とめどなく降り続ける雨が、ざらついた雑音をかき鳴らしては消えていく。 前髪を伝って滴る水の隙間から、力なく佇むマリーの姿が見える。ラフィアとルーレインを隔てる銀幕を背にして、声をこぼすこともせず、その身はぴくりとも動かない。 「……マリー?」 悩んだ末に名を呼ぶが、反応はない。いたたまれなくなって肩に触れた瞬間、マリーは怯えるようにわずかに震えたあと、身体ごと倒れ込んできた。八つ当たりのように衣服を鷲掴みする手は力なく、預かる体重は羽のように軽い。 「おい、危ないぞ。あんまり近づくと──」 独り言のような警告の返答は、絞り出した涙声だった。胸にこすりつけた頭を撫でてやると、堰を切ったかのような嗚咽が溢れ出した。 小柄な体を胸の内に、ふと空を見上げた。 冷えた雨粒に晒されて、火照った顔がほぐれていく。その感覚が妙に心地よく、頬に受ける低い雨音と、時折入り混じる声高な泣き声を聞きながら、おれはゆっくりと目を瞑った。 雨は、マリーの声を隠すように、なお強く降り続けている。 …… ………… ……………… 要塞を発って一昼夜と少しが過ぎた。街道を逸れた道を隠れるようにして進めた旅路は、暗く生い茂る森を抜けた先で、その終着点を視界いっぱいにおさめた。 天を突く銀色の幕、ラフィアとルーレインを隔てる魔法の壁。威圧感と魔力はさすがに本家の境界線には劣るものの、初めてその姿をはっきりと目にするラフィアの住民たちは、厳かに佇む巨体を仰いで息をのんだ。 自国を滅ぼした天災であり、自国を封じ込めた壁であるこの無機物を前に、各々、思うところがあるのだろう。ただひとつ確かなことは、ひとたびこの壁を越えれば、もう元の生活に戻ることはできないということだ。 ルーレインにとってラフィアは、自分たちを危険な作戦に巻き込んだ仇のような存在だ。国境付近は魔力と水害で壊滅的な被害を受けたそうだし、被害者も少なからず出ている。そのラフィアの国民を快く迎え入れる義理などあるはずはない。 待ち受けているのは、地下に籠もって細々と暮らしていた過去を愛おしむ未来かもしれない。 それでも、彼らは故郷を発つことを選んだ。生活に窮した末の選択だとしても、その判断に後悔などさせない。 「みなさん、あの壁の先がルーレインです」 つづく言葉を結ぶ必要はないだろう。にわかにざわついていた空気が、ひと呼吸のうちに引き締まった。 「なあセイジ、ちょっと休憩せえへんか?」 横合いから、ポーラが遠慮がちに割って入ってきた。 「休憩? おれはいいけど、ここでするのか?」 「ん……ちょっとな、心の準備したいねん」 「わかった。準備できたら言ってくれ」 頷くなり振り返って、重々しい表情で集う住民たちのところへ駆け寄っていった。ポーラ自身、郷愁の思いはあるだろうが、その気持ちがより強い年長者を慮っているのだろう。ポーラが健在でいてくれる限り、彼らの心配は必要なさそうだ。 問題は、むしろこっちだ。 「……リュート、どうだ?」 淡い期待を込めた問いかけは、予想を裏切ることはなかった。無言のまま頭を振ったリュートとともに、ふたりして溜息をついた。 「正直なところ、どう思う?」 「なんとも言えないですねえ。人里の騒動になるようなことは避けると思いますけど、こればっかりは」 「いくら同種でも、関わりたくないって言ってたもんな」 「同種でも仲違いはしますよ。人間だってそうでしょう?」 「そうか。まあ、そうだな」 魔物たちを払いのけながらの道中、リュートがあれほど警戒していた龍はついに現れなかった。 雨雲の隙間を縫って要塞を飛び出したその夜、野営の直前に降り始めた雨を雲ごと吹き飛ばしたときも、魔力に群がる魔物のなかに龍の姿が紛れることはなかった。 「これはもう、セイジさんの魔力に萎縮している線ですかね」 「できれば死ぬまで萎縮していてほしいもんだ」 「うーん……そうなればこちらは有り難いですけど、龍としては落第ですね」 ちらりと後背を窺う。内容が内容だけに、いたずらに聴かせて不安を煽るようなことはしたくない。 「まあ、なるようになるでしょう。ここで留まるわけにもいきませんし……何ですか?」 「いや……龍ってのはもっと合理主義かと思ってたんだが、そんな適当なことも言うんだな」 「いくら合理主義でも、情報がないときはそれまでですよ。龍なんて、乱暴な言い方をすると『とてもすごい生物』っていうだけなんですから」 口角も眉もぴくりともさせずに、抑揚のない声で淡々と。砕けているのは言葉だけで、それがより身にまとう雰囲気の異質さを際立たせる。 「ただひとつ。今後龍が現れると仮定して、その瞳の色が青と緑以外、特に紅色などでしたら、戦闘は避けてください」 「……ただの興味で聞くけど、紅色はなんなんだ?」 「人の世でいうところの災害級の力をもつとされる、戦闘用の個体です。私とはべつの生物だと考えてください」 「へえ……」 人里に来ることはないと思いますけどね。と結んだリュートの言葉は、その半ばから聞き手のない独り言となった。 人間、ただの興味などと口にするときは、大抵はただの興味にとどまらない。 普段はクリスが先行しているせいで目立たないが、セイジもそれなりの戦闘狂であることは、周囲はおろか本人すら自覚していない。クリスが純粋な研鑽を重視する一方、セイジは専ら魔法の試し打ちを求めている点、目的がやや異なるだけで、周囲からしてみればむしろセイジのほうがたちが悪いかもしれない。 「セイジ、もうええで」 「ん。じゃあ行くか」 言いながら、どこか気の抜けたような声であったのは、『紅色の瞳の龍』のことを意識しているからであろう。肩を並べて歩いていたマリーだけが違和感に気がついていたが、声に出しては何も言わなかった。 見上げる光の壁に近づくにつれ、視界の色彩が少しずつ失われていく。まばらに顔をのぞかせていた草木も見えなくなり、乾いていた地面が湿り気を帯びてきた。なだらかな傾斜が生んだ窪地が、乳白色の水をたたえた水場にとってかわった。 「リュート、ヘイゼル、頼む」 振り返って、結界魔法の使い手ふたりに呼びかける。リュートはいつもどおり平然と、ヘイゼルは胃痛に耐えるように、瓜二つの顔つきが別人のように相反していた。わずかに震える肩に手を当てると、ヘイゼルは全身を萎縮させながら顔をあげた。 「やれるか?」 文面こそ問いかけではあるが、これは可否を求める問答ではない。覚悟の確認だ。 ただの一言、それ以上は口を開かない。わずかな間をおいて、ヘイゼルは、半開きにした唇を一度きゅっと結んだ。 「はい、大丈夫です」 何かと癖の強いポーラに隠れがちだが、ヘイゼルも波乱の日々から人々を守り抜いた、紛れもない勇者だ。最後の最後で物怖じする類の人もいるが、この子とは無縁だったようだ。 「兄貴、あんま気負いすぎんなや」 そのポーラが、おれとヘイゼルの間に沸いて出た。 「あかんなったらセイジがなんとかするわ。そんくらいに思っとき」 「まあ……うん……なんとかするよ」 時には国王の命に背くことすら許される天下の聖騎士も、ここでは便利人扱いらしい。しかし、顔色を窺いながら傅かれるより、これくらい適当に扱われる方が、よほど気楽でいい。 堅苦しい緊張の糸がいくらか解れただろうか。ふたりの結界使いが目を閉じると、ぞろぞろと集う住民たちの背を追いかけるように、結界がゆるやかに縮みはじめた。 より小さく、より強固に。性質を変化させた結界で、無理やり境界線を押し通る。半ば賭けのような手口だが、前例もなければ他の使い手もいないので試しようもなかった。口をつぐんで見守っていると、隣のポーラが服の端をかるく引っ張ってきた。兄を見据える瞳に不安の色はないが、小鳥のようなせわしない言動がなりを潜めているあたり、やはり緊張は隠せないようだ。 「なあ、この先のこと、なんか考えてんのか?」 「ん? ……いや、全然やなあ。考えなあかんことはあるけど、こっから先は自分らだけで決められへんこともあるし」 身を置く国すら決まっていないのだから、むりもない。とはいっても、ルーレインかフェルミーナのどちらかを納得させなければいけないのだが。 「正直、騎士ってどうなん? 食いっぱぐれとかあるん?」 「食ってくだけなら贅沢すぎるくらいの賃金はあるよ。あんまりお勧めはしないけど」 「聖騎士とかかっこええやん。何があかんの?」 「いや……」 重い面倒ごとを請け負うことも多い、と言いかけて思いとどめる。さすがにこの場でそれを口にするのは問題だろう。 「聖騎士は実用品ではなく鑑賞品、という例えがありますわ」 声とともに、上空からクリスが舞い降りてきた。結界の壁からこちらを覗き込むようにして、言葉をつづける。 「とてもよく切れる包丁は重宝されますけど、度が過ぎると使い道がなくなるでしょう? 聖騎士とは、そういった力の持ち主として、遠巻きに鑑賞するべき対象を見分けるための称号、という見方もあるそうですよ」 球状の結界の壁の上でちょこんと屈み込む姿が窮屈に過ぎるので、ポーラとともに結界から抜け出して合流する。 「正直、扱いに困るんだろうな。だから単独で彼の地に遣わされるんだろうけど」 「卑屈やなあ。マリーになんか不満でもあるんか?」 「……なんで、そこでマリーが出てくるんだ」 ふと、セイジと向き合っていたクリスが、視線を逸らしてすぐにもどした。 「ひとりがどうとか言われたら、マリーとうまくいってへん言う話になるやん。なんかあるんか? 料理が好みちゃうとか、性格きついとか」 「不満なんか言える立場じゃねえよ。確かにあいつは淡白なところもあるけど、料理も上手いし気立てもいいしだな……」 「自分にはもったいない思う?」 「……まあ、そうかもな」 なにか乗せられている気がして、反論を重ねようと開いた口をつぐむ。言葉が進むたび嬉しそうににやつくポーラの意図が読めずにいると、ふいに後ろから軽やかな水音が聞こえた。 「セイジ」 振り返る前に、声がかかる。状況を理解するのと同時に、理解しても意味がないことを悟った。 「……おう、どうだった?」 クリスとともに、ルーレイン領を偵察していたマリーが、いつもの無表情で佇んでいた。 「人影ひとつありませんでした」 淡々と、一言で言い切るや否や、まっすぐに視線を合わせたまま距離を詰めてくる。気の所為ではなく、確実にいつもより威圧感が激しい。 「それよりセイジ、さっきの言葉をもう一度……」 顔色こそ変わらないものの、急かすような声色は明らかにいつもと様子が違う。 マリーの言葉に続くように、はやし立てるようなポーラの声が聞こえる。背中から怨恨を放ちながら、ふと余計なことを思い立った。 どうせ恥ずかしい思いをするなら、マリーも巻き込んでしまえばいいじゃないか。 「……マリーは料理上手で気立てもいい、って話か?」 「可愛い、が抜けとるで」 「言ってねえよ」 「なんや? 否定するん?」 「いや……うん……いや……」 つづく言葉を繰り返し飲み込む間も、誰一人として口を挟まない。目論見の結果、赤面したのはおれひとりだった。ポーラにいいように振り回されたとあって、余計に恥ずかしい。マリーといえば、両頬に手をあててしばらく硬直したあと、ふっと表情をやわらげてこちらを見つめ返してきた。 「………ありがとうございます。セイジも可愛いですよ」 弾けるような笑顔でとどめを刺されると、またも後方から煽る声があがる。振り返ると、今度はクリスも一緒になって盛り上がっていた。 「ご馳走様でした。いいものを見せていただきましたわ」 「クリスもそんなこと言うんか。もっとお堅いんかと思とったわ」 「色恋沙汰は、他人のものを俯瞰で楽しんでこそ、と聞き及んだのですが」 「……なんや誰か知らんけど、えげつないこと教えよるやつもおるもんやな」 その発言をした当人は、この壁の向こう側でおれたちの到着を待っていることだろう。ここを越えて一息ついたあとは、報告書をまとめて、何ひとつ楽しみのない形式ばった職務を押し付けるつもりだ。 まったく、剣をふるうばかりの仕事だけなら、どれほどいいことか。 「ちょい。あんま考えすぎんなや」 「……いや、おう」 また表情に出ていただろうか。ポーラに気を使わせてしまった。 「全部終わったら休暇とって遊んでみたらどうや? どうせ考えんねんやったら、楽しいこと考えたほうが健全やで」 「そうだな、考えとくよ」 一般的には、ポーラのほうが正論なんだろう。 ただ、この作戦を除いても、考えておかないといけないことはいくらでもある。 龍の件、ラフィアの境界線の後始末、ポーラたちの処遇。 ――人の世にとどまるのか、彼の地に帰るのか。
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くにざゎゆぅ
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くにざゎゆぅ
2022年6月6日 21時07分
羽山一明
2022年6月6日 23時11分
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羽山一明
2022年6月6日 23時11分
阿暦史
冒頭何があったんや…このまま黒幕引きこもって、マリークリスポーラ…ヘイゼルリュートのマルチエンディング異世界ラブコメになるんじゃないのか…しまった!レオンとレフィリアも攻略しなきゃ…贅沢な7角関係ですね…
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阿暦史
2022年1月9日 13時06分
羽山一明
2022年1月9日 17時17分
男も攻略するのか……(困惑)
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羽山一明
2022年1月9日 17時17分
うさみしん
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うさみしん
2022年12月9日 3時51分
羽山一明
2022年12月9日 9時35分
計画通り……! ではありません。あいつらはなんか勝手に湧いてきました。なんであの時間に起きているのか、そもそもなぜ二人一緒にいるのか、そのあたりもよくわかりません。制御不能です。
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羽山一明
2022年12月9日 9時35分
うさみしん
やはり仲間内にムードメーカーがいると捗ります。他のメンバー達だけでは生まれそうにない抑揚がお見事。そういった意味ではメタ的な視点であれですけど、やはりポーラたんの役割って重要ですね。勉強になります押忍。
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うさみしん
2022年5月9日 5時33分
羽山一明
2022年5月9日 8時30分
創作っぽい子ですが、半分は責任感によるキャラ作りです。自分がしっかりしないと、みんなが沈みっぱなしになってしまう、という、王族の責務を果たそうとしているんだと思います。
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羽山一明
2022年5月9日 8時30分
秋真
ビビッと
500pt
200pt
2021年9月4日 13時47分
《独り言のような警告の返答は、絞り出した涙声だった。胸にこすりつけた頭を撫でてやると、堰を切ったかのような嗚咽が溢れ出した。》にビビッとしました!
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秋真
2021年9月4日 13時47分
羽山一明
2021年9月5日 21時07分
このくだり、次章へのキラーパスです。すみません……!
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羽山一明
2021年9月5日 21時07分
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