 「そうなのか? しかし彼は――」 何かを言い掛けたレフィリアが、ふいに口をつぐんだ。視線の先、造形物のような白磁の表情で月見に耽っていたマリーの顔つきが、言葉と相反してやわらかな笑みを帯びている。浮かび上がった感情と逡巡を顔に出さないように、レフィリアは浅く短い呼吸を挟んだ。 「間違っていたらすまないが、きみはセイジどののことを憎からず思っているのだな」 「――っ?!」 緩みきっていた表情が、思い出したかのように色を失った。伝えられた言葉の意味がわからない、とでも言いたげな端正な唇が、むなしく開閉を繰り返した。その反応そのものが、言葉に先んじて返答をしめしていた。 「ふふふ、殿方に向ける視線に嘘はつけんよ。私も一応、女だからな」 言いながら、レフィリアは葡萄酒を注いだグラスを眼前に掲げた。透き通る色をした液体の向こう側で、マリーがかるく小首をかしげた。 「飲むといい。酒は人をいくらか素直にさせてくれる。いくら思いを募らせても、それを誰かに伝えるには言葉にせねば始まらないだろう?」 「…………はい」 忙しげに表情を様変わりさせたマリーが、長い沈黙ののちにグラスを持ち上げ、傾けた。半分ほど注がれていた葡萄酒をひと息に飲み干すと、落ち着きを取り戻したような深い溜め息を吐く。 「あ、おいしい……」 驚きと色気のまじった感嘆符をこぼしながら、卓上に並べられたボトルに手を伸ばす。妙にあざやかに開栓すると、流れるような動作でまたそれを注ぐ。動揺を隠しきれずふらついていた視線が、食い入るように酒だけを見つめていた。 満足げにそれを見つめていたレフィリアであったが、それも長くは続かなかった。 「お、おい……いくらなんでも、それは……」 卓上に林立していた深い紫色のボトルたちが、次々と透明なボトルにすり替わっていく。いずれも度数は高くはないが、文字通り浴びるように飲み進めるさまを見て、今度はレフィリアが動揺をあらわにした。 「ふふふ、これも美味しいですねえ、うふふふ……」 「ちょ……っと待て、いま、セイジどのを呼んで――」 「あ、私もセイジに逢いたいー……」 言うなり、マリーはレフィリアに先んじて立ち上がると、呼び止めもむなしく駆け出した。 「……しまった。ああいう酔い方をする人だったか……」 ひとり残されたレフィリアは、苦々しげに軍帽をかぶりなおすと、足早にマリーのあとを追っていった。
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くにざゎゆぅ
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くにざゎゆぅ
2022年7月8日 20時25分
羽山一明
2022年7月8日 23時24分
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羽山一明
2022年7月8日 23時24分
うさみしん
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うさみしん
2023年1月4日 7時17分
羽山一明
2023年1月4日 9時10分
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羽山一明
2023年1月4日 9時10分
秋真
ビビッと
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2022年7月6日 14時17分
《「飲むといい。酒は人をいくらか素直にさせてくれる。いくら思いを募らせても、それを誰かに伝えるには言葉にせねば始まらないだろう?」》にビビッとしました!
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秋真
2022年7月6日 14時17分
羽山一明
2022年7月6日 17時47分
秒で後悔することとなりました。
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羽山一明
2022年7月6日 17時47分
うさみしん
欲を言えばッ! 欲を言えばレフィリアには本格的な飲み会に発展する前に、ドレスか何かにお色直しして欲しかったでありますッ! 何故かそんな事をふと考えてしまった酒宴の席であります押忍!
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うさみしん
2022年6月7日 6時12分
羽山一明
2022年6月7日 9時05分
レオンもレオンで指摘したのですが、自分はあくまでよそ者だから、という思いが少し、レオン以外に女性らしさを見せたくない、というのが本命だ、という言葉を返されて何も言えなくなりました。
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羽山一明
2022年6月7日 9時05分
星降る夜
ビビッと
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2021年9月28日 20時32分
《「ふふふ、殿方に向ける視線に嘘はつけんよ。私も一応、女だからな」》にビビッとしました!
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星降る夜
2021年9月28日 20時32分
羽山一明
2021年9月29日 3時33分
格好いい女性がふと見せる隙が大好物です
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羽山一明
2021年9月29日 3時33分
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