頭上に降り注ぐ陽光が、ようやくまどろみはじめた時期。今日も今日とて、忙しげに歩き回るマリーの足音だけがこだまする家の中。 家主はといえば、ソファに体を預けて、夢うつつにまどろんでいた。朝餉で満たされた腹部にかけられた毛布は、むろんマリーの気遣いである。力なく垂れ下がった手には、艶やかに仕立て上げられた乳白色の鞘に納まった剣が、だがしっかりと掴まれていた。 してやったり、と言わんばかりの表情と態度を前面に主張したファルマーが、一振りの剣を抱えて駆け込んできたのは、クリスと別れて二週間ほど経った頃だった。とある亜人の村のなかの、何かしらの魔力の影響を受けて枯れてしまった地下水脈を調査するという、地味ながら大掛かりな依頼を済ませたばかりの夜半。汗だくの大男に詰め寄られて口角が上がるはずもなく、ぞんざいに礼を言って、風呂と寝床だけ提供した。 翌朝、ファルマーはふらつきながら『次は死んでも手離すんじゃねえぞ』と言い残し、マリーに連れ添われて空の彼方に消えていった。 それからひと月。言いつけどおり、新しいクリスの剣は肌身離さず持ち歩いている。失くしたのも自分であれば、折ったのも自分という冗談のような事実があったからで、ファルマーの言い分に従ったわけではない。 しかし、これだけの業物を刀身を拝むことすらできずに帯び続けるのは、元剣士としてはよろしくない。今は他人の剣ということがあっても、元は手足のように扱っていた剣となれば、なおさらだ。 「…………」 ふと思い立って、そっと周囲に意識をめぐらせる。 「見るくらい、いいよな……?」 悪いことをしているわけではないのだが、思わず口にして確認した。昼下がりのこの時間帯、マリーはいつも草花の手入れに勤しんでいる。他の誰かがいるはずもないのだが、音をたてないよう剣柄に手をかけて、そっと力をこめた。 その瞬間、真後ろにある窓が乾いた音をたてた。動揺しつつ、剣を握りなおして振り返る。 誰もいない。が、いないはずがない。静寂をとりもどした窓に手をかけて、思い切り開け放った。おそるおそる突き出した頭の上に、よく知った感触を覚えて、全身を縛っていた緊張感が抜け落ちていった。 「はろー。ごきげんいかが?」 見慣れた嘴が、鼻先に垂れ下がってきた。鬼人族の族長ファルマーの片腕で、なぜか人語を使いこなす猛禽のリーゼだった。 「たった今悪くなったところだ。今日は何の用だ、リーゼ」 「や、特に用はないんだ。散歩も飽きたから、挨拶ついでに遊びにきたの」 「散歩? 仕事はどうした?」 鬼人族は、その多数が生業として坑道に入り浸っている。だが、その内部は複雑に入り組んでおり、お世辞にも快適な空間とは言い難い。地面はろくに舗装されていないし、狭苦しく薄暗い。夏は暑く冬は寒く、当然ながら勾配もある。 そこで、夜目がきき、坑道内を素早く移動できるリーゼが伝令役として重用されている。ゆえにこの子飼いの猛禽は、坑道が開かれる昼前から陽射しが傾く夕暮れ時まで、基本的には坑道内を飛び回っているのだ。 「ボクもあんまり詳しいことは知らないよ。ついこの間までファルマーが鍛冶場に入り浸ってたせいで、まだ本格的な採掘が再開してないんだよ」 「……そうか。まあ、あんまり心配かけんようにな」 「平気だってば。子供扱いしないでよ」 鬼人の里からここまでの距離を考えると、大の大人でも捜索活動が始まるようなものなのだが、彼女のような空の狩人にはそれほどでもないらしい。疲労した様子など微塵も見せず、ソファに腰掛けたおれの膝の上で、大きく嘴を開いて欠伸をしている。 「そうだ。散歩といえば、境界線のあたりまで行った時に、変な音が聞こえてきたよ」 「音? 聞き間違いじゃないのか。あんなところで音なんて……」 ヒトの世とこちらの世を隔絶するもの、通称『境界線』が阻むものは、生物の往来にとどまらない。後で知ったことだが、どういう原理か物理的に発生した音も遮断する。クリスが帰郷した際も、彼女自身のたてていた水音が、彼女の姿形が見えなくなるのと同時に不気味なほどに聞こえなくなった。余韻すらぷつりと途切れるさまを見て、境界線というものが明らかに互いの世界の干渉を抑制するためにあるのだと実感させられた。 「あんなところだからこそ気に留めたんじゃないか。見渡す限り、虫の一匹もいなかったんだよ」 「じゃあ、どこから……」 言いかけて、口をつぐむ。 境界線は、互いの世界の物理的な干渉を嫌う。だが、魔力をもつ生物がその力を操ることで、押し通ることはできる。 ――ならば、魔力の音もまた、境界線を越えることができるのではないか? 「これは、百聞は一見にしかず、か」 「ひゃく……何?」 「人の世の偉い人が遺した言葉だよ。行くぞ」 ぽかんと嘴を広げて首を傾げたリーゼを肩にとまらせて、家の外に出る。裏手にまわると、案の定マリーはせっせと園芸に励んでいた。作業の手を止めさせるのも気が引けるので、家屋の陰に身を隠して、そっと覗き込むことにした。 「へええ。マリーってあんな表情もするんだねえ」 「ほんとだよな。それで昔『虫も殺せないような顔してたぞ』って言ったら、『普段は乱暴みたいな言い方はやめてください』って怒られたよ」 「それは、君が悪いと思うけど……」 「……何をこそこそとやっているのですか」 作業が一段落したのであろうマリーが、こちらに気づいて声をかけてきた。ひとまず謎の音について聞いた限りのことを説明すると、何やら人差し指を顎のあたりに当てて俯き、すぐに顔をあげた。 「あまりよくない状況も想定できますね。準備いたしましょうか」 「ああ、頼む。むこうに長居することになるかもしれんから、そのつもりで」 「では、留守中のこの子たちはおまかせしますね」 ちょこんとお辞儀をして、マリーは小走りに家の玄関口のほうへと去っていった。 「本当に、やることが早いね。助かるよ」 「長いこと家を空ける依頼も多いからな。お互い守るものもないし、気楽なもんだよ」 そばにあった樹木の枝にリーゼをとまらせて、マリーが世話したばかりの草花を囲う柵に歩み寄った。 「守るものがない、って……マリーのことは守らなくていいのかい?」 「マリーを? おれが?」 しゃがみこんで、土に触れる。柵の先端が空間を覆い尽くすような檻を頭の中で描き、その光景が手のひらを中心に具現化するように、魔力を放出した。 薄い膜のような半透明な球体が、地面から音もなくあらわれた。間もなく覆い尽くされた空間の様子を確認して、ゆっくりと振り返った。 「あいつの命の価値は、おれの意思に左右される程度のものじゃないよ」 「そうだとしても、守る意思くらいは見せてあげなよ。そのほうが、マリーも喜ぶと思うよ」 「……そういうものなのか」 「そういうものだね」 鳥類に女心を説かれながら、家へと足を向ける。自室を物色して、目当ての品をひっつかんで家を出ると、先に待っていたマリーがいつものようにローブを差し出してくれた。短剣を受け取ろうと手を伸ばし、苦笑を返されてはじめて、それが手元にないことを思い出した。 「やはり、落ち着きませんか?」 「どっちかというと習慣だな。丸腰になること自体に問題はないとは思うが……」 「私も丸腰ですよ。お揃いですね」 抜刀することはないとはいえ、クリスの剣は帯びている。これをお揃いと呼んでいいのかはわからないが、マリーの表情が心なしか明るかったので、何も言わずにその手を握り返した。 「……おい、いつもより近くないか」 「些細なことですよ」 「…………」 些細なこと、とささやくように繰り返して微笑んだマリーを見上げて、リーゼが呆れたように視線を逸らした。 浮遊感の後を追うように、視界が白濁化する。身体の感覚が薄らいだ、もののわずかの空白の後、ふたりと一羽の身体は光り輝く壁に近しい上空を漂っていた。 「……こっち側には誰もいないね」 地上を見渡したリーゼの合図で地上に降り立ってみると、何やら形容しがたい異音が、ちりちりと耳に突き刺さってきた。リーゼの話を聞いたときは何を言っているのかまるで要領を得なかったが、いざ現場に着いてみると、なるほど確かに『妙な音』としか形容しがたい感想がじわりと浮かび上がってきた。 「見に行くまではいい加減なことは言えんが、この壁の向こう側から、誰かが魔力を警鐘がわりに発してるんだろうな」 何のために、とは、ひとりとして口に出さなかった。原因の判明は、同時に悪い予感がほぼ確実に的中していることを意味していたからだ。こちら側に呼びかけることができていることが、かろうじて最悪の一歩手前で留まっていることをしめしていた。 「リーゼ。ひとりで帰れるな?」 マリーの胸元から名残惜しげに離れたリーゼが、返事の代わりに不安げな鳴き声を出した。 「ごめんね。ボクのせいで巻き込んで」 「何言ってんだ。むしろ手柄だ、気にすんな」 「剣は必ずクリスに届けますと、ファルマーによろしく伝えておいてくださいね」 マリーにひとしきり頭をなでられたリーゼは、何度もこちらを振り返りながら、ゆっくりと北の空へと飛び去っていった。 「さて。マリー、どう見る?」 「クリスの近親者による呼びかけかと。あちらで何かよくないことが起きているのでしょうね」 「……ほぼ同意見か。じゃ、行ってみるしかないか」 人の世から見たこちらの世界は、ヒトも当たり前のように捕食する魔物が跋扈する、荒れ果てた不毛の大地、という認識が一般的である。部分的には合致する環境もなくはないし、そのような風評のある世界を好き好んで突っつく命知らずはそうはいないだろう。 だとすれば、呼びかける価値のある相手がこちらに居ることを知っている人間。つまりクリスから、おれがこの地にいることを知り得た人間だけだ。そして、クリス本人が動くことができるのなら、回りくどいことをせずに直接壁を越えてくるだろう。 「こんなに短期間に何度も境界線を越えるのは初めてですね」 「そうだな。またちょっと、家から離れることになるが……」 「構いませんよ。それより、お体は大丈夫ですか?」 「平気。何往復かはいけるよ」 「わかりました。あと、帰るついでに買い出しをさせてくださいね」 少し前に人の世を訪れた時は、予想だにしていなかった出来事で本来の目的、つまり買い出しを果たすことができなかった。口には出さないでいたが、マリーはやはり残念がっていたから、今回のことは渡りに船だと思えばそれほどの痛苦でもないだろう。 そうした軽い気持ちで、玄関口を跨ぐように境界線を越えた。 その先に待ち受けている出来事に、長らく後悔させられるということなど知らずに。
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氏家 慷
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氏家 慷
2021年8月28日 18時32分
羽山一明
2021年8月29日 8時58分
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羽山一明
2021年8月29日 8時58分
くにざゎゆぅ
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くにざゎゆぅ
2022年5月9日 20時55分
羽山一明
2022年5月9日 23時38分
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羽山一明
2022年5月9日 23時38分
うさみしん
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うさみしん
2022年11月13日 3時40分
羽山一明
2022年11月13日 18時04分
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羽山一明
2022年11月13日 18時04分
うさみしん
二人を関係性を気遣う鷹のリーゼの存在にビビッとしました押忍! 単に頭が良い鷹なのか、それとも鷹の姿をした別物なのか興味津々であります押忍!
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うさみしん
2022年4月11日 5時37分
羽山一明
2022年4月11日 11時31分
そも何歳なのかも、飼っている鬼人たちもよくわかっていないのです。パートナーの影がみえない以上、単為生殖するか長寿命かでない限り、彼らの生活に寄り添えるとは思えないので。たぶん、ベースは鳥型の魔物です。
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羽山一明
2022年4月11日 11時31分
てとら
妙な音の正体…いきなり罠ということは…ありませんよね…?( ← 予想を裏切られる前に勝手に身構えているだけであります)。 果たしてクリスと再会できるのか。そんなことより、今のクリスは剣がないから素手で闘っているとでもいうのか。戦況が気になりますね。
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てとら
2021年9月29日 0時53分
羽山一明
2021年9月30日 1時23分
人外魔境に身をおいて幾日、漸く帰郷した先に待ち受けるは罠……嫌過ぎますね。もっとも、人里で誰かが何かを企んでいたとしても、セイジだけでなくマリーもいますので、なんとかなりそうです。 クリスは、前話にてセイジから剣を借り受けています。いまはセイジが丸腰。
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羽山一明
2021年9月30日 1時23分
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