レオンがレフィリアの部屋を飛び出してから、およそ一時間が経過した頃合。 広い部屋の大きな卓上に書籍と書類を広げて、レフィリアはいまだ調べ物を断行していた。気迫を取り戻したレオンに奮起されたのか、はたまた単なる意固地なのかは定かではないが、兎も角手がかりになりえそうなものを片っ端から手にとり、読み漁る。 ただひたすら、そればかりを繰り返していた。 「ん……?」 何度目かの溜め息の直後、かすかに扉の震える音が響いた。気のせいかと一度は視線を落としたレフィリアであったが、直後にふたたび扉が叩かれて、あわてて顔をあげる。 「アリアか、空いている。入っていいぞ」 レオンなら、扉を叩くだけ叩いて勝手に飛び込んでくる。それ以外となると、ひとりしかいない。 少しの間をおいて、制服姿に身を包んだ栗毛の侍女が姿を見せた。 幼少時の頃から、レフィリアとは友人のような付き合いを続けてきた侍女アリアであった。別邸へ向かった他の使用人たちを見送った彼女は、本邸にひとり残って、レフィリアたちの身辺の世話を続けていたのだ。 「失礼します。お客人がお見えですよ」 「客人…………?」 レフィリアの反応がにぶいように見えるのは、思い当たるところをさぐる考慮が半分、眠気半分である。 「なんでも、国境警備隊の衛兵さまがたのようでしたけど」 「……国境警備が、いち貴族の邸宅になんの用だ」 「さあ、私にそこまでのことは……」 軍人らしい堅い表情をさらに険しくさせて、レフィリアは顎に手をあてた。 ――私達が抜けたことによって捌ききれなくなった魔物たちへの警戒かなにかか。 ラフィアの住人たちを直接目撃された可能性は無いに等しいとは思うが、小役人というものは大なり小なり妙なところで鼻がいい。注意するに越したことはないだろう。 「お忙しいようでしたら、ひとまず応接間にお通ししておきましょうか」 「いや、いい。私が直接出迎える」 「かしこまりました。では、どうぞこちらを」 立ち上がったレフィリアに、蒸気の揺蕩うタオルが差し出された。主人が寝ぼけ眼をふき取る間に、侍女は軍服を手にとって、うやうやしく差し出す。 「……帯剣されるのですか?」 「ああ。いちおうな」 素手で出歩くことに不安を覚えるほど、わが領地の治安は劣悪ではない。 しかし、国境の状況次第では、そのまま迎撃に出る可能性もある。襲撃とやらがいつ来るかも不明なのであれば、現地が戦地という思想で進むほうが話が早そうだ。 留め具を着け終えて顔をあげたレフィリアの視線に、不安そうに顔を曇らせたアリアがうつりこんだ。 「そんな顔をするな。無茶はしないさ」 「もう十二分、無茶されていますよ……」 「心外だな。レオンみたいなこと言ってくれるなよ」 薄く笑って、レフィリアは颯爽と外套を羽織った。部屋をあとにした主人の背中を見送ったあと、アリアはその場でふと首をかしげた。 「そうだ。レオンさまにもお報せしないと」 踵を返したアリアは、長く広い廊下を、迷いのない足取りで歩き始めた。ややあって辿りついた書庫の扉をかるく叩いて、一歩後ろにひかえる。 「……あれ」 もう一度。しばらく待つが、やはり応答はない。 わずかな扉の隙間からこぼれたオレンジ色の灯が、無人ではないことをしめしている。やや躊躇いながらもそっと扉に力を加えると、木の軋む小気味のよい音とともに、扉はあっけなく開いた。そのことに自身で動揺しながら、後ろ手に扉を閉める。 「レオンさま~……?」 か細い疑問符のような呼びかけに、静謐が応答した。 中心に据えられた卓上にゆらめくランプの隣に、書きかけのメモとペンが置かれている。 それ以外、動くものはおろか、人の気配すらもない。 「奥のほうかなあ……っ!」 あてもなく歩を進め、何気なく覗き込んだ本棚の奥の光景に、アリアは言葉を失った。 行き止まりのはずのその先、冷えた石の壁の一部に、人ひとり分ほどの亀裂が空いていたのだ。 息をのんで立ち止まると、静寂のなか、かすかに人の声が聞こえてくる。 「……この、奥だ」 立ち止まり振り返っても、相談する相手などいない。主人と、主人の不在を知らせる人のほかに、誰もいるはずがないのだ。 意を決して、アリアは亀裂へと身をすべらせた。 胸に手を押し当て、もう一方の手を冷えた壁に這わせながら、灯りも手がかりもない通路の先、かすかに見える淡い光だけを頼りに歩き続ける。 『――やはり―――せん――ジ――』 足音をたてないようにゆっくりと進むにつれ、声の節々が徐々に聞き取れるようになっていった。 小さく呻くようなその声を、アリアはよく知っていた。 その直後、気の緩んだ足元が、硬い石畳をわずかに踏み外した。叫び声を押し殺すことには成功したが、勢いよく踏み抜かれた靴音だけはどうしようもなかった。 狭い通路にひびいた高音に、椅子を引くようなにぶい音がつづいた。 『――レフィリアか?』 「あっ……いえ、私です……」 訳有りなのであろう、この空間を見てしまった負い目から、アリアは即答できなかった。 間をおいて名乗りをあげたのは、レオンのものであるはずの誰何の声が、あまりにも冷え切っていたからである。 姿を見せるべきかどうかと躊躇っていると、狭い出入り口を埋め尽くすような体躯をした男が、アリアの鼻先に飛び出てきた。 「……なんだ、アリア嬢か」 腰を抜かしたアリアに手を差し伸べたのは、やはりフェルミーナ国第一王子レオンハルトであった。しかし、その印象は、アリアがよく知る、万人に笑顔を振りまき、主人曰くやや軽薄な人気者のそれではなかった。 尤も、主人とレオン以外の誰かであったのならば、差し出されていたのは手のひらではなく剣先であっただろうが。 「申し訳ないです……ここ、私が来てはいけない場所ですよね?」 「屋敷の人間に言うのもなんだけど、そうなるなあ」 入り口で立ち上がったアリアの視線の先、レオンの向こう側に見える部屋には、奥手にある机を取り囲むような本棚が広がっていた。 石畳がつづいていた通路とは異なり、木の床の上に、茶色とグレーの二重線が引かれているだけの質素な絨毯が敷かれている。書庫というよりかは、書斎といった表現をすべき空間であろう。 「では、用件だけを……レフィリアさまにご来客がありまして、正門にて応対されているようですので、所用の際はそのように……」 「客人? 誰だ?」 「国境警備隊の衛兵だと名乗られていましたが、すみません、詳しくは……」 相手がアリアだとわかったからか、刃物のようなするどい気配をまとっていたレオンが、いつもの柔和な落ち着きを取り戻した。 レフィリアによく似た仕草で考え込むレオンを見て、漸くアリアも安堵のひと息を吐いた。 「階級章は見なかったか? この近辺の担当で、わざわざ顔を見せに来るってことは、一般兵じゃないと思うんだが」 レオンが、自身の左の襟元をとんとんと叩いて、位置をさししめした。はっとして考え込むアリアの仕草を見て、レオンもまた『レフィリアに似てきたな』と、表情を緩めた。 「……確か、赤い二重線の内側に、銀色の片翼が描かれていました。剃髪で、目付きの鋭い……」 「ああ、じゃあレフィリアとも顔見知りだ。大方、おれたちが抜けた穴が――」 胸をなで下ろす吉報は、だが、発言者自身の表情によって即座に否定された。つられて動きをとめたアリアの視線が、半開きのまま固まったレオンの口元に貼り付いた。 「――違う。あのおっさんは、この間の戦闘で怪我して、まだ治療中のはずだ」 「治癒魔法の使い手がいたのではないですか?」 「本人がそうだ。だからおかしいんだよ」 「では、誰が……」 返答がわりに、レオンは机に立て掛けていた剣を荒々しく掴みとって、踵を返した。と、勢い余ったのか、疲労が祟ったのか、鞘の先が机の脚に引っかかって、山積していた書籍が崩れ落ちた。 「わっ……!」 「悪い! 怪我なかったか?」 「はい、大丈夫です」 動揺しつつも、アリアは足元に降り注いだ本を拾い上げようと手にとった。その瞬間、古くなった装丁が外れて、用紙の束が乾いた音をたてて宙を舞った。 「ふっ……」 水流さながらの乾いた音を静聴し終えたあと、レオンがたまらず吹き出した。小声で『大丈夫じゃねえな……』などと言い加えられたものだから、アリアが耳まで真っ赤にするのもむりはなかった。 「笑わないでください……!」 「悪い悪い。とりあえず、束ねるだけ束ねて机の上に置いちまおう。レフィリアのほうも見に行きたいしな、うん」 もっともらしいレオンの言葉であるが、自分の感情を抑えるために、むしろ自分に言い聞かせているのだろう。その証拠に、節々に苦笑の影が見え隠れしている。 恥ずかしいやら腹だたしいやらで、アリアはさながら毛を逆立てた猫のように、反感をあらわにしている。飛びかからなかったのは、紙の束が靴を埋め尽くしているからにすぎなかっただろう。 相反するふたりの反応が薄れ始めると、ふたりは思い出したように紙を拾いはじめた。 「これ、内容が見えてしまうのですが、それは……」 静かな作業のさなか、今更ながらといった様相で、アリアは自身が差し出した紙の束から目を逸らした。 「この本は大丈夫だ。境界線の成り立ちについての私見だからな」 言いながら、レオンは紙の束に手を伸ばした。直後、その口元から、未だくすぶっていた笑みの気配が消え失せた。 握り込んだ紙の束が、アリアの指先から引き抜けない。それどころか、引き戻されているような気すら―― 瞬きにも似た逡巡の直後、悪い予感が現実となった。アリアの手首がふっと翻ると、彼女よりはるかに大柄なはずのレオンの腕が体ごと浮き上がった。 「――――ッ!」 何が起こったのかわからない。 低い天井に触れるほどにまで浮いたレオンの四肢が、漸く危機を察して宙を掻いた。蹴られた机が横倒しになって、薄明かりを保っていた唯一の光源が石畳に叩きつけられた。 からん、と、光源を包む硝子細工がひときわ短く鳴いた。 「レオンさま」 舞い落ちたレオンの腹部を、白い細腕が危なげなく支えた。口を開閉させたレオンの機先を制するわけでもなく、落ち着き取り払った様子で、アリアが口を開いた。 「いま、境界線について、とおっしゃいましたか?」 転がっていた円い光源が、ぴたりと動きを止めた。横合いから照らされた薄明かりのなか、レオンは確かに見た。 深い翡翠色をしたアリアの瞳が、透き通るような青玉の色に、蠢く生物のようにその姿を変える瞬間を。
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くにざゎゆぅ
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くにざゎゆぅ
2022年6月14日 22時25分
羽山一明
2022年6月14日 23時58分
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羽山一明
2022年6月14日 23時58分
うさみしん
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うさみしん
2022年12月16日 5時18分
羽山一明
2022年12月16日 9時49分
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羽山一明
2022年12月16日 9時49分
うさみしん
羽山センセってほんとに主人公達をピンチにするの上手い! 拙者、ピンチをひっくり返すのが苦手、と言うかひっくり返せる脳とか能が無いのでストーリーが平坦になりがちなのであります。勉強になりますぞ押忍!
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うさみしん
2022年5月17日 5時04分
羽山一明
2022年5月17日 8時32分
ゴールに誘導するようなストーリーラインでは創作できない人間なので、窮地も平坦もいつもキャラ任せです。それぞれがどういった経緯を経てそこに立ち、何を思っているのか、ということを考えると、自然と出てくる感じです。なので僕もよくわかんないです。
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羽山一明
2022年5月17日 8時32分
秋真
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秋真
2021年12月12日 8時02分
羽山一明
2021年12月12日 14時59分
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羽山一明
2021年12月12日 14時59分
星降る夜
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星降る夜
2021年8月23日 20時32分
羽山一明
2021年8月24日 4時51分
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羽山一明
2021年8月24日 4時51分
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